第一章 一日目

第一話 出会い

 ハニーと出会ったのは、一年ほど前だ。この街に越して来て間もない頃だった。



 その日は朝から天気が悪い日で、土砂降りの雨の中ガレージの無い自宅へ帰宅し、ざあざあと雨音を立てるコンクリートのドライブウェイに車を停めた。


 これだけ降っていても玄関迄の短い距離で傘を差すのは億劫だったので、不快な水の侵入を多少遮るためにコートの襟を立て、首をすくめただけで車から出る。雨脚はあっという間に頭皮と頬に滴る水を感じさせ、ジャケットにばちばちと大粒の水滴が叩きつけられる音がするほどだったので、あまり意味は無かったが。


 煩わしいとは思ったが、家に中に入ってしまえばどうせ直ぐにシャワーだ。ジャケットは明日までに乾けばいい、と、急いで車のドアを閉め、家の中に駆け込もうと玄関先に向き直った時だった。



 ドアの前に、正体不明のずぶ濡れの黄色っぽい物体が、でろりと横たわっているのに気がついて息を飲んだ。



 車を停めた時は、庭の植栽が邪魔をして見えていなかった。地面に張り付く様に力無く横たわる様子を見れば、それが人工物では無く、元は柔らかい筋肉と皮膚がいくつもの関節を覆った生き物であったことは、夕暮れ前の雨に霞んだ遠目からですら明白だった。


 それが、サイズからして恐らく犬であろう事も。



 不意に生き物の亡骸を見た時の、あの独特の「竦み」は、なぜ起こるのだろう。


 機能するために緻密に創り上げられた芸術品がその役割を果たさず、それを司る意思無しに打ち捨てられていることに対して、あるべき姿である–––生きている–––自分の身体が怒り、拒絶するからだろうか。それともその状態を恐れるからだろうか。そんなのは認めない、それは間違っているんだと。そうなるべきではないのだと。


「生き物」の身体は、「生きている」べきなのだ、と。



 –––ついてない。


 黄色い塊を目にした直後にそう思って、その日の不運を呪った。


 そう言えば今日は職場では書類の取り違いがあったり、協力的でない患者に立て続けにあたったりと、思い返せば良くないこと続きだ。おまけに雨にも降られて、最後は自宅前に動物の死骸……。


 いたずらか?嫌がらせか?それともここで力尽きたのか?だとしたら何だってうちの前なんだ?他にも家はあるし、しかもわざわざ玄関の前だなんて、俺に何か恨みでもあるのか?俺はどれだけ運が悪いんだ?それとも俺が何かバチが当たる様な事をしたって言うのか?



 理不尽な運周りに対する憤りを少しでもやり過ごそうと溜息を吐き、業すら疑いながらやけになった様に歩を進める。


 越して来たばかりだが、この辺りはこんな事が日常茶飯事だったりするのか?ならば再度の引越しも考えなければならない、とも思った。


 さして広く無い敷地では数歩で玄関の前について、その哀れな亡骸の傍で立ち止まり、もう一度溜息をつきながらしゃがみこんだ。


 もう既に、衣服の中への浸水被害は気にしないことにした。そこまで気温は低くないとはいえ、水浸しになればそれなりに寒かったが、既に手遅れだし服は着替えればいい。だがこれはこのままにしておくわけにはいかない。明日の朝、放置された遺骸を跨いで出勤するなんてごめんだし、そこにあると分かったままでは夢見が悪過ぎる。


 近づいて見たら、やはり犬だった。


 毛足の長い種類で、耳はだらりと垂れ下がっている。動物には詳しくないのでよく分からないが、サイズは大型の部類だろう。こちら側に、前足と後ろ足とが絡んで投げ出されている。干し草色とでもいうのか、ぼんやりとした色の毛皮が、シャワーの様な雨に容赦なく叩きつけられてずぶ濡れだ。全身、尻尾の先まで余すことなく水に浸っている。薄く開いた口の縁は、毛の生えていない別の色の皮膚に囲われていて、その隙間から尖ったいくつもの白い歯が覗き、雨で濡れて艶めいていた。血の気の引いた舌が反対側に力無く草臥れて、口先に少しはみ出ている。



 何だってこんな所で死んでくれるのか。いつ死んだのか、何があったのか。それとも誰かが持ってきたのか。


 分からないままでは当然気味が悪くて、何か手掛かりになる様なものが無いかと、医者という職業柄かつい冷えてしまった手を伸ばして身体を探ろうとした。死んだばかりならまだ柔らかいだろうし、時間が経っていれば冷たく硬いだろう。同じ哺乳類なんだからその辺は人間と変わりはないはずだ。


 手袋が欲しかったが、そこまで念入りに調べるつもりは無かった。市に連絡すれば処理してくれるのだろうか?警察にも連絡するべきか?引き取ってもらうにしても、このままでは人の目もある。万一通りかかった女子供が目にしてトラウトにでもなったら不憫だ。どちらにしろ他の場所に動かさなければならない。この後しっかり手を洗って除菌しよう。




