第四話 意識する
夕食を終えると、私達はいつもの定位置に移動する。リビングルームにあるソファーの上だ。
暖炉の形をしたガス式のストーブの横だが、今日はそこまで寒くない。火はつけなかった。私は気分によっては酒とつまみを用意するが、今日は明日の出勤時間を考えて、カフェインレスのコーヒーで我慢することにした。そしてソファーの前にあるローテーブルに置いたノートパソコンで、ドキュメンタリーか古い映画を再生する。部屋の隅にテレビは在るが、ネットには繋げていない上、パソコンとさほど画面の大きさは変わらないのであまり使っていない。
私がソファーのクッションに頭を乗せて横になると、ハニーがソファーとローテーブルの間で尻尾を振りながら、遠慮がちに私の胸にたおやかな片足を乗せる。私はいつもどおり、自分の胸をポンポン、と叩いてみせる。上がっておいで、という合図だ。
ハニーは両足をソファーの端に掛けて乗り上げる。そのまま待っていれば、ハニーは私の急所を踏まないように細心の注意を払って上がってくるが、私が引き上げたほうが早い。私はハニーの両脇に手を入れて、彼女の身体を自分の上に引っ張り上げる。ハニーは全身の力を抜いて、されるがままだ。私の胸と腹の上に足を投げ出して横たわり、尻尾だけをひっきりなしに振っている。
私はその柔らかい身体を抱きしめ、シャンプーをしたばかりのふわふわの毛並みに顔に埋める。そして大きな深呼吸を一つ。シャンプーで洗っても、ハニーの体臭はわずかに残る。私にとってそれはとても甘い匂いだった。
他の人間にはどうだか知らないが。
彼女の頭に頬ずりをして、そのてっぺんに音を立てて口づけをする。ハニーはグイグイと鼻面を私の顔に押し付け、座りのいい場所を見つけようとわずかに身じろぐ。尻尾はまだ振れていて、私の腿をパタパタと叩いている。彼女の柔らかい垂れ耳が、首元をくすぐって心地よい。私と目があって、ハニーは私の口元を何度か舐めた。私は微笑みをこぼして彼女の頭を引き寄せ、少し強引にその眉間にキスを返す。
こうやって私達は、一日の終りのリラックスタイムでもある、二人の時間を満喫する。私の腕に抱かれたハニーの身体は、とても柔らかくて温かい。気温の高い時期では暑いくらいだが、夜間はそれなりに涼しくなるこの地域では、私は毎晩この時間を変わらず過ごしている。
ハニーと出会うまでは、私はこんなぬくもりなど、死ぬまで感じることは無いと思って生きていた。
私は50年近く生きていて、独り身だ。これからもそうだろうし、そう考えるべき正当な理由がある。生き物の体温が、柔らかい身体を抱きしめることが、鼓動と呼吸を肌で感じることが、こんなにも心地よいものだと思い出させてくれたのは彼女だ。この時間が、それなりにある日中の仕事のストレスをいっぺんに吹き飛ばしてくれる。彼女が与えてくれる安らぎは、今となっては何にも代えがたいものになっていた。
今では私に安心して身を任せてくれるハニーだが、決してここに至るまでが簡単だったわけではない。私の家の前に打ち捨てられていた彼女の心の傷が癒えて、また人間を信じることが出来るようになるまでには、長い時間を要したのだ。だからこそ、彼女が寄せてくれる信頼はより一層尊いものだった。
私は出会ったばかりの頃の奮闘を思い出した。
◆◆◆
食事の問題に解決の糸口が見つかったからと言って、万事が万事、全て解決とは行かなかった。次なる懸念は、出す方である。
生き物である以上、食物を摂取すれば排泄があるのは当たり前だった。
このことに関しては、私は事前に獣医にアドバイスを受けていた。
「仕事に行かれる前と後に、必ず庭に数分出してやることを習慣にすれば、その時に用を足すようになるでしょう。犬だって自分の住処を汚したくないし、臭いのは嫌なものなのですよ。雌ですし、無闇やたらにマーキングすることも無いと思います。慣れるまでは何度か粗相してしまうこともあるかも知れませんが、根気よくいきましょうね。」
