第二章 二日目
第七話 帰ってきた!!
私の父親は、生粋の吸血鬼だった。
私がその事を初めて知ったのは、6歳の時に母親を失った後だ。
私は随分と裕福な家庭で育った。
母はいつでも煌びやかなドレスを身に纏い、髪を複雑に結い上げていた。大きな屋敷には何人もの使用人がおり、母が刺繍と絵画以外の作業をしているのを見た記憶が無い。それでいて私に対する面倒見は良く、使用人に対しても優しく、慈愛に満ちた人だった。今思い出せば、何処かあどけない少女のような女性だったと思う。
物心ついてすぐ、私は自分の父親は何処なのかと母親に聞いた。遊び相手の子供には母親だけで無く、父親と呼ばれる存在がいたのだ。私は一度も父親と会ったことがなかった。
「お父様はね、とっても忙しいのよ。」
だから会いに来る事はできないのだと、母は私に説明した。
「それでも、貴方のことはとっても大切に思ってらっしゃるからね。」
私は、全身全霊をかけて彼女に甘えた。彼女も私には甘く、私を厳しく叱るのはいつでも家令と侍女長の役目だった。
叱られた後、私はいつでも母の膝に登り、わんわん泣き叫んだ後、彼女が「あらあら、叱られてしまったのね。どうしてかしらね?次は叱られないようにするには、どうすれば良いかしら?」と次回への対策を聞いてくるのに、足りない頭を絞って必死に答えていた。私が及第点を与えられる回答をするまで彼女は根気よく待ち、答えられれば、彼女は満面の笑みで私の額に口づけを落とし、ぎゅうと抱きしめてくれた。
「良い子ね。流石お父様の子供だわ。」
その日、私が何かがいつもと違うと感じた時には、既に屋敷に賊が侵入し、私達親子が追い詰められた後だったようだ。
「いい?絶対に出て来てはダメよ?約束して。何が起こっても、私が良いというまで、絶対にここで静かにしているのよ?」
私は訳がわからないまま、必死な彼女に応えたくてこくんと頷いた。
「良い子ね。……私の宝物。」
私は今でも、その時の彼女の悲しそうな笑顔を覚えている。
彼女は私の額にいつものご褒美のキスを落とすと、私を隠したキャビネットの扉を閉めた。
真っ暗闇に取り残された私は途方に暮れたが、不安に押しつぶされるより早く、部屋に押し入って来た男達の罵声に震え上がった。誰かがそんな乱暴に喋るのも、母が他人に対して声を荒げるのも、それまで一度も聞いたことは無かった。
どさりと何かが地面に落ちた音と、キャビネットの近くまで近づいて来た横暴な足音、そして更に他の大勢が部屋にやって来て、怒声と悲鳴、何かがぶつかり合う音とが響き渡る中、私はキャビネットの中で耳を塞いで縮こまっていた。
私にとっては永遠とも思える時間の後、キャビネットの扉が外から開かれ、私は突然の光に目を細めた。
「坊ちゃん!!」
そこに居たのは母では無かった。時々屋敷を訪れていた、若い赤毛の男。
彼の肩越しに、床に倒れて動かない大人か何人も目に入った。そのうちの一人は母親だった。顔はあちら側を向いている。その周辺は、真っ赤な液体で濡れていた。たくさんいるうちの二人の男が、その周りに跪いていた。
その直後、稲妻の光と共に雷鳴が鳴り響き、私はびくりと飛び上がった。
「––––––様……」
誰かがポツリと何かを呟き、動いている大人達は皆、目の前に居た赤毛の男も、一斉に私の視界の左側を見た。いつのまにか、大粒の雨がばちばちと窓を叩きつける音が聞こえていて、風がカーテンを揺らしていた。
すぐ側で、カツリと、硬質な足音が聞こえた。
そして視界の端から大きな黒い影が現れ、遠ざかって行く。そして、二人の男が飛び退くように離れた母の元へ辿り着くと、その上に覆いかぶさるように蹲った。
半身を抱き上げられた母の腕は力無くぶら下がり、頭はかくりと顎を上げて仰け反った。その口の端からは赤い線が引かれており、見開かれた目はただ天井を見つめていた。それを見て、私は初めて彼女が普通の状態ではないことを悟り、恐怖に竦んだ。
彼女を抱き起こした黒い影が亡霊などでは無く、大人の人間の男である事に、長い黒髪の影に見えた青白い横顔で気づく。
その男はゆっくりと、真っ赤に染まった彼女の首筋に顔を近づけた。
じゅる、と音が聞こえた。
私は、何が起こっているのかを理解することが出来なかった。