 首元に触れて首輪が付いてないことを確認した後、つい癖で瞳孔が確認出来ないかと親指で瞼を引き上げ、それが存外に柔らかかったことと、その目玉が白眼をむいてぎょろりとこちらを見たことで心底仰天した。




 人は生きているはずのものが死んでいる時に驚くが、死んでいると思っていたものが生きていても同じくらい驚くらしい。



 驚きで滑稽なほど跳ねた手が離した瞼はまた殆ど閉じてしまったが、その隙間からぬらついた瞳がせわしなく動くのが見え、人であれば眉頭にあたるであろう場所がピクピクと動いた。しきりに降ってくる雨の雫が煩わしいのか、睫毛に水滴が当たるたびに下瞼が震えている。



 –––生きている–––。


 身体の他の部位はピクリともしなかったが、よくよく見れば腹部がほんの僅かに上下していた。じっと見なければ分からないほど微かな呼吸だった。


 恐る恐る身体に触れ、目立った外傷は無いことを確認した。前足や後ろ足を持ち上げてもされるがままで、抵抗する様子が無い。酷く衰弱しているだけだと判断した。




 相手は犬だったが、生きていると分かればやる事は決まっていた。


 死なない様にするのだ。


 怪我は無くともこのままにすれば、程なくしてこの犬は確実に死骸になる。


 自分が何かすればそれは避けられるのだから、そうするのだ。


 医者とはそういうものだ。




 とは言え人間以外は専門外だ。一刻も早く専門家に見せるべきだと判断した。


 この状態では身体を温めても経口で水分や食物を摂取させられるか判らない。動物相手にだって、点滴くらいあるだろう。怪我や病気があったとしたら、自分では対処も出来ない。



 一度家の中に入って、バスルームからあるだけのタオル–––一人暮らしなので大した量はなかったが–––を持って車に戻り、車のバックシートにいくつか重ねて敷きつめた。玄関前に戻って、車に乗せるために犬を抱え上げることにする。


 乾いていて健康な犬ですら抱いたことがなかったので、力無く横たわるびしょ濡れの大型犬を持ち上げるのは至難の業だった。骨折や内臓への損傷が無いことを祈って丁寧にやったつもりだったが、手馴れていないので結果的に雑に扱ってしまったに違いない。痛みがあれば身体がこわばるなど何かしら反応があると思ったが、くたりと力が抜けたままだったので大丈夫だったと願いたい。反応する体力も残っていなかったのかもしれなかったが。


 最初は前足の下に両手を差し入れて持ち上げようとした。が、人間と同じで力の入っていない生き物の身体はぐにゃぐにゃで非常に扱いづらい。変なところを引っ張っては怪我を増やしてしまう。担架のようなものが欲しかったが、代用できるものが思いつかなかった。仕方がないので両腕を胴の下に差し入れて持ち上げた。前足と後ろ足、頭と尻尾がぶら下がっているような状態になる。手に触れた水浸しの毛皮は、あまり気持ちのいいものではなかった。


 開いたままにしていたドアを肘で押し広げ、片膝をシートに乗り上げてなるべく中央にその身体を横たえた。車が汚れるのを防ぐために、まだ余っていたタオルをシートの背もたれ側に挟み込む。敷き詰めたタオルでは吸収しきれず水は浸みてしまうだろうが、濡れただけなら乾けば大丈夫だ。


 出発する前に身体を軽く拭ってやろうと思ったが、毛皮があっては人の様にはいかない。洋服であれば脱がして乾いたものに替えてやるべきだが、毛皮は脱がせられない。痛めたところがあれば触らない方が良いかもしれない。どうするべきなのかよくわからなかったが、取り敢えず一枚のタオルを毛並みに沿って滑らせ申し訳ない程度に身体の表面を拭い、残りのタオルで体温がこれ以上逃げないように包んでやった。既に乾いたタオルは品切れとなったが、保温が十分でないような気がしたので、かろうじて内側は濡れていない自分のコートを脱ぎ、その上から覆った。最後にはみ出た頭部に手を伸ばし、再度親指で瞼を引き上げて、その目がまたぎょろりと動いたことを確認してからドアを閉めた。


 運転席に乗り込んで、スマートフォンで獣医を検索する。一番近いところに電話をかけながら、車を出した。


◇◇◇



 電話に出てくれたのは二件目にかけた獣医のクリニックだった。程なくして辿り着き、車を停める。バックシートに潜り込み、再三瞼を引き上げ、目の動きで生きていることを確認してからコートとタオルごと犬を運び出した。包む用に持てば抱えやすいことにこの時気がついた。


 ガラス戸を押してクリニックに入ると、嗅ぎ慣れた消毒用のアルコールの匂いに負けないくらい強く、なんとも言えない香りが充満していて、むっと鼻をついた。香ばしいような、酸っぱいような、あまり爽やかなものではない。待合室や診察室、その奥にいるであろう様々な種類の患者たちの匂いであろう。受付のカウンターに大きな四角い鳥カゴがあり、その中の派手な色の鳥が図ったように大きく鳴いた。


