第三話 打ち解ける

 今日は早帰りだ。いつもなら暗くなってから帰ってくるのに、今はまだ日が明るい。


「久しぶりに遠出をしようか、ハニー。」


 今日の帰宅が早いぶん明日は朝早くに出なくては行けなかったが、それでも余りあるほど時間には余裕がある。通常ならまっさきにシャワーに向かうところを、私は玄関横の壁に書けてあるハニーのリードを手にとった。巻取り式の、長く伸ばせるタイプである。


 それを見た瞬間に察したハニーは、途端に右に左にぐるぐると回り始めた。相変わらず尻尾は激しく振られている。私を見上げて、下を出してはっはっ、と興奮した息をつく。私は一度閉じた玄関の戸を開けて、外に出た。私が先に出るまで扉をくぐってはいけないと教えてあるハニーは、それを待って庭に飛び出した。車の助手席側の扉の前で、ビタリとおすわりをして私を待つ。


「さあどうぞ、お嬢さん。」


 私はおどけてそう言いながら、助手席のドアを開ける。彼女は勢いよく助手席に飛び乗った。


 ハニーと暮らし始めるまで知らなかったことだが、世の中には犬専用の道具が色々と売られているようだ。私はネット通販で手に入れた大型犬用のシートベルトを、ハニーのと胴体に取り付けた。これで万一事故が起こっても、彼女がフロントガラスに叩きつけられることもないわけだ。私は運転席に乗り込んで、エンジンをかけた。


 ◆◆◆



 行儀が良く元気いっぱいのハニーだが、こうなるまでには随分と時間を費やした。


 成犬だが数日怯えたまま暮らしていた獣医のクリニックでは、そのしつけ具合は判断できないと言われていた。しつけが行き届いていなかった場合は世話が大変かもしれないと言われていたが、たしかに引き取ってから数日は毎日絶望を感じたものだった。




 引き取った当日は、この平屋の大家が置いていったグランドピアノの下に潜り込んで全く出てこようとしなかった。ドライのドッグフードを与えたが口をつけようとはせず、そのままにしたが翌朝になっても食べた形跡が無い。水の器も、かさが減っているようには見えなかった。


 そして帰宅すれば、家の中のそこかしこが荒らされていた。


 なぜだかキッチンの蛇口からは水が出しっぱなしになっており、周りが水浸しになっていた。冷蔵庫が空いたままで、残り物を入れていた器が空っぽになり床に落ちて割れている。パントリーでも、保管してあったシリアルの封が空けられ中身が床に散乱していた。そしてどうしてかトイレの扉が空いており、床がボロボロのトイレットペーパーで埋め尽くされていた。その犯人はといえば、グランドピアノの下、今朝の出勤時にも増して小さく縮こまっていた。




 私は途方に暮れて、翌日の昼休みに獣医に電話を掛けた。


「新しい環境で戸惑っているのもあるでしょう。餌を食べないのは今まで食べていたものと違うからかも知れません。こだわりの強い犬もいます。」

「それか、もしかしたら人間の食べるものをもらっていたのかも……あまり感心できる習慣ではありませんが。人が食べるものでも、犬にとっては身体に良くないものがありますから。」

「トイレに関しては、荒らされてしまうというのはよく聞きます。匂いの強い場所やものに興味を持ってしまうのですよ。」


「どうすればいいんだ?」


「食べ物に関しては、いろいろ試してみるか、根気よく慣らすしかありません。お腹が空けば食べるでしょう。」

「人がいないすきに冷蔵庫やトイレの扉を開けてしまうのであれば、開けられないようにしておくしかありません。いたずら防止の専用の道具が売っていますので、検索してみては?」


 獣医のアドバイスを元にして、その日私は大きなペット用品店に立ち寄り、ハニーのための大型犬用のベッドと、別の種類のドッグフード(ドライタイプとウェットタイプ)、おやつを数種類、それからいたずら防止のドアの留め具などを購入した。親切な店員が、非常に根気よく選別に付き合ってくれたことを覚えている。




 そして帰宅してみれば、やはり同じ場所が同じように荒らされていた。


 ただ、その程度は昨日よりも控えめな気がした。水はほんの少しちょろちょろと漏れていただけで、冷蔵庫は閉じられていたが、中にあった食べ物の容器がやはり床に落ちている。パントリーからはポップコーンの袋が盗まれたようで、その袋は空っぽになって犯人の横に落ちていた。トイレに関してはやはり扉は空いて、何をどうしたのかペーパーはボロボロになっていたが、床には何も落ちていなかった。


 私は首をかしげながらも、掃除も自分のシャワーも後回しにして、真っ先に新しく買ったドッグフードをハニーに差し出した。今朝出したままにしていたドッグフードはやはり減っていない。ペット用品店の店員が言ってくれなければ買うのを忘れていたであろう、ハニー専用の器にざらざらと新しいドライフードを入れて、ハニーの前に置いた。しかしハニーは控えめにすんすんと匂いをかぐだけで、食べようとはしなかった。


