第八話 驚く
かしかし、と、玄関の扉を内側から引っ掻く音を聞いて、私は微笑んだ。いつもより心持ち急いた気分で鍵を開け、ドアを開く。
ドアが開いた途端、ハニーはいつも通り飛び出さんばかりの勢いで私の前に現れた。
だが、その直後に不可解な行動を見せた。
何かに驚いたように、彼女は急に背後に飛び退った。
床が彼女の爪に引っ掻かれて、ガシャシャ、と音を立てる。私を見る彼女の目は、これ以上無いほど見開かれていた。そのまま動こうとしない。
時間帯は違うが、いつも通りの帰宅だ。何に驚いたのかと、私は思わず自分の背後を確認してしまった。別に誰かがいるわけではない。何にそんなにびっくりしてしまったのか、皆目見当がつかなかった。
「ハニー、どうしたんだ?」
彼女はまた一歩二歩と後退ると、片足を上げたまま頭を上げたり下げたりする。そして、左右にウロウロと動きながら、ヒクヒクと鼻を動かしている。私の臭いを確認しているようだが、何かに困惑しているようでもあった。そして、距離を縮めようとしない。警戒されている?
私はとりあえず背後のドアを閉めた。そのために一歩前に踏み出したが、ハニーはその分二歩下がる。私は、愛しい恋人に出迎えてもらえないショックを隠しきれなかった。
「ハニー……」
私は悲哀に満ちた声で彼女を呼びながら、彼女を迎え入れようとしゃがみこんで、片手を差し出した。彼女は更に後じさり、まるで私に捕らわれるのを恐れているかのようだった。
私は焦った。彼女がここまであからさまに私を避けることは、彼女を保護したての頃ですら無かったのだ。
彼女は距離を保ちながらも、ふんふんと臭いで私を伺い続けた。そして、急にビクリと動きを止めると、はっきりと吠えた。私は目を丸くする。彼女に吠えられるのも、始めての経験だった。
彼女はウロウロと動き回りながら甲高い声で吠え続けた。しかし、その合間にキューンキューン、と鼻声を発している。まるで、甘えるような、助けを求めるような声音だった。
よく見れば、彼女の尾はぴっちりと後ろ足の間にしまわれ、身体はブルブルと震えていた。
怯えている?いや、パニックに近かった。
私ははっと我に返り、自分が失敗した「狩り」の帰りであることを思い出した。
まさか、狼男の臭いに怯えているのか?
そこに思い至り、私は吠え続ける彼女をなだめるのを諦めて、シャワー室へと直行した。
◇◇◇
今までも、指令やフェンの依頼を受けて狩りに同行して帰ったことは何度もある。そんな時、ハニーはいつも不思議そうに私の臭いを嗅いでいたが、今日のように恐慌状態に陥ることは無かった。狼男に関わったことも無かったわけではないが、確かに今回のように肉弾戦になったことは、彼女を引き取ってからは無かったかも知れない。相手の凶暴さを察したのか?それとも争いごとの臭いを嗅いで怖くなったのか?
シャワーの中でもう一つ思いついたのは、私が怪我をしていたことだ。
私の半吸血鬼としての能力は、ほとんど戦闘能力のみに特化している。私が使者としての任務で怪我をすることは非常に稀だ。私に対抗できる個体はほぼ皆無と言っていい。私の存在が、この地域の人にあらざるものたちの犯す過ちの抑止力になっているほどである。私の意思に反して、私がこの任務を続けさせられている理由の一つであった。
もし私の怪我を見てパニックに陥っていたのだとすれば、なんといじらしいことか。そんな風に思ったが、もしそうではなく、狼男とすらやり合う私の強さに怯えていたのだとしたら……自分がパニックに陥りそうで、私は一度考えるのを止めた。
シャワーから出て出勤用の服に着替える。時計を見れば、もうあまりゆっくり出来る時間ではないことがわかる。ハニーに軽い朝食を与えたら、職場に向かわなければならない。
私は平静を装って、キッチンで準備をしながらハニーの様子を伺った。
彼女はリビングで距離を保ったまま、遠巻きに私を伺っているようだった。顎を上げてヒクヒクと鼻を動かし、私の匂いを嗅ぎ取ろうとしている。ウロウロと動きながら、こちらに来ようか来まいか、決めかねている様子だ。
まるで野生動物のようだと、私は思ってしまった。彼女が一年前に打ち捨てられておらず、元気な状態で私と出会っていたら、こんな反応をしたのだろうかと考える。
朝食の支度はあっという間に終わってしまった。私はいつも通り、解凍した彼女の朝食–––茹でた鶏肉と、蒸した野菜–––が適温に冷めるまで、キッチンのダイニングテーブルで自分のコーヒーをすすりながらトーストを齧る。犬の躾に関する知識(ハニーが利口すぎて殆ど活用の機会は無かったが)を片っ端から頭に叩き込んだ時からの習慣で、食事をするのはいつも群れのトップである私からである。通常なら、彼女は私の隣でお座りをして、何度も舌なめずりをしながらも行儀良く自分の番を待つのだが……
彼女は、リビングから動こうとはしなかった。首を伸ばしてヒクヒクと鼻を動かしている。何があるのかは、わかっていないはずがない。食べ物の匂いがするのに寄ってこないなんて、前代未聞である。
決して私に近づこうとしない彼女を目の当たりにして、私はまるで大切なものを奪い取られたかのような喪失感を感じていた。どうして良いか分からない。情けない事に、危うく溢れそうになった涙を堪えなければならなかった。
暗い気持ちで帰宅した挙句のこの状況に、私は完全に参ってしまったらしい。
いや、狩りの失敗だとか私の症状だとか生い立ちがどうとかはこの際もうどうでもいい。
ど う で も い い。
それよりも、ハニーが……
一体私が何をしたと言うんだ?
