第五話 心配する

 ヴー……、と、彼女の喉の奥が低い音を立てる。


 歯を見せてはいないが、その視線は玄関を突き刺して、垂れた耳の根本は上から引っ張り上げられているように緊張していた。身体を強張らせて、これ以上ない程警戒している様子だ。


 ハニーは滅多に唸ったり吠えたりしない。


 初めてその唸り声を聞いた時は、まさか彼女がそんな物騒な音を出せるとは想像が及ばず、その音源が何処なのかと明後日の方向を見渡してしまったほどだ。


 そして最初に唸り声を聞いた時も、こんな夜更けだった。




「フェンか?」


 私は身動きせずに、そこにいるであろう相手に向かって声をかけた。


「いるんだろう?入って来たらどうだ。」


 言いながら、私は胸の上でまだ唸っているハニーの背を撫でる。




 不意に、ソファーのすぐ横で声がした。


「やれやれ。」


 びくりと跳ねて立ち上がろうとするハニーを手で制して、私はシー、と音を立てて彼女を宥めた。


「番犬が居たんじゃ脅かす事も出来やしない。こっちの楽しみが上がったりだ。」


 溜息を吐きながら中折れ帽を外して、肩を竦めたのは赤い巻き毛の若い男だった。こんな時間に訪問したことに対しては、微塵も気にかけていない様子だ。こいつはいつもこうなのだ。


 中折れ帽は、その派手な髪色と対極にあるような真っ黒な物だった。帽子だけでなく、長いストールもコートも、ベストにコードタイから靴に至るまで、ワイシャツ以外は全て黒ずくめの服装である。葬式の帰りと聞いても納得してしまいそうだが、私はこれがこの男の普段着であることを知っていた。彼はこうして、最低でも月に一回、私の家を訪れるのである。


「好い気なもんですね。相変わらず犬っころとイチャイチャですかい。」


 その端整な顔立ちに浮かぶ蔑みの感情を隠そうともせずに、フェンは腕を組み顎を上げて言った。見下したようなその態度に感化されたのか、ハニーは更に唸り声を大きくした。私はまたシー、と声を掛けて彼女を撫でながら、ゆっくりと半身を起こした。


「嫌味を言いに来たんじゃあるまい?さっさと要件を言え。」

「……挨拶も無しに、ご丁寧なことで。」

「挨拶がわりに文句を垂れてるのはそっちだろう。良いから早く要件を言ったらどうだ。」


 売り言葉に買い言葉の相変わらずのやり取りを交わす。相手に対する敬意のかけらも見られない態度には、私だって丁寧に対応してやる必要を感じない。ハニーを制しているのは、彼女に無駄な労力を費やして欲しくないからだ。こいつは唸ってやる価値もないのである。


 フェンはチッ、と舌打ちをして胸元から一通の封筒を取り出し、ソファーの上の私の足元にそれを無造作に放った。


「例の件、の隠れ家を見つけましたよ。」


 私はその言葉に、一瞬動きを止めた。


「……やっとか。長かったな。」

「ええ。だがそろそろも我慢出来なくなったんでしょう。」


 私はフェンが放った足元の封筒を拾い上げた。上質な白い紙の封に、赤い蝋で封印がされている。その印象は、見慣れた三連棟の城のものだ。


 私はハニーを膝に抱えたまま、その頭上で封を開け、中の便箋を取り出す。ハニーは下からふんふんと封筒の匂いを嗅ぎ、最後にふしゅんとくしゃみをした。それに微笑みながら、私は便箋に書かれた内容を確認する。それは、私にとっては予想通りのものだった。


「貴方への正式なです。一緒に来てもらいますよ。」

「分かっている。」


 私は封筒を持ったままハニーを抱え上げ立ち上がり、ハニーだけをソファーの上に下ろした。


「お出かけだ。留守番を頼むよ。」


 私は彼女の頭を優しく撫でて、そこにキスを落とした。そして踵を返し、自室に向かった。




 結局ソファーから降りてついてきてしまったハニーが、開けたままのドアの外でお座りをして見守る中、私は外出用の服装に着替えた。長袖のシャツに動きやすいズボン、アウトドア用の丈夫なジャケット。


「現場まではどのくらいだ?」

「この時間なら1時間とかからないでしょう。」


 私の質問に、リビングで寛いで待っているであろうフェンの返事が聞こえる。


 ズボンとジャケットのポケットに忘れてはいけないものが入っていることを確認して、最後にクローゼットの下段にしまってあったショートブーツを手に取った。部屋を出る時に跪いて、再度不安そうなハニーに声をかける。


