第六話 早く帰ってこないかな

 人にあらざるもの。


 そうひとくくりにされる存在であれば、に呼ばれるということがどういうことであるかは理解しているはずだ。そして、決して逃げることは出来ないことも。


 多くの異端の存在はその力に跪き、逆らえば身を滅ぼすことを知っている。もし従わないようなものがいるとすれば、それは……




「!!」


 急に飛び起きた狼男の顎が、防御しようとした私の左腕に食らいついた。


 闇の中、なお金色に爛々と輝くその目を見て、そこには狂気しか映っていないことに、私は気づく。そして、このところ年に数回は向き合うことになっている絶望を察知し、危機的状況であるにも関わらず、体の芯がすんと沈んで行くのを感じる。




 彼は、完全に堕ちたのだ。


 人を襲い、食らう獣に。




「使者」に刃向かうということは、「管理人」に刃向かうということ。そんな事をしでかすのは、理性を完全に失った個体だけだった。




 フェンの調査から、わかっていた事だ。この個体は、もう救うには手遅れだという事に。


 しかし僅かな希望を手放さずにはいられなかった。今この瞬間までは。


 そのままのしかかってこようとするのを、私は必死で踏ん張って押し返す。獣化した彼の身体は私より大きい。しかし力で負けるつもりは無かった。




 目の前の獣の頭部を見て、こんな時なのに、ハニーの姿が一瞬脳裏に浮かぶ。彼女のお陰で熱心な研究家になっていた私は、この一年でイヌ科の生き物に関して随分詳しくなっていた。その習性、体質、そしてその、野性の親戚の生態に関しても。


 私はおもむろに、私の腕に食らいついている狼の鼻先に全力で噛み付いた。


『キャウンッ!?』


 耳をつんざくような悲痛な叫び声を上げて、狼は顎を離して飛び退いた。あまりの悲鳴に、罪悪感を感じたほどだ。しかし狼狽える訳にはいかない。


「大人しく言う事を聞いた方が身のためだ。」


 私はわざと威圧感を持たせるような横柄な態度で、後退った彼に迫った。出来れば上から見下ろす位置にいた方が効果的らしいが、残念ながら獣化した彼の方が頭一つ分大きかった。彼は、おそらく恐怖と怒りの両方から、耳を伏せ全身の毛を逆立て、牙をむき出し、再度襲いかかってくる意向を示していた。


 ―――まだ足りないか、それとも狼の習性も当てはまらないか……


 人に育てられた狼は、その飼い主に隙があれば、その力を試すために襲いかかることがあるという。犬でもしっかりとしたしつけは必要だが、彼らの「強さが全て」とも言える 優勝劣敗の本能は、犬が人間と築く主従の関係とは一線を画すのだ。野生では、強いものしか生き残れない。だから彼らは基本、弱いものには従わないのである。(野生の狼の群れはほとんどの場合、親に当たるペアが子どもたちを率い、子は成長して番を見つければ自然と群れを離れるらしいが。)


 恐怖が怒りに勝り、私に逆らうのが無駄だと分からせるためには、もう少し力を見せつけなければいけないのかも知れない。恐怖すら感じないほど狂っていれば、意味はないかも知れないが。


 それ以前に、狼男に野生の狼の習性がどれだけ当てはまるのかも、確認したことは無いのだが。




 彼は再度、部屋中が震えるほどの唸り声を上げて襲いかかってきた。


 私は、爪の伸びた両腕を広げ飛び上がった彼の懐に潜り込み、先程蹴ったみぞおちに、右の拳を叩きつけた。


 半人半獣の身体は、悲鳴すら上げずに後ろの壁まで吹っ飛んだ。彼が叩きつけられた時の爆音に、既に不穏な物音で目を覚ましているであろう隣人たちに心のなかで謝罪する。天井と壁から剥がれた塗装の破片がパラパラと降って、室内に薄いホコリの靄が満ちた。


 確かな手応えがあったので、いかに頑丈な狼男とはいえ肋骨の数本は折れただろう。しかし彼らはその回復力も半端ではない。身体変化と怪我の治癒で使ったエネルギーを補うために、さらに食人欲求が煽られてしまってもまずい。私は動けない内に手錠をかけようと、攻撃時にめり込んでしまったブーツを床から引き抜いて、崩れ落ちたままの彼に歩み寄った。


