第23話 彼女との出会い⑦
リンの家に帰ると、何故か家中の皿という皿や水瓶が外に出ていた。
「あら、雨水溜めといてくれたの?洗濯物も取り込んでもらえたのね、ありがとう」
「皿を勝手に使ってごめん、どうやら水道が止まっているみたいだから、必要かと思って」
「そうなのよ。だいぶ前から水道は使えないわ」
報セが雨水を溜めるために出したようだ。
「それから鍋と体を拭く布を貸してもらえないかな?贅沢は言わないが、身体を清潔にしておきたいんでね」
確かに報セも凪も清潔とは程遠い。夏場なのに何日か風呂に入っていないうえに、土牢だの廃工場だのにいたおかげで汚れている。報セに関しては、雨の中皿を出していたせいか、濡れた野良犬のようななんとも言えない臭いである。
「いいわよ。石鹸もあるから、好きに使ってちょうだい」
「ありがとう」
リンは湯を沸かすために台所に向かったので、翼はついていった。リンは大鍋に湯を沸かして沸騰させた。リンが使っているのはかなり古い着火装置だが、未だに現役だ。心石の製品の良いところの一つは、磨いて大切に使えば長持ちすることである。
「雨水でも、川の水でも、一回沸騰させればなんでも使えるものよ」
とリンは言う。都会育ちの翼にはなかなか受け入れ難い感覚だが、人間というのは意外と頑丈にできていて、少々衛生面に問題があっても、なんとかなるものなのだ。
「風呂桶があるから使っていいわよ。布と石鹸はこれ、剃刀使うならどうぞ。あとで私も使いたいから、湯船は残しておいて」
とテキパキ指示を出して、リンは台所に戻った。
翼は暇なので、刀の稽古をすることにした。台所は狭いので、外に出た。
「あんまり遅くなる前に帰るのよー」
とリンが言うので、迷子にならないためにも翼は庭で稽古をした。にわか雨のあとの庭は露に濡れてなかなか風情があった。リンの庭には薬草らしき緑の草しか生えていなかったが、草には草の美しさがある。
稽古を終えて家に入った翼は見慣れぬ人間を発見した。
「誰?」
「いや僕だよ、僕!」
その男はリンが来ているようなだぼだぼの、だが大きさが身体に合っていない服を着て、髪を一つに縛り、痩せていて垂れ目で眉が濃かった。
「……もしかして報セさん?」
「そうだよ!」
清潔感は大事だ、と翼は痛感した。報セが修行僧に見えたのは、ボサボサの髪と無精髭、無精をしたのではなく剃れなかっただけだが、これが原因だったようだ。どちらの要素もなくなると、それほど修行僧には見えない。
「その服は?」
「リンのおばあさんの服らしい。洗い替えがないから貸してくれたんだよ」
なんだか若返りましたね、と思ってはいたが口に出さなかったのに、シイ神さまが
「こやつ若返っただろ?」
とニヤニヤしながら尋ねてくる。
「若返った?僕そんなに老けてました?」
「ああ。前は見た目だけなら四十超えに見えたが、今は三十五くらいに見えるのだ」
正直すぎるシイ神さまの一言に、報セは少なからず傷ついたらしい。
「四十超えか……。僕まだ三十二なんだけどな……」
「報セさん、あの、悪気はないので……」
俯いていた報セは、まっすぐに翼を見た。
「僕はそんなに老けているかな?」
「え……」
「なあ、翼はどう思う?」
「ええ……」
まさか、俺も老けてるなぁと思ってました!父上より年下なんですね!と言うわけにもいくまい。なんとかして下さいよ、とシイ神さまに目で助けを求めたが、シイ神さまは相変わらずニヤニヤしている。
「貫禄があるんじゃないですかね……」
と慰めにもならない当たり障りのない言葉を選んだ。そのすぐ後に
「ご飯よ」
とリンが入ってきてくれて、本当に助かった。
「何?何か揉めてるの?」
「いや、そんなことないよ!」
と翼が否定した側から
「山藤が実年齢より老けて見えてたって話だ」
とシイ神さまが真実を告げる。
「あらら。大丈夫よ、私も老けて見られるわ」
たしかにリンは年齢不詳である。ふと気になって翼は尋ねた。
「リンはいくつなの?」
「こら。不用意に女の歳をきかないの。そうね、あなたより年上で山藤より年下よ。たぶん」
それは見ればわかる、と翼は思ったが、不用意に歳の話をするなと言われたばかりなので口には出さなかった。
「山藤もだいぶ変わったけれど、あなたもかなりの変身ぶりね、凪」
ちょうどその時、凪が髪を拭きながら出てきたので、リンは話を上手く転がした。
凪の見た目がかなり変わったのは事実である。まず色合いが違う。フケがなくなって髪の色が濃くなり、垢がとれて肌の色が明るくなった。顔立ちは元から美少年だったが、それがより顕著になっている。長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳は玻璃のように澄み、頬にわずかに赤みがさしている。見事に釣り合いのとれたその顔立ちは、無表情も相まって、浮き世を離れた聖者のようであった。痩せすぎで痛々しいのは変わらない。
「これが本当の垢抜けだね」
と報セがしたり顔に言ったが、翼とリンが苦笑いを浮かべるだけで、シイ神さまと凪に至っては眉をひそめたのだった。
夕食は相変わらず粗末な芋粥だった。忘れていたけれど、昼食も食べていない。菱の島の暮らしの厳しさを、翼は肌で感じた。
「神よ、感謝いたします……」
凪は相変わらず食べるのが早い。ほとんど飲みこんでいるのかと疑うほどに。しかし凪は朝とは違い、席を立たなかった。
「なんだよ、部屋には行かねえの?」
嫌味たらしくなってしまったことに気がついて、翼は慌てて言い直した。
「いや、行けって意味じゃなくて」
翼が話し終わらないうちに、凪が先程より大きな声で呟いた。
「もう少し、ここにいる」
背を丸めて、俯いている凪はいつもより一層小さく見えた。凪が自分の意思を示したのは、廃工場を出てからほとんど初めてではないだろうか。翼は思わず報セと顔を見合わせ、喜びを共有した。
「何ニヤニヤしてるのだ、気持ち悪い」
シイ神さまに水を差されたが、そんなことも気にならない。頑張りは無駄にはならない。本当だ。
夕食を終えると、四人と一柱で、といっても凪は気だるげに相槌をうつだけだったが、どうでもいいことばかり話して、どうでもいいことに笑って、翼は安らかな気持ちで眠りについた。
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