第十話 いなくなる
「あーあー、ほんっと懲りないっすねあのじーさん。」
呆れた様子で患者を爺と呼ぶデイブに、私は同意せざるを得なかった。
患者の名はマーカス・ジェイコブズ。これから膝の手術を控えている患者だ。確かもう70に近かったと思うのだが、精力旺盛な御方らしい。女性と見れば手当たりしだいに口説いているようで、そのことは私とデイブの耳にも入っていた。
それがご婦人に対する賛辞で済めばいいのだが、手を掴んで中々離してくれなかったとか、視線が気持ち悪いだとか、言葉がセクハラだ、などと、検査入院の際に担当した看護師達からは聞いていた。そのうちの一人に、「ついでにちょん切っちゃってください!」と、私に対して言わせてしまうほどには、不快な思いをさせてしまっているらしい。
そんな彼が、病室の合間にある休憩所のベンチで、肩下までの長さのまっすぐな金髪の女性の腕を掴み、今正に彼女に食らいつくのではないかと言うほど近づいて何やら語りかけていた。そのギラギラとした目と涎のたれそうな口元は、正直同じ男性として人前で晒して良いものではないように感じ、見るに耐えなかった。女性の顔はこちらからは見えなかったが、掴まれた腕いっぱいに距離を取って身を引いて、必死に断っているようだ。
「よし、じゃあドクター・ヴィットー、任せましたよ。」
「は?」
書類を挟んだファイルでぱしんと私の肩を叩いたデイブに、私は眉をしかめた。デイブはまた私の耳元で囁いた。
「せっかくだから可愛い子を助けて、ちょっといい思いでもして元気になってきてくださいよ。この際だからこれを期に、人間の女の子にも興味を持ったらどうです!ほら、見てくださいよ彼女!絶対美人ですって!」
落ち込んでいた私に気を使い、あの女性を助けろ言っているようだ。何故か、彼がその女性に絡んでいる輩と大差ない存在に思えてしまい、私は更に眉間の皺を深くした。
「いいですか?貸し一つですよ?譲るんですからね?じゃ、後ほど!」
「あ、おい!」
デイブは踵を返すと、さっさと行ってしまう。まったく、譲るって何様なんだ。と、ため息を着きながら視線を戻せばちょうどジェイコブズ氏が、女性が身を守ろうと身体の前にかざしたもう一方の手を掴み、こともあろうにその手に大きな音を立てて口づけをしたところだった。
流石にこれ以上は見ていられなかったのか、気づけば私は足を踏み出していた。
「ジェイコブズさん、調子はどうですか?」
私はベンチの後ろから、自分の担当する患者ににこやかに語りかけた。
「ああ先生、悪くは無いですよ。」
明らかに二人きりの時間を邪魔され気分を害されたようで、不満げに彼は答えた。担当医を前に、不快な態度を隠そうともしない。
「手術は明日ですが、どうですか患部の具合は。やはり一人きりの入院では退屈ですか。」
「ああそうだねぇ。退屈でやってられないよ。痛みもひどいし……でもまぁこんな美人と話せるなら悪くないねぇ……」
ジェイコブズ氏は再度表情をだらしなく緩ませて、私の存在などお構いなしにまた女性に迫ろうとしていた。
「痛みますか。それはいけない、すぐに鎮痛剤を足しましょう。それか……もしかしたら手術を早められるかも知れません。私のスケジュールを調整出来るか見てみましょう。私の方から奥様にご連絡を入れて……」
「な、なんだと!?」
彼は手術自体には及び腰であった。そして恐妻家である。手術を受けること自体、奥方に強く言われて渋々、といった様子だったのだ。
「ご心配には及びませんよ。患者の心身の健康に全力を尽くすのが我々の仕事ですから。さっそくオフィスに確認を……」
「ま、待ってくれ!あいたっ、いててててっ。」
スマホをポケットから取り出そうとした私を止めようとして、膝に力が入ったらしい。彼は膝を押さえてうずくまってしまった。手を放されたすきに、座っていた女性はさっと立ち上がって私の後ろまでやってきた。私は内心ホッと胸を撫で下ろした。彼は膝のおかげで上手く立ち回れない。よっぽどのことがなければまた捕まることはないだろう。
「大丈夫ですか、ジェイコブズさん?辛いのであればこのまま手術室に……」
「い、いいや!いい!結構だ!!放っておいてくれ!」
ジェイコブズ氏は、そのまま杖を掴んで、びっこをひきながらも速やかに病室の方へと去っていった。
彼が病室に入ったのを見届けてから、私はふうと一息つき、不運に見舞われた女性をなだめようと彼女と向き合った。
「なんとも運が悪かったですね。大丈夫でし……」
そこで、私は言葉を止めてしまった。
そのあと、彼女が何か言ったようだが、聞こえなかった。
彼女と目があった瞬間、臓物を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。
彼女はデイブが予測したとおり、美人だった。随分若い。多分まだ二十歳かそこらだろう。大きな栗色の瞳、それを縁取る金色の睫毛、すっと通った鼻梁に形の良い唇。だが……
なんだ?この「匂い」は。
ずくん、と、体中に何かが走り、自分の手がビクリと震えたのが分かった。
真っ直ぐに私を見る透き通った目、柔らかそうな肌。薄く開いた唇は艷やかだった。シャツの襟元から覗く、薄い皮膚の下に浮き上がる控えめな鎖骨と、首筋の腱。
それらから、目が離せなかった。
視界の中で彼女以外のものが霞み、彼女だけが鮮やかに見える。
それと、
甘い、匂い。
ゴクリと、自分の喉が鳴った。
そこでようやく、私は自分の身に何が起こっているのかに気がついた。
「失礼……」
私はそれだけ喉から絞り出すと、彼女の横を早足で通り過ぎた。私はこれ以上ここにいてはいけない。これは……
「あの!!」
女性が後ろから大きな声で呼びかけてきた。その声は、私に対して大きな影響力を持っていた。私の意に反して、私の足は止まる。それから半ば呆然と、私は振り返った。もう一度その姿を目に収めただけで、私の心臓は締め付けられる。
「あの……」
女性は、なにか言いにくそうに口ごもってから続けた。
「ワンちゃん、見つかりましたか……」
その意外な言葉に、私の思考がやっと元の働きをし始めた。ワンちゃん?
