ワレワレガウチュウジンダ
桜人
第1話
小学生、いや、それよりももっと幼かった頃からだとは思うが、当時の私にとって、外国語(英語やフランス語なんて区別すらまだ幼い私にはついていなかったように思う。ただ日本語以外の言語全てを指して、外国語だ)を話す人たちなんてものは、まさしく宇宙人そのものだった。外国人がわけの分からない文字を使って、わけの分からない発音で、わけの分からない言葉を話す――その様はUFOに乗って地球人を攫いに来る宇宙人が、TVの中で〇※♯■%♭と話すのと大差なかった。
――でもチハルくんだってね、いつかは話せるようになるかもしれないよ、外国語。
いつしかそんな趣旨のことを話した時、小学校の先生は私の頭をゆっくりと撫でながらそんな風に私のことを慰めてくれたように思う。
ちがうよ先生、ちがうよ。だって、ぼくがもっと小さい時からうちゅう人はテレビに出てるけど、うちゅう人たちの言ばはいつになっても変な文字ばっかりで、ちっともかい読されないじゃないか。外国語だって同じだよ。
なんて、確かその時はそんな風に、私は心の中で先生に反駁していた。この時の私の頭の中では、外国人は宇宙人で、外国語とはすなわち宇宙語であるというへんちくりんな図式がすでに出来上がってしまっていたのだ。全世界のみんなが未だ宇宙語を解読できないくせに、どうして僕が外国語を話せるようになんてなるだろうか、とか、そんな思いを抱え込んで生きてきた。
だから、中学校に上がって英語を本格的に学習するという段になって、私は衝撃と感動と高揚を覚えることになった。英語にも単語というものがあって、それは「私=I」といったように一対一で対応していて、それらの単語を組み合わせて順番通りに並べると、日本語と同じような文章を作ることができる。
世界が広がった気がした。
話せる! 英語が話せる! 外国語が話せる!
それからの私は、簡単な挨拶を意味もなく英語で行うようになり、そして街にあふれる英語を余すところなく目で追うようになった。さながら私は宇宙語を操る通訳者で、そして普段何気なく目にしていた街の看板などを日本語に変換する翻訳者だった。これまでは外国人に話しかけられても逃げることしかできなかったが、しかし中学校に上がってからの私は、むしろ自分から彼らに積極的に話しかけていった。恐れることは何もなかった。だって、彼らは宇宙人でも何でもない、同じ人間なのだから。
そうして時は巡って、それが起こり始めた時、私はアメリカはニューヨークにいた。子供の頃のちょっとした体験が将来就く職業の方向性を決定づけてしまうなんていうのはよくあることで、そのご多分に漏れず、私は英語に関連した仕事に――
「Hey, Chiharu. Take this with you!」
「Okay, wait a minute!」
――就いてはいなかった。私の現在の職業はしがない清掃員である。幼い頃の劇的な体験が将来の夢や目標を方向づけることは多々あろうが、その夢を実際に叶える人はそう多くはなかったということだ。勢いに任せて単身アメリカへ乗り込んだまではいいものの、現実は厳しかった。夢が破れたのならば大人しく日本へ帰ればいいのだが(幸いにして両親は健在だ。今も元気に二人でキャベツ農家を営んでいるに違いない)、大口を叩いて日本を発ってしまった手前、帰るに帰りづらいのが実情だった。
「Hey, after this job is done,」
そうして、そんな時に、それは起こった。全世界的にみた場合果たして本当にこの瞬間が始まりだったのかは定かではないが、少なくとも私にとっては、「この仕事終わったら飲みにいかねえか?」と、同僚のアンディを誘おうとした瞬間が、全ての始まりだった。
「〇※♯■%♭」
「は?」
「×!※□◇#△!」
「いや、何言ってんだお前」
途端に、アンディの言葉が聞きとれなくなった。どんな発音で、どんな文字体系で、どんな文法で、どんな単語をどんなふうに並べているのか、何もかもが分からなくなった。
混乱する私とアンディ。彼は困惑したように眉根を寄せている。なるほど東洋人には決して真似できないような、何とも雄弁な表情だった。言葉は通じずとも、彼の抱いているだろう感情はおおよそ読み取れる。
そんな私たちの耳に衝撃音が飛び込んでくる。
外へ目をやると、そこではいくつかの自動車がハリウッド映画のごとくペシャンコになって転がっていた。
どうして「私=I」は成り立つのか。答えは簡単で、「私=I」という前提でいざ英語話者に会話を試みてみるとあら不思議、それっぽく会話が成立してしまうからである。そこにそれ以外の理由はない。「1+1=2」を成立していると認めるためには様々な定理を駆使して証明を行わなければいけないだろうが、「私=I」や「リンゴ=apple」を証明するためには定理なんて必要ないのだ。
英語話者に対して、リンゴを指さして「リンゴ?」と問う。すると英語話者は「apple」と答える。日本語話者は「あっぷる」と反復する。英語話者は「apple」と繰り返す。日本語話者は「アップル」と唱えながら「そうか、リンゴは英語でアップルと言うのか」と学ぶ。ここに「リンゴ=アップル」という公式は誕生した。QED。
そう。つまり、「私=I」も「リンゴ=アップル」も、完全に正しい式であるとは、誰にも断言できないのだ。いちいちリンゴを指さして確認するのでなくて、辞典にあるような定義でもって「リンゴ=アップル」を示せばいいという考えが出るかもしれない。しかしどうだろう。その定義に使用される言葉もまた、過去へ辿れば個人間でなされた不確実な指さし確認を基にして出来上がってはいまいか。
私は中学生で英語を学び始めて衝撃と感動と高揚を覚えた。何故なら、英語にも単語というものがあって、それは「私=I」といったように一対一で対応していて、それらの単語を組み合わせて順番通りに並べると、日本語と同じような文章を作ることができるから。
本当に?