 私はしばらく固唾を飲んで見守っていたが、やがてしびれを切らして、人間用の深皿をキッチンから持ち出した。買ってきた全ての種類のフードとおやつをそれぞれの皿に個別に入れて、全てハニーの前に並べる。


 ハニーはそれら一つ一つと私の顔を何度も見比べて匂いをかいではいたが、やはり口にしようとはしなかった。私はがっくりと肩を落とした。




 どうしたものかと憔悴といらだちを抱えたまま、私は荒らされた場所を簡単に掃除してからシャワーを浴びた。それからキッチンに行って、冷凍庫から食品のパックを取り出す。


 一人暮らしな上時間に余裕があるとは言えない私は、食事はもっぱら冷凍ものかジャンクフードの持ち帰り、それかスーパーの惣菜だった。なるべく栄養バランスには気を使っているつもりだが、味にこだわる方ではないのでそれで問題ない。電子レンジがけたたましい音を上げて、私は熱くなった容器を取り出した。今日のディナーは、ハンバーグにおかずも付いた一食分のプレートだ。


 私がキッチンのテーブルでそれを食べ始めると、強い視線を感じた。


 ちらりと見れば、ハニーがこちらを伺っている。


 よくよく見れば、口の端にきらりと光るものが見えた。涎だ。ぺろり、ぱくりと、何度もそれを舌で拭い取っている。やはりいたずらでつまみ食いはしていたとはいえ、あれで足りるわけがない。腹は減っているのだ。しかし目の前に置きっぱなしになっているドッグフードには、見向きもしない。


(もしかしたら人間の食べるものをもらっていたのかも……あまり感心できる習慣ではありませんが。)


 獣医の言葉が脳裏に蘇る。私は自分の夕食を分け与えたい欲求を必死に堪えて食べ続けた。


 しばらくして、くるるるる、と、何かを絞り出すような音が聞こえた。視線をハニーにやると、彼女はお座りの姿勢でがっくりとうつむいていた。


(人が食べるものでも、犬にとっては身体に良くないものがありますから。)


 私はまた獣医の言葉を思い出した。自分の目の前のプレートとハニーを何度も見比べる。そしてため息を一つついて、スマホを手にとった。


『犬 食べられないもの』


 と打って、検索をかける。それから、ゴミ箱からディナープレートの袋を回収して、何ページかの検索結果と袋の裏に記載されている原材料名を照らし合わせた。


 私は10分近くスマホの画面とプラスチックの袋とにらめっこをしてから、戸棚からもう一つの深皿を取り出し、ディナープレートのライスを少量スプーンで取り分けた。残念ながらハンバーグの原料は玉ねぎなどがNGであった。人参のグラッセも、味付きでアウトだ。私はライスだけが入ったその皿をもって、ハニーの元に移動した。


 私は幾分緊張しながら、ドッグフードが入っていた皿を脇に押しやって、その皿をハニーの前に置いた。じっと見つめていては食べないのではとすら勘ぐってしまって、わざとらしく視線をそらす。


 私が祈るような気持ちで、横目で伺う中、ハニーは他の皿と同じように鼻面を寄せて匂いを嗅いだ。そして……


 ちろり、と舌を出してそれを少しだけなめた。


 私は息を飲む。


 ハニーはまた、何度もそれを嗅いだ後、私の方を見上げた。私は、どういう心境だったか自分でも説明ができないが、なぜか彼女に向かって頷いて見せた。


 ハニーはとうとう、私の前でそれにかぶりつき、ぺろりと平らげて見せたのだった。


 このときの私の安堵と達成感は、表現しようがない。




 結局、その夜私は冷凍庫とパントリーとを漁りまくり、彼女の食べられないものが大半であるにもかかわらずいくつもの袋の封を開け、彼女が食べられるものだけをかき集めて彼女の夕食を調達したのだった。


 ◆◆◆



 一年たった今、ハニーと私は穏やかな時間をともに過ごす。


 久しぶりに訪れた自然の湿地と池が保存されている森林公園の散歩道を、他の散策者たちと和やかな挨拶を交わしながら歩いて、私とハニーは美しい夕焼けを堪能した。彼女に関しては、野鳥を追いかける遊びも楽しんだようだ。この後は久しぶりに風呂に入れる予定だったので、汚れても気にしない。助手席にはビニールシートを敷けばいい。


 こんなに天気のいい日は絶好の散歩日和で、他の人間や犬たちもたくさんいたが、ハニーは他人とすれ違う時はおとなしく私の隣に着いて歩く。吠えられても気に留める様子はない。こんなとき、私は誇らしい気持ちでいっぱいだ。


 自宅に戻り、彼女を風呂に入れる。このときも彼女は暴れることはない。バスタブの中でわしゃわしゃと泡にまみれてもみくちゃにされても、気持ちよさそうに目を細めてじっとしている。シャワーを強くしてもへっちゃらで、苦手な犬が多いと聞くドライヤーも怖がる様子は見せない。むしろこのときほどリラックスして、床に寝そべって腹を見せるほどだ。最初の頃は緊張していたのを覚えているが、他の人の話を聞いたところによると、彼女は本当に手のかからない犬のようだ。