そうして数秒の思索の後、私は記憶から該当する出来事を思い起こすことに成功した。
「あ……あの時の……」
私は、彼女に以前、一度だけ会ったことがあったのだ。
ハニーが、行方不明になったときのことだった。
◆◆◆
ハニーと出会って、まだ二ヶ月ほどしか経っていない頃だった。ちょうど、彼女が私の語りかけに尻尾を振り始めてくれた頃だ。帰宅すれば、リビングの中央でおすわりをして待っていてくれていた頃だった。私が、彼女を撫でる時の柔らかくて温かい感触は心地いいのだと、気が付き始めた頃だ。
その日は早帰りの日だった。
いつもどおり車で帰宅して、玄関のドアに鍵を差し込んで異変に気がついた。
鍵が、開いている。
私は一度庭と表の通りを見渡した。見覚えのないものや不審な車は見当たらない。用心をしながら、ゆっくりとドアを開けた。
目に見える範囲に、特に荒らされたものは見当たらない。しかしそこで、気付く。
ハニーはどこだ?
「ハニー!」
私は、「狩り」の時以外は「人間らしく」振る舞うべきなのをすっかり忘れて叫び、家の中に踏み込んだ。人がナイフを持っていようと銃を持っていようと、私の相手ではないのである。
「ハニー、どこだ!」
私は玄関を入ってすぐのリビングとキッチンに彼女が見当たらないのを確認して、奥へと進んだ。名前を呼びながら、バスルームやパントリーの扉を開ける。パントリーのシリアルやエナジーバーが減っているような気がしたが、どうでも良かった。書斎とベッドルームへ進む。デスクの下にも、本棚の影にも、ベッドの下にもクローゼットの中にも彼女はいなかった。
「ハニー!!」
返事はない。
私は外に飛び出した。庭の隅々、家と塀の隙間や植栽の陰まで探したが見つからない。今度は名前を呼びながら、近所を走り回った。
何故だ。どうして。連れて行かれたのか?それとも誰かが入ってきたのに驚いて、逃げ出したか?もし事故にでも会ったら!いやそれとも、まさか、前の飼い主が?いや、それなら声をかけるだろう?いや、ハニーをあんなふうに置き去りにしたやつだ。まともなやつじゃないに違いない。そんなやつに渡してたまるか。いや、まだ決まったわけじゃない。ああでも、だとしたら彼女はどんなに怖がっているだろう。あんな目にあった後なのに、あんまりだ。せっかく彼女は平穏な生活を手に入れたっていうのに。私のもとで。
半吸血鬼である私の体力は、普通の人間のそれより勝っている。様々な憶測が頭の中で飛び交う中、私は人通りが少ないのを良いことに、はたから見れば異常な速さで走り続けた。
行く手に一人の女性が歩いているのを見つけた。金髪。ベージュのワンピースに、柔らかい素材のブーツ。
「ちょっと!そこのきみ!」
私はあっという間に追いついて、後ろから彼女の肩をぐいと引いて引き止めた。強い香水の匂い。
「犬を見なかったか。ゴールデンレトリーバーの成犬だ。」
女性は私の剣幕にたいそう驚いていた。目を見開いて、硬直してしまっている。
「お願いだ、教えてくれ。見なかったのかい?私の犬を。」
両腕を掴み揺さぶる私に、彼女はただただ必死に首を横に降った。
「そうか……わかった、すまない。ああ、ええと、」
私はジャケットのポケットを弄り、運良く入っていたペンを見つけて取り出した。許可も貰わずに彼女の手を取り、その手のひらに自分の電話番号を書き記す。そしてその手を両手で握り、懇願した。
「もし見かけたら教えてくれ。大切な子なんだ。どうか、頼んだよ。」
彼女は唖然としながらも首を縦に振ってくれた。
「ありがとう。」
それだけ言うと、私はまた駆け出した。
「ハニー、どこだ!」
◇◇◇
近所に彼女の影も形も無いことを知って、私は初めて他に助けを求めることに思い至った。
「今度はどうしましたか?ヴィットーさん。」
ハニーとの生活で問題がある度に電話を掛けていた若い獣医は、珍しくすぐに電話口に出てくれた。いつもは看護師が言付けてくれたあと、少し経ってから掛け直してもらっていたのだ。あまりにも頻繁にかけたからか、その口調は少し呆れ気味である。それでも最後にかけたのは数週間前だったが。
