第二話 きっかけ

 ハニーとの出会いから一年経った今、私はあの時と同じ家に帰る。


 車を同じドライブウェイに停める。今日は雨は降っていない。彼女の感覚は鋭敏だ。恐らく車が近づいて来た時点で、私の帰宅を察したはずだ。ドアの前で尾を降って待ち構える彼女の姿を思い浮かべて、思わず笑みが零れる。今日は早く上がれたから、いつもより早い帰宅に驚いているかも知れない。


 ◆◆◆


 彼女を最初に保護して連れて行ったクリニックには、数日間彼女を預けたままにしていた。私が付きっ切りで看病出来る身ではなかったのが一番の理由だが、私のスケジュールが合わずに迎えに行く事が出来なくて、引き取るのは更に1日遅れてしまったのだ。



「大きな怪我は見当たりませんでした。衰弱の具合も回復はしているのですが、中々食が進みませんね。」


 彼女が連れて来られるのを待つ間、診療室で獣医が言った。建物の様子から比較的新しいクリニックだとは思っていたが、やはり担当医も随分若い男だった。大きな目が人懐っこい印象だ。


「消化器官に問題が?」

「いえ、精神的なものでしょう。」


 獣医の回答に、私は目を丸くした。


 私は外科医である。それでも、確かに人間では精神面が健康に多大な影響を及ぼすのだという事は良く知っている。しかしまさか犬に関して同じ事が当てはまるとは、この時は考えもしなかった。


「何かとても恐ろしい目にあったのかもしれませんし、前の飼い主とはぐれて心細いのかもしれない。全く知らない環境で、周りが知らない人ばかりで落ち着かないのもあるかも。まぁ、ぱっと見は……」


 犬がそこまで精神面でダメージを負うものなのかと驚いている私に、獣医は大きなため息をつきながら言った。


「鬱ですね。」

「ウツ……。」

「ええ、とても悲しそうです。」

「さぁ、いらっしゃいハニー。貴女の命の恩人さんよ。」


 優しく声を掛ける看護師に引き綱を引かれて診療室に現れた彼女の怯えっぷりは、今思い出しても可哀想になる程だ。動物に詳しくない私でも怖がっているのがありありと見て取れ、気の毒に思ってしまった。


 びしょ濡れで哀れな様子しか見ていなかった私は、サラリと乾いて清潔な様子の毛並みにひとまず安堵した。全身を覆う緩やかにウェーブした干し草色の毛は、なかなか見事である。しかし身を竦め、頭を肩より下に下げ、地面を這い蹲るかのようにそろりそろりと壁際を歩く様子は哀れな事に変わりない。彼女の瞳は半分閉じられ、視線を合わせるのを恐れるようにチラチラと室内の人物を伺っていた。


 診察台の下で縮こまってしまった彼女を見るために、私は膝に手をついて腰を折った。彼女は台の影に座り込み、申し訳なさそうに頭を下げている。上目遣いでこちらを見るが、すぐに視線を外す。彼女の上まぶたはハの字に垂れ下がった状態で、視線を移す度にピクピクと動いていた。


「大丈夫よハニー、怖くないわ。挨拶がしたいだけよ?」


 看護師が子供を宥めるように声を掛けるが、彼女が動く様子はなかった。



「ヴィットーさん、なるべく腰を低くして、目線を同じ高さにしてみて下さい。」


 見兼ねた獣医が助け舟を出した。


「目はなるべく合わせないで。犬の仲間ではジッと見るのは威嚇になるんです。特に上からは。こうやって……軽く拳を握って、手の甲の匂いを嗅がせてあげて下さい。匂いで自己紹介をするんですよ。助けてくれた貴方のことを思い出すかも。」


 私は言われた通りに床にひざまづき、少し頭を下げて、右手の手の甲を上にして差し出した。視線は合わせまいと、床を踏む彼女の前足を見る。


 まるで、女王に忠誠を誓う様なその仕草に、視界の端で、彼女が少しだけこちらに鼻を寄せたのが見えた。スンスンスン、と、匂いを嗅ぐ音がする。



 そのままジッとしていると、不意に、差し出した手の指の背に、冷たいものが触れた。


 彼女の鼻先が触れたのだ。




 私が初めて貰った、彼女からのキスだった。




 チラリと見れば、彼女の不安気な視線と目が合った。柔らかそうな瞼と短く揃った睫毛の間に、潤んだ紅茶色の瞳が細められていた。



「それで、ヴィットーさん、どうしますか?」


 獣医に再度声をかけられて、私は彼女を驚かせないようゆっくりと手を引いた。振り返って彼に答える。


「どうする、というのは?」

「このまま彼女の里親になりますか?シェルターに預けますか?私達が代わりにシェルターに届ける事も出来ますが。」


 彼女には、盗難や失踪を防ぐ為のIDチップは埋め込まれていなかったらしい。–––生き物に対してその様な処置を行う事にも、この時心底驚いた–––。首輪など、飼い主の情報に繋がる様な物も身に付けてはいなかった。と、なると、飼い主の方が名乗り出てくるのを待つしかないとの事だ。


「随分と臆病ですが、毛並みはそれ程荒れていないし、長期の栄養失調の症状も無い。既に野良だった、ということはないでしょう。十中八九、最近まで飼われていたはずです。」