そういうわけで、私は仕事に行く前と後に、彼女にリードを付けて庭に一緒に出るようにしていた。私の借家の庭には、囲いが無いのである。生け垣があるだけで、ドライブウェイに門もない。つないだ状態で私が一緒にいるしかなかった。
ところが、彼女は数日経っても、私の見ている前で用を足そうとはしなかった。大きい方どころか小さい方も、である。庭に出しても、庭の匂いを控えめに嗅ぐだけで、いつまで経ってもする気配がない。しばらく待ってみても、困ったように上目使いで私を見上げるばかりである。私はまた途方に暮れてしまった。
「全く用を足そうとしないのだが。」
数日後、流石に心配になって再度休憩時間に獣医に電話を掛けた。食事は、人の食べるようなもので犬に与えても問題ないものを与え、順調に食べるようになっている。出ないはずがないのである。
「見られている状態で、緊張をしているのかも知れませんね。やはり慣れない環境というのも大きいでしょう。まともな食事をしていなかった期間があったために、リズムや腸内環境が崩れて便秘になっているということも考えられます。」
「しかし尿も出ないとなると少し心配ですね……。よかったら一度連れてきてみては?もしこちらに来る時間が無ければ、ペット用品店で犬用の便秘薬や善玉菌のサプリ等も売っています。まずは試されるのも有りだと思いますよ。」
「もし見られている状態が落ち着かないというのであれば、室内に犬用のトイレシートを置いておくことも検討してみては?」
私はその日の就業後、再度ペット用品店に立ち寄った。遅くまでやっている店舗があって非常にありがたかった。私は教えたれたとおり、便秘薬と善玉菌サプリ、膀胱機能に有効だという別のサプリ、大型犬用のトイレとシート、そして巻取り式の長いリードを購入した。
帰宅後、まずは新しく買ったリードを使い、長くした状態で彼女をつないだ。そして庭の植木につないで、しばらく彼女を放置する。私は家に入って窓から彼女の様子を伺ったが、彼女は困ったように玄関の方を見るだけで、用を足すような気配はない。そのうちがっくりと項垂れて座り込んでしまった。
また置き去りにされたのだと思ってしまったのではと私は慌て、家を出て彼女を回収した。できれば外でするようになってほしかったが、こちらの都合で彼女の精神的な傷をえぐってしまっては本末転倒だ。私は野外で用を足させることを諦めて、投薬と室内用トイレに頼ることにした。
私が作る料理であれば問題なく食べるようになった彼女に夕食を与え、室内用のトイレを設置する。場所はリビングルームの隅にすることにした。できれば死角になる場所に置きたかったが、糞をした場合はすぐに気づいて片付けたかったのと、臭いがこもってしまうのを避けたかったためこの場所を選んだ。ハニーは私が新しい室内部品を組み立てるのを、遠くから不思議そうに眺めていた。
彼女のトイレを設置し終わってから自分の就寝準備を済まし、私は床につく前に彼女に買ってきたサプリを飲ませることにした。しかしここでまた問題が在ることに気がつく。
犬用の便秘薬は錠剤で、利尿効果のあるサプリ、そして善玉菌のサプリは犬用のおやつだ。当然、彼女は自分からこれらを飲んでくれはしない。一応おやつの方は彼女の鼻先に持っていくことを試したが、食事の失敗のときと同じく、やはり臭いを嗅ぐだけだ。もう夜も更けてしまい、獣医に電話をするには遅かった。
私はキッチンに置きっぱなしだったスマホを手に取る。
『犬 薬 飲ませ方』
と検索して、検索結果を見て私は目を剥いた。
犬の口を無理やり開き、手で錠剤を喉の方に突っ込んでいる画像が表示されたのだ。
彼女の口に手を入れろと?
