第22話 彼女との出会い⑥

 リンが水を汲みに行く、と言うので、翼はついていく事にした。


 森の中を迷うことなくリンは進む。山道に慣れていない翼は慌てて追いかけた。道は曲がりくねって複雑だった。道中の景色から、リンの家は山の中腹に位置することがわかった。


無事に水を汲み、リンは天秤棒を担いで家路についた。ところが急に天候が変わり雨が降りだしたので、リンは大きな木の下に退避した。


「困ったわね」


「俺が先に帰って、傘持ってきてもらおうか?」


「ありがたいけど、あなた帰り道わかるの?」


「確かこっち!」


翼は右を指差した。


「残念。反対方向よ。雨が止むのを待たない?あなた一人じゃ迷子になるわよ」


翼は仕方なく木の下に戻った。


雨はしとしとと辺り一面を濡らしていく。鮮やかだった木々は淡い鈍色を帯び、気温も下がっていった。雨の日は憂鬱だ、と翼は思う。雨そのものが嫌いなのではない。雨の運んでくるこの静けさや湿り気がたまらなく憂鬱な気持ちにさせるのだ。


「よく降るわね、ここ最近降ってなかったからよかったわ」


リンの考えは違うようだ。


「そう?俺は嫌いだけど」


翼は不機嫌に応えた。


「あら、雨が降らなければ植物は死んでしまうわ」


「そりゃそうだけど……」


そういう現実的な問題ではないのである。これは感覚の問題である。


「雨も神の下に在るものよ」


リンは簡潔にまとめた。その一言で、リンは青の民なのだ、と翼はすとんと胸な落ちるものがあった。リンの発した『神』という言葉に、自らの『神』とは異なる価値観を唐突に、しかしながらはっきりと認めたのである。凪の祈りの言葉といい、この土地には翼の知らない『神』の在り方があるのだ。


「神、ねぇ……」


「神はいつでも御覧になっている、私たちは生きている。頑張りは報われないかもしれないけど、無駄ではないわ」


兄のことが頭をよぎった。


「俺は兄う、じゃなかった兄貴が一人いるんだ」


他人と話す時、身内に敬称をつけるのは言葉の作法に反するので呼び方を変えたのだが、リンは気がつかなかったようだ。


「あら、そう。その兄上がどうかしたの?」


まあ、いいか。翼はいつも呼んでいるように、兄の鷹目を兄上と呼ぶことにした。


「兄上はすごいんだ。努力家で真面目で優しくて、勉強も刀術もできてみんなに慕われてて。父上も母上も、期待を寄せているのは兄上なんだ。でも受験に落ちちゃって……」


特に卑屈になっているわけではない。翼の目に映る現実は、兄を中心に回っていたと言っても過言ではない。武術では兄を上回り、褒めてくれる人も増えたが、どこにいても兄の影がちらついた。


「ふーん。それで?」


リンの興味なさげな反応に、ムキになって返した。


「すごく頑張ってたんだよ。それなのに視力のせいで結果は不合格だし、父上には責められるし、気の毒で」


半分は本当で、半分は見栄だ。気の毒だとは思っているが、それだけではない。


「翼には兄上の頑張りが、無駄になったように見えるのね。でも私には、その学校だけが学校じゃないし、勉強を頑張ったことは無駄ではないように見えるわ。詳しい事情は知らないけど。でもどうしてそんなに兄上の受験を気にするの?」


リンには翼の葛藤など奇妙なものに見えるのだろう。


「……合格発表の日が、俺の大会と重なって。俺は剣術と拳闘を習ってるんだ」


「そう」


「正直なところ父上は俺には期待してなかったから、翼でも頑張れば優勝できた、お前が不合格だったのは頑張らなかったって、兄上に」


自分で口にしておいて、翼自身が傷ついた。父は翼には期待していなかった。薄々思っていることでも、こうもはっきり口にしてしまうと辛かった。


「あら。それは兄上の立つ瀬がないわね。まるで関係ないじゃない。しかも不合格の理由は視力でしょう?」


そうだ。鷹目は被害者なのだ。それは翼も理解しているのだが。


「それ以来、兄上とは上手くいってないんだ」


その一言に尽きる。あれから上手くいかない。仲の良い家族だったのに。


「そう。翼は兄上とまた仲良くなれるように頑張ってるわけね」


リンの言葉は翼には意外なものだった。


「え?いや、そうでもないけど。あの人最近ムカつくことしか言ってこないし」


リンの顔を覗くと、にこやかな表情だ。


「でも、そういうモヤモヤも、私は無駄じゃないと思うよ」


「もしかして慰めてくれてる?」


哀れみなら御免だ。


「いいえ、事実を言っているだけ。翼が頑張っても、悩んでも、理解してもらえないかもしれない。でも翼が頑張っていることを、私は知っているわ。もちろん神も見ている」


「やっぱ慰めてんじゃねーか」


翼は大げさにむくれてみせた。本当は、私は知っているわ、の一言が嬉しかった。


「じゃあ神さまはなんで助けてくれねーんだよ。見守ってくれてるんだったら、助けてくれたっていいじゃないか」


「見守っているのではなく、見ているのよ。人間の事は人間でどうにかしなければいけないの」


「直接言われたわけでもないのに」


「目に見えるもの、耳で聞こえるもの、手で触れるものだけが全てではないわ」


「そういうもんかねぇ」


習慣的な宗教しか持たない翼にとって、青の民の形而上学的な神は異質で不可解なものだった。それでも気味が悪いと思わなかったのは、リンが話すことだからかもしれない。リンは背が高いから、目を見ようとすれば、なんだか癪だが、見上げなければならない。見上げてみるとリンはまたあの、穏やかな微笑みを浮かべている。木が防ぎきれなかった雨の雫が、瑠璃色の着物を濡らして濃い色に変えていた。もう少しだけ雨が降っていればいいのに、と翼は思った。でもそう思ってるのは、リンには絶対に内緒だ。


雨が止んだ。


「案外降らなかったわね」


「そうだな、にわか雨だったんだな」


リンは再び天秤棒を担いだ。


「それじゃあ帰ろう、翼。凪と報セさんがお腹を空かせて待ってるわ」

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