「ハニーがいなくなったんだ。」
「……ええっ?」
「帰ったら鍵がかかっていなくて、彼女がいなかったんだ。どうすればいい。」
「鍵がかかっていなかった?誰かに押し入られたってことですか?」
「わからない。家には誰もいなかった。近所を探したけれど見つからなかったんだ。どうすればいい。」
「落ち着いて、ヴィットーさん。もし強盗に入られたのなら、まずは警察に連絡してください。もちろん自分の身の安全の確保が最優先ですよ?気をつけてくださいね?愛護団体には、私が問い合わせておきます。もし迷い犬として見つかったのなら、そちらに連絡が行くようにしますから。知り合いの獣医にも声を掛けておきます。いいですね?まずは警察に連絡ですよ?」
そんなことにも気が回らないくらい、私は慌てていたらしい。私は家に帰ると、惨状をざっと確認してから、警察を呼んだ。
◇◇◇
「盗まれたのは、それだけで間違いないですか?」
吊り目気味のスーツ姿の刑事が、メモを取りながら聞いてきた。その後ろでは、青い作業着を着た別の男性が、玄関のドアの指紋を取っている。
「ああ、把握できるものはそれだけだ。」
カチャカチャと音がして見ると、別の男性がキッチンのシンクから置き去りになっていた洗っていない食器を取り出し、袋に収めていた。証拠品として持ち帰り、DNAの検出を試みるようだ。
私が見た限りでは、被害はパントリーから食料を少しと、クローゼットからトレンチコートとマフラー、それとキャビネットに置きっぱなしにしていた紙幣と硬貨が数枚。それだけだった。
いや、食料は少しと言うには多かった。シリアルや冷凍ピザの空の容器がゴミ箱から見つかったので、ここで食べていったらしい。冷蔵庫の残り物もなくなっていた。食器は丁寧にシンクにまとめられていたが洗われてはいなかった。一人で食べるには多い量なので、複数いた可能性が高い。
「それにしてもおかしな話ですね。盗みに入った家で飯食って行くなんて。」
「馬鹿にしてるな。その上証拠は残していくんだから大馬鹿だ。」
幼い印象を受けるもうひとりの刑事の言葉に、吊り目の警官が答える。確かに大胆な人物だったようだ。食器に残された唾液から判別されれば、前科のあるものならすぐに見つかるだろう。それとも、見つかる心配がないと踏んでの行動なのか。
「パソコンやカードなんかも無事ですし、やっぱり犬が目当てだったんですかねぇ……」
童顔の刑事の言葉に、私はずうんと気分が沈んでいくのを感じた。どうしてそんなことを……彼女が何をしたっていうんだ。私が何をしたっていうんだ。
私の様子に気づいてか、吊り目の刑事が力強い口調で話しかけてきた。
「ヴィットーさん、私達は全力でこの件に取り組みます。気を落とされないでください。近所の方には私達も聞いて回りますが、張り紙をするのも良いかも知れません。」
「あ、あと、もし誰かがヴィットーさんのワンちゃん連れているのを見ても、直接コンタクト取っちゃだめですからね!どこかに隠されちゃったら面倒ですから、必ず僕たちに先に連絡ください!」
「それと、万一身代金の要求なんてあった場合も、必ず私達に連絡を。」
そう交互に言って、刑事の二人は名刺を差し出した。一度名前は聞いていたが、これでやっと覚えられる。吊り目の刑事はドナルド・チェン。童顔の刑事は、ガブリエル・アナン。
「私のことはダニー、こいつのことはゲイブと呼んでください。」
吊り目の警官の言葉に私はうなずき、礼を言って握手を交わした。それから職場以外ではめったに使わない自分の名刺を書斎から持ち出して、それぞれに渡した。ダニーが言う。
「お医者様でしたか。」
「ええ、外科医です。」
刑事の二人は、一瞬顔を見合わせて視線を交わしていた。おそらく、彼らの中では身代金目的の誘拐の可能性が高くなったのだろう。
理由などどうでも良かった。彼女が、戻って来てくれさえすれば。
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