私は親切に注釈付きの画像が貼られているページと、不安そうに私を見ているハニーとを見比べる。そのページには、噛まれるのを避けるため、上顎は唇を歯に巻きつけるように掴めとの説明書きもあった。念の為ほかのWEBサイトも参照してみたが、おやつや茹でた鶏肉などに詰めて飲ませる方法や、砕いて専用のゼリーに混ぜて舐めさせる方法が載っているのを見つけた。犬用のおやつは彼女は口を付けないし、鶏肉はあいにく切らしている。専用のゼリーがあるとペット用品店で気づいていればと後悔したが、時既に遅しだ。
ここまで、私は彼女を触ることを極力避けていた。決して怖いわけではない。まだ私に慣れていないであろう彼女を、怯えさせたくなかったからだ。彼女は非常に従順だったので、リードをつければ引っ張る必要がないほど近づいて付いて来たし、移動してほしいと手で示せばそれを理解した。なので獣医から帰ってきてからは、ほとんど触れる必要もなかったのだ。
ここで、もともと犬が飼いたくて買った人間であれば撫でたりしたいと願っただろうが、私の場合は人命ならぬ犬命救助から始まっている。このときの私に、彼女に触れたいという欲求は全く無かった。
私は彼女に無理を強いることと、彼女の排泄に関する問題の弊害とを天秤にかけて、しばらく唸っていた。
結果、このまま万一ひどくなって彼女が苦しい重いをするのは忍びないと、多少の無理を我慢してもらう方を取った。獣医に連れて行こうにもこちらが手を尽くしてからでないと、あちらが困るだろう。それに、この投薬で改善するのならその方が良かった。私のスケジュールを考えると、次いつ獣医に行けるタイミングがあるかわからない。
私は、自然な効き具合を謳い文句にしているらしい便秘薬の錠剤を一粒手に取って、ハニーの隣に跪いた。
「すまないけど、少し苦しいよ。」
私は外科医である。やろうと思ったことを、おっかなびっくり中途半端にやるのが、一番患者を不安にさせることを知っている。私は検索結果の画面で見たとおり、片手で彼女の上あごをがっしり掴み、彼女が身じろぎする前に別の手で錠剤を喉の奥に突っ込んだ。そしてすかさず口を閉じて抑え、彼女の喉を何度も撫でる。彼女は何度か私の手を振りほどこうと弱々しく顎を引いたが、それ以上は抵抗しなかった。
彼女が本当に飲み込んだのか私には判断できなくて、恐る恐る手を離す。彼女は何度か口をパクパクして口周りを舐めたが、錠剤は出てこなかった。無事に飲み込んだようである。
「よしよし、いい子だ。」
私はしきりに彼女の頭を撫でた。無理をさせた罪悪感もあったが、これで私に対する恐怖感を持って欲しくはなかったのだ。しかしこれで終わりではない。飲んでもらわなければならないものはあと2つある。しかも錠剤より少し大きなサイズのおやつ状である。小さくちぎって、何回かに分けて飲ませなければならないだろう。
私は彼女の負担を思って少し憂鬱になった。それでも飲ませなければと、整腸剤の一つを手に取ると、ハニーがその手の匂いを嗅いできたので、私は動きを止めた。
彼女はヒクヒクと鼻を動かしてしばらくそうしていたが、何を思ったのか私の顔を見上げてきた。私は困惑しつつもじっと彼女の視線を見返す。
そして少しの間の後、ハニーはそっと、口の先の歯で私が指先で摘んでいた整腸剤入りのおやつを摘み上げた。私は息を飲んでそれを見守る。彼女は2、3回パクパクと顎を動かし、また口の周りをしゅるりと舐めた。そして私を見上げる。飲み込んだのである。
「いい子だ、ハニー!偉いぞ!!」
私は思わず声を上げて、両手で彼女の顔を挟んで揺さぶった。
「こっちはどうだ?」
利尿作用のあるサプリメントのおやつを手に持って、差し出してみる。彼女はこれも、しばらく匂いを嗅いだ後、遠慮がちに咥えて飲み込んだ。
「いい子だ!!」
私は彼女の顔をワシャワシャと撫でて、感極まってしまい彼女を抱きしめた。
後から学んだことだが、慣れていない犬にハグをするのは危険なケースもあるらしい。犬にとっては身体を押さえつけられるのは親愛の情を受け取る行為ではなく、文字通りマウントを取られていると認識されるからだ。反抗的な犬なら噛み付いて来かねない。しかし私にとっては非常に幸運なことに、この時ハニーは全く抵抗せずに私に身を任せ、おまけにわずかに尻尾を振ってくれた。それを見て、私はどうしてか胸の詰まる思いがしたものだ。
ひと段落したことに安堵して床についたが、薬を飲んだ後の彼女の具合が気になって中々眠れなかった。そういえばリビングに置いたトイレを、その為にあるのだと気づいてくれるだろうか。副作用で苦しんだりしていないだろうか。不安もあったが、じっと見張っていても彼女が緊張してしまうと思い、様子を見に行くのは留まった。
熟睡は出来ないまま微睡んでいると、暫くして物音に気付いた。
寝室の扉の向こうで、別の扉が開いたような音だ。私は眉をしかめた。
当然この家には誰も居ないはずだ。誰かが侵入した?しかし他に物音はしなかったのに。私の身体は、万一の可能性に緊張して硬く強張った。
それともハニーか?