「大丈夫だ。朝までには帰って来るよ。良い子でお留守番できるね?」


 そう言い聞かせながら何度も頭を撫でる。彼女はクーン、と、返事とも不満とも言えないような声を漏らした。


 リビングに行くと、フェンの姿が無い。見回すと、キッチンのキャビネットを漁る彼を見つけた。


「何をしている?」

「紅茶は無いんですかい?」

「……私はコーヒー派なんだ。知っているだろう。」


 フェンが何かぶつぶつ言っているのを背中に聞きながら、私はリビングのソファーに腰掛けてブーツを履いた。これで準備は完了だ。やはり私の側についてきたハニーに微笑みかけて、最後にもう一度だけ撫でてやってから立ち上がる。


「よし、行くぞ。」

「お早いお支度で。」

「残念だったな。」


 紅茶を飲みながらゆっくり出来なくて、と、皮肉を込めて言いながら、玄関横に掛けてあった車のキーを手に取り、鍵のしまったままだったドアを開けて、外側から再度施錠した。




 家から出る時、私はドアを閉める瞬間までハニーに声を掛け続けたい欲求を必死に抑える。


 こんな時、飼い主は愛犬を置き去りにするのが忍びなくて甘ったるい声をかけがちだが、これは逆に犬を不安にさせるそうだ。行きたく無いところを誰かに無理矢理連れていかれているのではと勘違いすることもあり、パニックになる事もあると言う。自分の意思で出て行くことと、それに犬が口を出す権限は無いのだと言うことを伝える為に、堂々としていることが必要なのだそうだ。


 私はこのことを知ってからは、出かけに彼女に声をかけるのは極力最低限にしている。


 しているつもりだ。少なくとも、自分自身ではそう思っている。


 ◇◇◇



 退屈そうなフェンを助手席に乗せて、私は小一時間ほど車を走らせた。真っ暗な世界に放り出されて、まるで自分たちしか存在しないかのように思えてしまうような闇の中、白く浮き上がる路上のラインを頼りに進んで行く。


「相変わらずおっそいですねぇ。もうちょっと早く走らないんですかい?このオンボロ。」

「うるさい。車の問題じゃ無いんだ。速度違反で捕まったら面倒だろうが。」

「こんな不便な乗り物を使われる方々の気持ちが分かりませんな。」


 車に対する彼の愚痴は、これが初めてでは無い。正直聞き飽きている。相変わらず不満ばかりの彼に、私まで我慢が限界を迎えそうである。


「全く、貴方が己のポリシーを曲げてくれさえすればもっとさっさとができると言うのに……ああ、この辺ですぜ。」


 私の苛立ちが爆発する寸前に、フェンは目的地が近いことを示した。私は直ぐに目に入った次の標識に従い、フリーウェイから一般道に出た。程なく郊外の集落に出る。


「結構人口が多そうな地域だな。」

「そうでしょうな。獲物も住んでるのはアパートですぜ。」

「人払いはしてあるのか?」

「いいや?そこは上手くやるのが貴方の仕事でしょう?」


 私はその言葉には納得出来なかったが、なんとか声を荒げるのは耐えて、彼が指し示す方向に車を向かわせ続けた。




「この辺りで待っとってください。」


 フェンがそう声をかけてきたところで、車を道路脇に寄せてエンジンを切る。彼は帽子を丁寧に被り直しながら私に言った。


は鼻が効きますからね。私が追い詰めてから合図をします。この距離なら聞こえるでしょう。……それと、今回は結構な荒事になるかも知れませんから、この際大人しくを表してみては?」

「つべこべ言ってないで早く行け。」

「やれやれ、誰のせいでここまでこんなに時間がかかったのか……」


 そして、最後まで不満を零していたフェンの姿が、ふいに助手席から搔き消えた。




 気配さえ無くなり、車の中はしんと静まり返る。


 私は特に驚きもせず、おもむろに運転席の窓を半分まで開けた。そのまま、彼の合図を待った。


 この辺りは住宅街のようだった。車の往来どころが、歩き回る人もいない時間帯だ。少し先にある街灯に、シルバーのボンネットが鈍く光を反射している。車の中、ハンドルに乗せた私の手の輪郭が、いやに白く浮き上がっていた。




 フェンのが耳に入るまで、それほど時間はかからなかった。キィン、キィン、と、正直耳障りな音の波が耳の奥に響く。私は窓を閉めてから車の外に出た。音から方角を聞き分けて、その方向に走り出す。