黒ずくめの男が、動かない母の首筋に顔を埋め、真っ赤なものを愛おしげに舐め取っている。
誰一人、動こうともしなかった。呼吸すら憚られるような静寂の中、液体を啜る水音だけが響いていた。
何が彼に気付かせたのかは分からない。男は不意に動きを止めると、ゆっくりと顔を上げた。
そして、ゆっくりとこちらを向いた。
口元を真っ赤に染めたまま、見たことの無い金色の双眸が私を射抜いた。
生まれて初めて、私が自分の父親と視線を交わした瞬間だった。
◇◇◇
私は父と目が合った直後、気を失ってしまったらしい。次に気がついた時は、見知らぬベッドの上だった。そばに見覚えのある侍女が付いていた。
「ああ坊ちゃん、お気付きになられましたか。」
「ここは?」
「ご心配無く、お父様のお屋敷ですよ。お可哀想に、恐ろしかったでしょう。でももう安心ですよ。」
「帰る。」
「は?」
「帰る。お家に帰る。」
「坊ちゃん?」
「帰る。帰るの!お家に帰る!あの中にいるの!出ちゃダメって言った!いいって言うまでダメって!お母様と約束した!!」
「坊ちゃん……」
「帰る!帰るの!」
私は数日間に渡って、そうただを捏ねていたらしい。食事も口にせず、ただ帰るのだと泣き続け、泣き疲れて眠る、を繰り返していた。
その事を知ってか知らずか、あの長い黒髪の男は数日後に私の元を訪れた。
立ったまま私を見下ろす男の冷たい視線に、私は本能的に泣くのをやめて、ベッドの上でただ凍りついた。すんすんと鼻をすすりながら、何を言われるのかと怯えていた。
「なぜ泣いている。」
こんなに低い声で、尊大に喋る人間に、私はまだ会ったことがなかった。
「……か、えり、たい。」
「何故だ。」
「や、くそ、く、した、から。」
ひゃっくりが収まらないまま、私は答えた。
「お、かあ、さま、と。」
男はしばし黙ったあと、感情の無い声音で断言した。
「必要無い。」
そして、踵を返しながら続けた。
「彼女は死んだ。」
それだけ言って、彼は去って行った。
その日から、私は泣くのを止めた。そして彼の庇護のもと、私は何不自由の無い生活を送り、育った。
そして後々、あの長髪の男が自分の父親である事と、母の屋敷も使用人も、全て父が用意したものであった事を学んだ。
そして、彼が吸血鬼であること、『管理人』と呼ばれる、畏怖される存在であることも。
母が、『血族』と呼ばれる一族の出であった事も。
◇◇◇
『血族』とは、吸血鬼の一族に保護の元に存在している一族だった。
逆にいえば、吸血鬼のために存在する一族であった。
それは吸血鬼の、繁栄を約束した一族だった。
吸血鬼は、『死に最も使い存在』であると言われている。彼らの身体は、自然の生き物が必要としているはずの生体機能を失っていることすらあった。しかし、どういうわけか、彼らは土に帰ること無くこの世に存在し続けている。彼らは、『死に最も近い存在』であるとともに、『死と決して交わらない存在』でもあったのだ。
そして、『死に最も近い存在』であるが故に、誰よりも『生に執着する存在』でもあった。彼らは生を求め、その象徴である生き血を啜り、その力の糧としたのである。
『血族』の始まりは、ただ吸血を生き延びたものであったという。
吸血鬼に噛まれた人間が、自身も吸血鬼になってしまうという通説があるが、あれは半分正解で半分不正解である。そんなことになれば、地上の吸血鬼人口は、今よりももっと多くなっているだろう。それどころか、ほとんどが吸血鬼となり、その食料を巡って同族同士の醜い争いが起こっているに違いない。
吸血鬼に噛まれた人間は、ほとんど生き延びることがない。体中の血液に異変を起こし、大多数が生命維持活動を保てず、直後に絶命するのである。あったとしてもごく少数で、その中で正気を保って生き延びるのは、その中の更に一握りだった。
『血族』は、吸血行為に耐性を持つ者たちの血脈だった。
吸血鬼たちが、彼らを囲い、子孫を残させたのである。
そして、その中で特に彼らの口に合う血液を持つものだけを選び、更に子を作らせた。
まるで、家畜の交配のように。
そして、特に気に入られた味を持った者はその
血族だけが、吸血鬼の子供を成すことが出来たのである。