食事の問題が解決してからは、私の不在時のいたずらは影を潜めていた。もしかして腹が減ってまたパントリーを探っているのか?しかし今まで、私が在宅中に何かすることは無かった。どうして今日に限って?やはり薬が悪かったのか?
万一侵入者がいた場合に、ハニーの身に危険が及ぶ可能性に思考が至って、私は飛び起きた。部屋の明かりは付けずに、寝室のドアをゆっくりと開ける。
用心しながら、私は廊下の様子を伺った。私の部屋の向かいは書斎になっている。扉の開いた音は少し遠かった。ここではないはずだ。
再度物音がする。
リビングや玄関の方向を見る。廊下の両側にはそれぞれに扉がある。一つはパントリー。一つは洗濯機置き場とバスルームにつながっている。わずかに空いたままの扉から明かりが漏れているのは、パントリーの方ではなかった。
不意に、水の流れる音がした。
……トイレの音?
カチカチと爪が床を打つ音がした。私はおもむろに廊下の電気をつける。
がしゃしゃしゃしゃっ!!
と、けたたましい音を立てたのは、バスルームの方のドアから出てきたハニーが驚いてビクつき、彼女の足の爪が廊下の床を滑った音だ。ハニーは四肢を踏ん張って、寝室から顔を出す私の方を見て、目を丸くして硬直していた。
私達はしばしの間そのまま見つめ合った。
私はゆっくり歩みを進め、まだ水音のするバスルームの中を覗き込む。荒らされた様子は無い。私が見下ろすと、ハニーは私とは目を合わせずに座り込み、口の周りをぺろりと舐めた。それは、私にはどこか気まずそうにしている様子に見えた。
私はこほんと咳払いをした。バスルームの明かりのスイッチを切って、何食わぬ顔をしてキッチンに向かう。
「電気を消すのは忘れないんだよ。」
そう言って私はコップ一杯の水を飲み、何事もない風を装って寝室に戻ったのだった。
◆◆◆
あの時のハニーの驚きっぷりを思い出して、私は胸の上のハニーを撫でながら微笑んだ。パソコンで再生しているドキュメンタリーは一度見たもので、ほとんどBGMでしか無い。私はハニーのぬくもりを抱きしめて、心地よいまどろみを堪能していた。
あれから、彼女は毎日室内の人間用のトイレで用を足している。粗相をしたことも無ければ、野外でしたことも一度も無い。
彼女が本当に捨てられたのだとしたら、彼女を捨てた人間は一体何を考えていたのだろう。こんなに行儀が良く、優しい気性の彼女を捨てるなんて。それともやはりはぐれてしまって、何らかの理由で引き取りに来れないだけなのだろうか。動物愛護団体には、迷い犬としての情報は残っている。きっと探そうとすれば見つかるはずなのだ。
もし彼女の元の飼い主が今になって現れた場合、私はどうするのだろうか。いや、引き渡すしか無いのだろうが。そのことを考えると胸が傷んで、できればこのまま見つからず、彼女は私のもので有り続けてくれればいいと、正直願ってしまった。
突然、胸の上のハニーが頭をもたげた。
玄関の方を凝視している。
そして、彼女の印象には全くそぐわないような、低い唸り声を上げ始めた。
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