「ピギーーーーッ!!」


 随分元気だ。彼(彼女?)は患者ではないのかもしれない。


「ヴィットーさん?」


 カウンターを挟んで座ったまま、小さな犬を抱いた中年の夫人と話していた女性が、手元の書類を離さずに電話で伝えてあった名前で呼びかけてきた。はい、とだけ答えると、女性はやはり書類は手にしたまま身体をねじり、後ろに向かって叫んだ。


「ねえ!電話の急患が来たわよ!!」


 それだけ言うと、もうこちらには見向きもせず、中年の女性へ向き直って会話を再開する。


「ごめんなさいね。ええと、次の検診は……。」


 医療現場というのは、種族が違ってもどこも人手が足りず慌ただしいのかもしれない。受付嬢の代わりに、カウンターの左隣、自分の正面にあった扉が開いて、小柄な金髪の女性が現れた。人用のクリニックでもよく見るような、青系色のスクラブの上下に小さな名札を付けて、人懐っこい笑顔を向けて来た。人間相手なら看護師だろうが、動物相手では何と呼ぶのだろう。


「こんにちは!その子が患者かしら?」

「あ、ああ。」


 女性が抱えるには結構な大きさだと思うのに、彼女は躊躇なく私の腕の中から犬を救い出し、慣れた手つきで抱き上げた。器用に片手でその全身を支えると、空いた手で被せていたコートをずらし、犬の顔を覗き込んだ。


「まあ可哀想に!」


 一目見てその衰弱具合を理解したのか、眉を寄せて小さく叫ぶ。まるで具合の悪い赤子を心配する母親の様だ。


「このまま連れて行くわね。貴方はカウンターで受付を。」

「仕事から帰ったら雨の中家の前で倒れていたんだ。見つけたのは30分くらい前。いつからいたのかは分からない。目立った外傷は無かったが、ここに来るまで全くと言っていいほど動かなかった。体温が逃げない様にしたが、何も飲ませていないし食べさせていない。」


 電話で概要は伝えてあったが、女性が行ってしまう前に念の為状況を口頭で説明しておいた。それを聞いた金髪の女性はパチクリと目を瞬いたが、すぐににっこりと笑って答えた。


「わかったわ。任せて。さぁ行きましょうスウィーティー。」


 小さい子供にでも話しかける様に、甘い口調で腕の中の犬に声をかけながら踵を返し、女性は扉の奥へと消えていった。



 受付を、と言われたので、中年の女性が立ち去るのを見計らって、カウンターに近づいた。


「こんにちは、ヴィットーさん。こちらを記入お願いします。」


 こちらが声をかけるより早く、あまりにこやかでは無い受付嬢に紙を挟んだクリップボードとペンを渡された。問診票の様だ。カウンターの端、きゅろきゅろと騒がしい鳥籠の近くに移動してから、記入しようとしてはたと手を止める。


「その……」


 既に別の書類を手に何やら作業を始めていた受付の女性は、私が声をかけたはいいが言い淀んでいるのに気付いてくれた。また声をかけてくる。


「ヴィットーさん?」

「……その、私の犬では無いんだ。電話した通り、倒れているのを見つけて。だから……」



 問診票の一番最初の欄は、患者の名前だ。



 その後には種類やら年齢やら病歴やら持病やらが続く。さっき見つけたばかりの犬の情報を、私が知る訳がない。犬種なんて見てもわからないし、性別すら推測できない。記入できる欄は、一番下の「飼い主」の名前と住所と電話番号くらいだが、厳密に飼い主なわけではないので、これも記入して良いものか迷ってしまう。



 女性は私からクリップボードを奪い去ると、また身体を捻って叫んだ。


「ねぇ!今の子犬種は!?」

「多分ゴールデーン!」


 受付の後ろの壁にある、扉の無い小窓の向こうから陽気な返事が聞こえてくる。さっきの女性だ。壁の裏が処置室になっているのだろうか。受付の女性は私の代わりに問診票を記入しながら、また叫ぶ。


「何才くらい?」

「1、2才くらーい?」

「性別は?」

「女の子よ〜♬」


 息の合ったやり取りで、女性は空欄を埋めて行く。程なくして、クリップボードとペンをまた私に差し出して来た。


「あとわからないところは記入しなくていいわ。名前だけは、取り敢えず仮でいいから付けてあげて。」


 名前。


 急に言われて困ってしまう。人でも生き物でも、命名した経験は無い気がする。


 受付嬢が主要な欄を記入してくれた問診票に目を通す。種類の欄には、「犬、ゴールデンレトリーバー」とあった。性別の欄には、雌、と。そしてさっきの看護師の語りかけを思い出す。


 –––さあ行きましょう、スウィーティー。



 甘くて、金色。


 女の子。



 私は非常に安直に、一番大きく囲われている名前の欄に、「ハニー」–––蜂蜜–––と書いて、続いて飼い主の欄に自分の名前を記入したのだった。

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