 完全に変異した狼男の、それとも野生の力は流石、といったところか。彼は存外に素早い動きで飛び上がり、私が反応できるよりも早く、ブラインドが下がったままの窓に突撃した。再度、綺羅々しいガラスの破壊音が響き渡る。


 私はそれを追おうとして、失敗を犯した。


 ローテーブルに置いてあったであろう、落ちていた雑誌を踏んで足を滑らしたのだ。


「くそっ!」


 無様に床に手をついて、悪態を吐く。三階下の地面で、ドスンと肉体が落ちた音が聞こえた。


 私はすぐに飛び降りて後を追うつもりでいた。三階から落ちたぐらいで動けなくなる奴ではない。それにここで逃してしまっては、さらに犠牲者が増えかねない。しかし……



 彼に噛まれた、左腕の赤黒いシミが目に入った。


 そして鼻を突く鉄の匂い。





 血。




 ドクン、と、心臓が苦しいほどに跳ねた。




 嘘だろう?


 私は鼻で笑ってしまった。


 自分の血にまで反応してしまうだと?


 身体が震え、みるみるうちに呼吸が荒くなる。額から汗が床に落ちた。




「坊っちゃん!?」


 常々、そう呼ぶなと言い聞かせている呼称が聞こえる。フェンだ。様子がおかしいと踏み込んできたに違いない。


 私は震える手で、なんとか握ったままだった手錠を声のした方に放った。


「手負いだっ……逃すなっ!」


 息も切れ切れに、それだけを伝える。舌打ちが聞こえ、彼の気配が掻き消えた。




 私は結局、騒音の通報を受けてやってきた警察が踏み込んでくる寸前まで、動くことが出来ないままだった。


 ◇◇◇



「あーあー全く、とんだ骨折り損だ。」


 うっすらと青白い空の下の帰り道、乗らなくてもいいと言ったにも関わらず乗り込んできたフェンは、助手席で嫌味を言い続けた。こいつは同じ場所に帰る必要はない。このためだけに乗ってきているのである。


「取り逃がしたのはお前だろうが。」

「私は追いついてましたよ?見つけられなかった貴方のせいでしょう?」


 危うく警察に見つかる寸前で窓の外に飛び降りた後、結局私は、再び狼男とフェンを見つけることが出来なかった。フェンの発する合図の音に届く距離に、私はいなかったのである。彼は相当早い逃げ足であの場を離れたらしい。私が移動してフェンの合図の届く範囲になんとか入れれば間に合ったかも知れないが、空が白んできてしまい、フェンは力を使えない時間帯となったのだ。この時期、夜明けは一年のうちで一番早い。私達が動ける時間は限られていた。


「少しは自分で捉える努力をしたらどうなんだ。」

「私の貧弱さは誰よりご存知でしょう?しかもあいつ、見たところ全然弱ってませんでしたけど?」


 全く悪びれた様子のないフェンに、私は苛立ちをつのらせた。まるで私一人が悪いとでも言いたげである。実際、ほとんどそうなのだが。




 フェンと私は、「管理人」より言い渡された「使者」としてのパートナーだ。


 彼は夜間であれば霧に姿を変えたり気配を消したり、長距離を移動できたりと、隠密行動を得意とする。しかし、物理的な攻撃力はゼロと言ってよかった。今日のような相手であれば、ある程度超音波で動きを封じることも出来るが。


 対する私は、純粋な戦闘員だった。使える能力は人並み外れた腕力以外、皆無だと言っていい。


「管理人」からの指令を受けて動く私達だが、物騒な案件ばかりなわけではなく、実はフェン一人で対応出来る事案の方が多い。今日のように二人一組で対応しなければならないのは月に一度といったところだ。「管理人」から直接指令が来る事もあれば、フェンに頼まれて手伝うこともある。それ以外は、私は普通の人間と同じ生活を送っていた。