私の愛しいハニーはどうしてしまったんだ?
私の所為なのか?
この先もずっとこのままなのか?
私は一体どうすれば良いんだ?
三分の一ほど齧ったトーストは、それ以上食べる気はしなかった。殆ど減ってないコーヒーは、このまま冷たくなるだろう。それも、もうどうでもいい。
どうにか声を掛けてまた宥めてみようかとは考えたが、今は刺激しないほうがいいかもしれない。いや、それよりも拒絶されるのが恐ろしくて踏み切れなかった。
ピコン、とスマホが鳴って、私は我に帰った。設定してある、天気予報の通知だ。この辺りでは珍しい、一日快晴のマーク。もう、車を出さなくてはいけない。
私は、既に十分冷めているハニーの朝食の器を、ダイニングテーブルの横にあるハニー専用の台に乗せた。立ったままで快適に食事が出来る高さの、器を嵌めて固定出来る優れ物である。
「ここに置くよ、ハニー。」
応答を期待せずに、分かり切った事を言う。そして、何とか彼女の方は見ずに上着を手に取り、玄関まで歩いた。ドアを開け、外に出る。ドアを閉める際に、ちらりと中を伺った。
ソファーの影から覗く頭部に光る、不安げな紅茶色の垂れ目と目が合った。
途端、昨日までの仲を培ったこの一年間の思い出が、まるで走馬灯のように、私の脳裏をよぎって行った。
◆◆◆
最初の頃、私は犬をどう扱うべきか解らず戸惑っていた。しかし彼女がうちにやってきた後は、食事とトイレの問題が解決されてしまえば、彼女は全くと言っていいほど手のかからない「同居人」だった。
悪戯は食事が解決してからは鳴りを潜めた。粗相をする事もない。毎日する様にと獣医に勧められた散歩は、私の歩調に合わせてすぐ横を静かに歩く。家にいる時は殆どピアノの下に置いた専用のベットにいて、出てくるのは食事の時だけである。
ハニーは、徐々に私の存在には慣れていっているようだった。私の手料理を食べるようになってからは悪戯もないので叱られる必要も無くなったからか、怯える様子は見せなくなった。しかし、気落ちした様子なのは相変わらずだった。足取りは重く、いつも頭を垂れている。ふと見れば、ベッドの上に伏せた状態で俯いて、自分の前足をじっと見ていることが多かった。私が帰宅しても、こちらを見るだけでベッドから動こうとはしなかった。
獣医に「
私は最初の二週間ほど、彼女が尻尾を動かすのを見たことがなかった。私の見る他の犬はことごとく尾を振っていたりピンと立てていたりするのに、である。
そして二週間後、私の帰宅が随分と遅れてしまった日があった。患者の容態が急変し緊急で執刀しなければならなくなったケースが間に入り、通常であれば長くて半日で帰れるところを、ほぼ丸一日病院に缶詰状態となった。ハニーが腹をすかせているだろうと考えはしたが、その時はどうすることも出来なかった。
明け方にくたくたになって帰宅して、玄関のドアを開けた瞬間、ごつんとなにかがぶつかった感触がドアノブから伝わってきた。
私は手を止めた。
ゴソゴソと音のする半開きのままのドアの後ろを隙間から覗くと、こちらを見上げて立っているハニーと目があった。まぶたは垂れ、今にも泣き出してしまいそうなほど憔悴した表情に見えた。
その尾は、控えめに、しかしせわしなく左右に振れていた。
私は唐突にひどい罪悪感に苛まれ、慌てて中に入りドアを閉めて、彼女の元に跪いた。
「ああハニー。ごめんよ、遅くなって。」
それまで進んで触れたことは無かったのに、この時は自然と手が伸びた。彼女を撫でてやろうとすると、彼女はそれよりも近く、私の懐に歩み寄り、私の胸にぐいと額を押し付けた。触れたところから、彼女の尻尾が振れる振動が伝わる。
鼻の奥から、高い周波数の摩擦音が聞こえた。
始めて聞いた彼女の甘え声だった。
彼女が顔を上げると、細められたその瞳はさっきよりも潤んでいた。
「ああ、ハニー。」
私は胸ぐらを掴まれたような気がして、思わず彼女を抱きしめた。長い毛並みは先のほうが冷たくて、その奥からじんわりと体温が伝わってきた。彼女の独特の臭い、生き物の臭いが鼻を突く。
一人ぼっちにされて、よほど心細かったに違いない。今まで私に感情らしい感情を見せなかった彼女が初めて示した甘えに、私は大きな衝撃を受けた。それとともに、彼女には自分しかいないのだということを再認識した。彼女の「犬」生は、もはや完全に私の手に委ねられているのである。その責任の重さを忘れはしまいと、私は強く心に誓った。
「お腹が空いただろう。すぐにご飯にしよう。」
この日から、私は頻繁に彼女に話しかけるようになっていった。
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