 より音がやかましくなる方へと進み、辿り着いたのはアパートの3階だった。見ればある一室の前で、薄暗い照明の中、フェンがじっと扉を見据えて立っていた。彼の発する、この町では私とある特殊な存在にしか聞こえていないであろう音は、今にも鼓膜を破らんばかりに私の耳をふるわせている。


「うるさいぞ。音量を下げろ。」

「……中に居ます。開いてますよ。」


を使っている間は言葉を交わす余裕もないのか、フェンは近付いてきた私の方を見る事もなくただ顎をしゃくって、後ろに一歩下がった。私は音を下げてもらうことを諦めて、彼の代わりに扉の前に立ち、ドアノブに手をかけた。




 用心しながら、ゆっくりと扉を開く。


 明かりはついていない。しかし気配は感じ取れた。確かに奥にいる。私は慎重に歩を進め、その気配の源に向かった。


 左右に扉のある廊下を通り過ぎ、リビングとキッチンに辿り着く。




 左側、リビングの一番奥の隅に、ブラインドから漏れる街灯の光が、うずくまる人影の頭を浮かび上がらせていた。




「ルイス・ヴィットー。よりの使だ。」


 名乗りを上げて、相手の反応を伺う。相手は動かなかった。よくよく見れば、頭を抱えて、肩で息をしている。フェンの発している音は、私よりもこの相手により大きなダメージを与えているようだ。これでは私の声は聞こえないのではないか?


 やはりフェンに音量を下げてもらおうかと、私はドアの方を振り返った。




 その時だった。




 息が止まるほどの衝撃が全身を襲ったのと、ごっ、と、自分が壁に叩きつけられた音が頭に響いたのが同時だった。そしてパラパラと何かの破片が地に落ちる音とともに、まるで古い車のエンジン音のような大きな低音が聞こえてくる。それと同時に、ぬるく生臭い臭いも鼻をついた。


 聞こえていたのはエンジン音ではなかった。


 獣の唸り声。それも、ハニーの唸り声が可愛らしく聞こえるほどの、重々しいもの。


 その音源は、私を背後の壁に押さえつけている強靭な腕の持ち主だった。首を締められ壁に宙ぶらりんになった私のすぐ目の前に、醜く歪んだ半人半獣の男の顔が、僅かな光にその輪郭を露わにしていた。


 見開かれてギラギラとした目は僅かな光を反射して異様に光っており、めくりあげられた唇と歯の間から滴る涎もぬらりと光っていた。その容貌は、私が見る内にも徐々に形を代えている。


 ヴルルルル……と鳴り続ける音と共に、顔中に針のように色の濃い毛が生え、肌色の地を埋めていく。鼻が突き出し、顎が伸びて、口が裂ける。隙間の空いた歯が鋭く尖る。露わになった口内に長い舌が蠢くのがチラチラと光を反射する唾で分かる。荒い呼吸に飛ばらされて、私の顔まで唾液が飛んできた。




 私は、変貌が完全に終わった瞬間に噛み付かれるのだと、本能的に察知した。


 そうなってしまっては面倒だ。私は、私の首を拘束している、既に毛深くなり筋肉が盛り上がった腕を両手で掴み、それを思いきり握りしめた。


『グウウゥッ!?』


 唸り声が止み、代わりに絞り出すような声が鼻先から漏れる。私の指が相手の手首にめり込み、ギチギチと音を立てた。首の拘束が緩み、私の足が床に届く。


 両腕を掴んだまま、私は相手の鳩尾を思い切り蹴った。


 ドゴォッ!!

『ギャオ!!』


 打撲音と、甲高い獣の悲鳴が重なり、彼の身体は吹っ飛んでそのまま背後に倒れる。彼が倒れ込んだローテーブルのガラスが騒々しい音を立てて砕け散った。




 彼は倒れたまま切れ切れのうめき声を上げており、すぐには立ち上がれないようだった。しかし、その姿は完全に変貌を遂げていた。


 立ち耳、長い鼻面の、全身を体毛に覆われた獣の容貌。




 成人の、狼男。




 私はふうと息をついて、唾のとんだ顔を袖で拭い、ジャケットの乱れを直し、天井から降ってきた粉塵をはたき落とす。そして懐のポケットから、折りたたんだ便箋を取り出した。フェンの持ってきた封筒に入っていた二枚目の紙である。それを広げて掲げ、横たわったままの獣人に語りかける。


がお呼びだ。一緒に来てもらう。」


 そして、今度はズボンのポケットからずっしりとした重みの金属製の輪を取り出した。鎖でつながったそれは、純銀製の手錠だった。その輪の片方がぶら下がり、ちゃり、と音を立てた。


「投降しろ。」



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