吸血鬼は、同族同士では子を成すことが出来なかったのだ。
『死に最も近い存在』であるが故に繁殖能力は極端に低くなり、『死に決して交わらない存在』であるが故に、その身にはその必要性も無かったのである。
そうして生まれたものは、必ずしも吸血鬼の資質を持ち合わせているわけではなかった。
全く人間と変わらない身体で生まれるものもいれば、部分的な性質のみを受け継ぐものもいる。そして、時に完全な吸血鬼として覚醒するものもいた。
そうやって、吸血鬼は自らの眷属を少しづつ増やしていったのである。
血族は、それはそれは大事に、吸血鬼の一族に扱われていた。吸血鬼にとっては、彼らは大切な食料供給源であり、味覚の快楽欲求を満たすものであり、そして仲間を増やす役割も持っていたからである。
私の母親は、そんな血族の一人だった。
全ての血族は、16歳になると保護者である吸血鬼と一度顔を合わせることになると言う。
血族の中でも、食料として適切なものと、そうでないものがいるらしい。その判断を、吸血鬼が行うのだという。さしずめ最後の選定といったところか。
『管理人』として、全ての吸血鬼の頂点に立つだけでなく、多くの異形の存在と人間社会とのバランスを管理し続けている私の父は、その場で母を見初めたのだと、私は聞いていた。
◆◆◆
フェンが降りて静かになった空間で、私は昔のことを思い出しながら運転をしていた。それと同時に、彼の言った言葉が頭にこだまする。
(やりようはいくらだってあるんですよ?)
(貴方、それでも……)
(貴方はいい加減、自分の宿命を受け入れたほうがいい。)
「解っているさ……」
私は再度、誰にともなく呟く。
そう、解っている。解っているのだ。
こんなのは、単なる悪あがきなのだと。
私は、完全な半吸血鬼として覚醒し切ってからは、一切血液を口にしない生活を自分に強いていた。
フェンや父の側付き達はしきりに私に血族の者をあてがおうと今まで説得してきたが、相手にしなかった。このまま血液を口にしなければ、私は普通の人間と同じように老い、死に至る。そして、それが私の望む生き方であった。
私は、母を死に追いやった宿命に甘んじることなど出来なかったのである。
だが私の身体は、覚醒したばかりの頃に無理やり飲まされた血の味を忘れることは無かった。
何十年経とうが、何を食べようが、どれだけ上質のワインを飲もうが、あの味が私の舌から消えることは無い。思い出すだけで耳の付け根の奥が痛み、唾液が舌の裏から溢れてくるほどだ。そして私の身体が老いれば老いるほど、その乾きは増して行くのである。
フェンの言う通り、いい加減時間の問題だった。いずれはこの乾きが耐えきれないものになることは、私にも解っていた。
しかし、もう全てを手放して、甘美な誘いに身を委ねてしまおうかと考える度に、私の脳裏にはあの光景が浮かぶのである。
こと切れた母の首筋を貪る、父親の姿が。
時々考える。
もしあの時母親が死んでおらず、その時が来て、母親から父親を紹介されていたとしたら。
あの鉄仮面の男との出会いが、母親の存在で少しでも和やかなものになっていたら。
父親が母親を慈しむ姿を一度でも見ていたら。
父親の母に対する執着が、その血液に対するものだけで無いと思える事ができたら。
私は半吸血鬼としての運命を、もっと素直に受け入れていただろうかと。
いつの間にか、私は見慣れた通りを走っていた。もう出勤時間も近い。一旦家に帰っても、シャワーを浴びてすぐに出なければ。一晩寝ないくらいでは、残念なことに私の身体は悲鳴を上げることはない。しかし今は、再度あの発作が起こるのではないかという懸念で憂鬱だった。それに仕事が終わっても、フェンは手負いの獲物を見つけ次第私に連絡してくるだろうと知っていればなおさらだった。
―――ハニーとまたゆっくり出来るのは、しばらく後だな。
そう思って、私はため息を付いた。私の唯一の癒やしにも、今は頼れないのである。
これほどの苦痛は、世界広しと言えど他には存在し得まい。そう結論づけて、せめて出迎えてくれる彼女を思い切り褒めようと、私は勢いよく自宅のドライブウェイに乗り上げた。
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