 クリニックの方から地域の愛護団体のシェルターに、迷い犬として照会をしてくれたらしいが、今のところ彼女の特徴に合う犬を探している人間は名乗り出ていないとの事だ。


「ゴールデンを探している人はいましたが、ここまで若い雌ではなかったようです。」

「飼い主が現れなかった場合は?」


 私が彼女を家の前で保護してから、既に数日経っている。いなくなってしまった犬の捜索に乗り出すには十分な時間だ。この時点で誰も名乗り出ていないのであれば或いは……


「その場合は、シェルターで新しい飼い主を募集することになります。それまではシェルターが預かるか、一時的な里親に預けることになりますね。」

「一時的?」

「ええ。新しい飼い主に引き取られることになるとしても、実際の家に住んでいた方がシェルターにいるより遥かに動物達にとって良いですから、ボランティアを募るのです。」

「シェルターとはどんな所なんだ?」

「うちのケンネルがいくつもある感じの建物よ。見てみますか?」


 最後の質問には、ハニーを連れて来ていた看護師が答えてくれた。


 ケンネルと言うのは、犬などを入れておく為の檻のことを言うらしい。お言葉に甘えて、クリニックの裏にある実物を見せてもらった。




「何回か行ったことがあるけど、シェルターにあるものはもう少し広いわね。設備は変わらないと思うわ。」


 主に大型犬を入院させる時や、複数を預かる時に使うだというそれは、幅が1.5m、奥行きが2m程のコンクリートの囲いで、手前だけがアルミ製の格子の扉になっていた。中にはメッシュがトランポリン状に張られたものが置かれている。これがベッドになるそうだ。一番奥には溝が彫られていて、掃除の際の下水が流れるようになっていた。


「ハニーもここに?」

「点滴を外してからはそうね。それまでは室内の狭い檻にいたの。」

「……里親とは、すぐに見つかるものなのか?」

「なんとも言えないわ。こればっかりは運に任せるしかないから。彼女は大人しいから難しくないかもしれないけれども、人見知りが激しいから他の犬がいたりしたら心配ね。」


 と、看護師は説明してくれた。




 診療室に戻ると、獣医はおらず、ハニーは診療台の下に大人しく蹲っていた。首にかけられた綱が、診療台の脚に緩く結わえられている。彼女は私と看護師が戻って来ても、床に伏せたままで動こうとしなかった。


「それで、どうしますか?ヴィットーさん。」


 同じ質問を、今度は看護師が聞いて来た。



 今の時点で名乗り出ていないのであれば、この先も彼女の飼い主が見つかる可能性は低いだろう。新しい飼い主を見つけるにしても、彼女は最低でも数日間、あの冷たいコンクリートの空間でひとりぼっちになる訳だ。


 私は彼女を見つけた時のことを思い出した。



 無残に打ち捨てられ、ずぶ濡れで力無く横たわっていた身体。なんとか一命を取り留めはしたが、その精神がまだ癒え切っていないのは、今なら私の目にも明らかだった。


 何があったかは知らないが、あんな仕打ちを受けた彼女が、またあの殺風景な空間に閉じ込められなければならないとしたらあんまりな気がした。


 犬を飼ったことは無い。


 飼おうと思ったことも無い。


 診察台の下のハニーに再び目をやる。床に力無く身を預け、瞳の動きだけでこちらを伺っている。その様子は、びしょ濡れでコンクリートの上に横たわっていた時と、対して変わりない様な気すらした。



 私は看護師に向き直って言った。


「私が連れて帰ろう。」


 それから床に傅いて、彼女に声をかけた。




 思えば自分から彼女に話しかけたのは、これが初めてだった。




「おいでハニー。」


 両腕の間に乗せていた顎が少しだけ動いて、こちらの方を向いた。


 困った様に細められた瞳と、やっと目が合った。


「一緒に帰ろう。私達の家へ。」


 ◆◆◆


 一年後、私はドアの前に立ち、手に持ったキーで鍵を開ける。内側からカシ、カシ、と、控えめにドアを引っ掻く音がする。待ちきれない時に彼女がする仕草だ。私は堪えきれない笑みを浮かべて、ドアノブをひねる。



 ドアが開くと、飛び出さんばかりの勢いでハニーの鼻先が突き出される。彼女の体は、忙しなく振られている尻尾のせいで左右にくねくね揺れる。正面にいたら私が入りづらいのだが、彼女は自分を抑えられないのか、私を見上げて膝元から離れようとしない。顎を私の腿にぺたりと付けて、私を見上げている。


 どんなに嬉しくても、彼女は私に飛び付きはしない。私の進行の妨げにはなっても、両足はしっかりと床に着けている。キューン、キューンと、絶えずか細い鼻声が聞こえる。



 私は仕方なく彼女を押しやるように前に進むが、彼女は断じて自分の位置を譲ろうとはせず、そのままジリジリと後退る。後ろ手にドアを閉め、鍵をかける。上着を脱いで、玄関の横にあるコートラックにかけた。それからやっと、彼女の元に跪く。


 待ち構えたように、彼女の尻尾と身体がより一層早く揺れる。そのまま彼女も腰を下ろすので、床はモップをかけられたようにピカピカになりそうだ。私は両手で彼女の顔を挟み、一旦揺さぶるように力を入れてから、毛並みに沿って何度も手を滑らせる。


「ただいま、ハニー。」



 私の言葉に、彼女はいつもペロリと舌を出し、口元へのキスで答えてくれる。

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