「あーあー、これでまた捜索し直さなきゃいけない。おかみになんて説明すればいいんです?万一昼間に動かれたら犠牲者が出かねないんですよ?」


 狼男も基本は夜行性だ。昼間に動き回る可能性は非常に低い。だが彼が主張したいのは、そんな万一の心配をしなくてはならない状況に陥ってしまったということだ。


「……悪かったよ。」


 私は観念して、謝罪の言葉を口にした。あの時私が追えていれば、私の足でもある程度の距離は稼げたはずである。確かに今回は、私が自分の役目を果たしきれなかったことが失敗の原因だ。


「……貴方、今回取り逃したのはあれに受けたダメージのせいじゃないでしょう。」


 やはり、気づいていたか。と、私は落胆のため息をついた。


「その程度の怪我で貴方が動けなくなるはずが無い。どうせまた、禁断症状でしょう?」


 こちらをじっとり睨んでいる彼の視線を感じて、私は押し黙った。彼のこれ見よがしの大きなため息が聞こえてくる。


「だから言ってるんですよ。っていうか何度言わせるんです?諦めなさいって。潮時なんですよ。」


 私は何も言い返さなかった。言い返せないのだ。今回ばかりは、私の部が悪い。事実、私のせいで標的を取り逃がしたのだから。


「何も、見境なく啜れって言ってるんじゃないんですよ?やりようはいくらだってあるんです。相手の顔を見る必要すらない。ビジネスだって割り切りゃいいんですから。直接貰わなくたって、そりゃ質は落ちますが、事は足りるでしょう?」

「必要無い。」

「必要無いって……貴方ねぇ……」


 フェンはまた、溜息をついた。


「必要ありまくりですよ。現にこうやって影響が出ている。貴方、もし我慢しきれなくなって白昼堂々人を襲ったなんてことになったらどうするんですか?」

「そんな事がある訳ないだろう。」

「言い切れるんですか?対処すれば防げる事故を、管理を怠った、って事になるんですよ?『使者』ともあろうものが!」

「起こるわけがないと言っているだろう。今までだってこうやってやって来たんだ。」

「これからも上手くいくとは限らないでしょう!いいですか?見たところ貴方のその症状が起こる頻度は上がって来ている。そろそろにも支障が出るんじゃないですか?医者なんて、それこそ毎日血を見てるんじゃ無いんですか?」

「業務中にヘマはしない。」

「減らず口を……医者としては責任感を持てても、『使者』としては適当で済むとでも?貴方……」




 ―――だめだ。


 私は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。


 そうしなければ、理性を保てない気がした。


 しかし運転中のハンドルから手は離せなかった。


 ―――それ以上は言うな。


 まるで、祈るような気持ちだった。


 だがフェンは、残酷にも全て言い切った。




「それでもあの『管理人』のですか?」




「好きでそう生まれたわけじゃない!!」


 私が声を荒げて言ったその言葉に、車内は静まり返った。




 フェンが私に言い負かされたわけでは無かった。


 そちらを見なくても、私には彼が驚愕の表情で言葉を失っていることが解る。呆れてものも言えないのである。



 そうだ、解っている。



 解っているんだ。




「停めてください。」


 フェンが不満げに呟き、私は車を道路脇に停めた。


「ねぐらに帰ります。日暮れにまた捜索を再開しますんで、今度は見つかり次第携帯の方に連絡しますよ。そのつもりで。」


 めったに使わない携帯電話を使うと宣言したフェンに、今回の件に対する緊迫感がより一層高まった。彼はドアを手で開けて車外に出る。振り返って、車の中の私を覗き込むようにして言った。


「貴方はいい加減、自分の宿命を受け入れたほうがいい。」


 そう言い残して、彼は車のドアを閉めた。ふっ、と、彼の姿が突然地面に沈み混んだかと思うと、一匹のコウモリがフロントガラスの前に現れ、太陽が上りかけている方角とは反対方向に羽ばたいていった。




「解っているさ……」


 誰にともなくつぶやいて、私はハンドルを持つ手をぎゅうと握りしめた。


 みしりとハンドルが上げた悲鳴で我に返り、ぱっと手を離した。ふうと息をついて、ギアを切り替え、アクセルを踏む。そして差し込んできた朝一番の光の中、自宅へと向かったのだった。



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