 彼女を乾かしてから、自分もシャワーを浴びる。上がってからキッチンに向かえば、ハニーはリビングのソファーに横になってうとうととしていた。犬でも風呂上がりはぼーっとするようだ。私は微笑ましい気持ちで、夕食の準備に取り掛かった。




 一年前、ハニーが初めて与えた食事を食べてから、私はインターネットを駆使して手作りの犬の食事のレシピを調べ尽くした。作りおきのものは食べないのではと踏んだのである。はじめに口にしたのは冷凍食品のライスだったが、常温で保存できるものは防腐剤や調味料が多かったり、味が濃い。それらが苦手なのではと考えたのだ。


 調べてみれば、ほとんど人間と同じように、栄養バランスさえ整っていれば手作りが一番健康には良いという意見が多かった。中には市販のドッグフードはみな一様に有害であると主張する意見すら存在する。保存性や手間などを考えれば利益もあるだろうが、新鮮なものが最適だというのは、人間も犬も同じのようだ。


 今では野菜や肉を休日にまとめて火を通して調理し、小分けにジップロックに入れて冷凍保存している。通常はこれを解凍し、その日に私が食べるもので彼女に与えても問題ないものを少し添える。彼女はこれを美味しそうに食べてくれる。


 なるべく彼女が食べられるものを調理し、新鮮な内に食べるように気をつけているせいで、今では私まで随分と健康な食生活を送っているように思える。


「ハニーの待遇は、まるでセレブみたいね。ヴィットーさんみたいな飼い主に引き取られてハニーは幸せ者だわ。」


とは、最近獣医のクリニックに健康診断に訪れたときに、彼女の艶々の毛並みを見て看護師が言った言葉だ。私は随分誇らしい気分だった。ハニーもそう思っていると願いたい。




 いつもは冷凍したものの解凍をするが、この日は時間もあったので、自分の食事も彼女のものも、少し豪盛にすることにした。


 フライパンをしっかり熱してからオイルを敷き、冷凍庫からセールの日に買いだめしてあったステーキを取り出す。あまり頻繁に食べさせるのは消化に良くないらしいが、やはり肉は犬にとっても好物らしく、これはハニーと私が一緒に食べられるごちそうだ。二切れをフライパンに乗せて、火加減を調節する。解凍をしないまま焼く方が実は良いということは、ハニーと暮らし始めてから学んだことだ。ジュージューという勢いのいい焼き音に気づいたのか、それとも匂いにつられてか、リビングからハニーがやって来た。


「わかるかい、ハニー。今日は特別だよ。たまにしかあげられないけど……」



 足元に座るハニーに話しかけながら、溶けかけた肉をトングでつかもうとして、私は急に言葉に詰まった。




 目に映った、熱にあぶられて溢れてくる肉汁は、鮮やかな赤い色だった。




 血。





 私はぎゅうと心臓を掴まれたような感覚を覚え、息をするのを忘れてしまった。ぐらりと視界が揺らぐ。


 そして気がついた時には、キッチンの床に膝をつき、オーブンの扉に頭をあずけて寄りかかっていた。胸が苦しい。


 はあはあと荒い呼吸を繰り返す私に、ハニーが心配そうに寄り添って来る。キューンキューンと鳴きながら、私の耳や頬を舐めた。


「……大丈夫だ……大丈夫だよ、ハニー。」


 私はハニーに答えて、よろよろと立ち上がった。せっかくのステーキを台無しにしないようにと、一度火を止める理性は残っていた。ぶるぶると震える手でコップを手に取り、蛇口から水をくんで一気に飲み干した。


 大きく息をついてから、深呼吸を繰り返す。シンクの縁に着いた手に、額を伝う汗がぽとりと落ちた。



 ―――なんてことだ。いつもはここまで反応しないのに……


 込み上げてくる欲求を必死に抑えながら、私はこうなった原因に思いを巡らせた。


 そうだ、今日のあの執刀だ。今日はあの手術の後、時間を置かずに帰ってきたから……


 散歩にも行って、気分転換が出来たと思っていたのに、執刀時の高揚感は抜けきれていなかったらしい。


 それにいつもは意識して、新鮮な肉には術後手をつけないようにしていたのに。今日は久しぶりにゆっくり出来て浮かれていたのだろうか。冷凍だから大丈夫だと、甘く考えていたのだろうか。


 このと付き合って数十年になるというのに、なんて失態だ……。




 キッチンカウンターに寄りかかって呆然としている私の足に、ハニーが顎を擦り付けてきた。キューン、と、相変わらず甘ったるい声を出して私を見上げている。私は微笑んで、彼女の頭を撫でた。


「君に喜んでほしいばっかりに、張り切ってしまったみたいだね。お陰でこのザマだ。僕をたぶらかすなんて、君はなんて悪い女なんだい?ねえハニー?」


 自嘲気味に冗談めいた皮肉を言いながら、私は大きく深呼吸をした。フライパンの火をつけ直して、なるべく凝視しないように手早く肉を裏返す。片面は、こんがりとよく焼けてしまっていた。



 どちらにしろ、私もハニーもウェルダンしか食べられないのだから好都合と、私は気持ちを切り替えたのだった。

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