グローバルな世の中を生きる私たちは外国語を当たり前のように使用している。本来は遠い異国で生まれた言語を当たり前のように目にしている。読んでいる。聞いている。話している。理解している。
本当に?
偶然、たまたま、これまで何千年もそれとなく会話が成り立ってきたからという理由だけで、今までどうして誰も、本来の外国語は何もかも意味が違っていて、「私≠I」で「リンゴ≠apple」で、文法も間違いだらけかもしれないという危惧を、抱かなかった?
「どなたか日本人の方はいらっしゃいませんかあ」
とりあえずアンディとなし崩しに別れて三十分。私が三十余分ぶりに意味の理解できる言葉を耳にして、実際にその声のする方へと向かって、そこでいかにも日本人ですと言わんばかりの平板な顔の人と出会ったときに抱いた私の歓喜はいかばかりか。
どうやらそれは相手の方も同じだったようで、私たちはお互いを視界の端に認めた途端、お辞儀をして握手をして抱擁を交わした。さすがにキスはしなかったが、相手がホームレス風のみすぼらしい姿で異臭を放ってさえいなければ、話は変わっていたかもしれない。
「一体何があったか、分かりますか」
「いや、私にもさっぱり」
ニューヨークの街は大騒ぎだった。あちこちから怒号や悲鳴が聞こえる。明確な脅威は何もないのだ。ナイフと銃を持った狂信者が現れたとか、爆弾を全身に括りつけたテロ犯がいるとか、動物園の虎が脱走したとか、自動車が暴走しているとか(いや、一部混乱した人々によって数件交通事故は起きていたか)、ハリケーンが襲ってくるとか、そんな危険は一切ない。けれども街中がどよめいている。さざめいている。見えない何かに怯えている。
世界最大の多民族国家アメリカの中心部。数多の民族を抱え、世界中の人々によって成り立つ、グローバルの象徴。そのニューヨークは今、混乱に包まれていた。
そんなバカな、と思うかもしれない。これまで何千年と積み重ねてきた人類の異国語交流という経験が、実はたまたま上手く会話が成り立っていただけの産物でしかないなんて、そんな可能性はゼロに近いと、そう反論するかもしれない。
確かに外国語との会話が積み重ねられてきた期間はたかだか数千年程度で、それは宇宙史の中で――いや、人類史の中で見ても、砂粒のように短い期間だろう。しかしその中でなされた会話はヒマラヤ山脈を構成する砂粒の総量を上回るほど多い。無限に近い数だ。
無限とは有限な世の中には決して存在しないものであり、無限の概念を取り入れた数式は、しばしば私たちの感覚では到底受け入れられないような結果を示す。「0.999…=1」のように。この数式に現れる二つの数字を紙の上に書き並べた時、多くの人はこれらを「0.999…<1」と不等号で結びたくなるはずだ。しかし実際は違う。定められた論理に則って計算をしてみれば、この二つの数はイコール、つまりは等号で結ばれるはずである。詳しい説明は省くが、すなわち、無限には0.999…を1にしてしまうような、位の数を変えて小数点を消し去ってしまうような、そんな埒外の権能を備えているということになる。
翻って外国語との会話の総量。
果たしてそれは本当に無限だろうか。否、限りなく無限に近い有限だ。決して無限ではない。そして無限ではないのなら、あらゆる可能性は可能性として存在し続けることになる。
ある科学者が言った。この宇宙で生命が誕生する確率は「腕時計の部品を太平洋に投げ込んで、それらが波に揉まれて設計図通りに組み上がり、ゼンマイが巻かれて、ちょうど時刻通りに動き出す」確率よりも小さなものだと。しかし生命の誕生する確率はゼロではない。理由はみんなが知っている。だってそんな計算をしている私たち自体が生命であり、それを証明する実例なのだから。
この科学者の話が今の私たちに与える教訓とは何か。それは「どんなに低い可能性の事象だろうと、起こりうる」ということだ。
そう、一兆個の面を持つ多面体のサイコロ(正多面体ではないのでそれぞれの面が出る確率は一定ではないが)を転がしたとして、とある面が一兆回連続で出る事象だって、まあ、起こらないということはないのだ。
一週間が経った。あれから世界は大混乱だ。どうやらこの変な現象は世界共通のようで、母国語以外で他人と意思疎通を図ることはもはや不可能らしい。国際的な取引はほぼ全てが中止、ニューヨークの人々は同郷の人を求めてそれぞれのグループに分かれだした。自国の駐米大使館や日本人街やチャイナタウンといった街へ、とにかく話の通じそうな人を探して寄り集まろうと、道路はいつも渋滞していた。
私とホームレス風の日本人は日本人街を目指してニュージャージー州へ向かっていた。公共交通機関はまともに機能しておらず、個人事業主の運び屋は法外な値段を吹っかけてきて、中々思うように進めない。
道行く人の中には自身の母国語を示すために出身の国旗をスカーフのように首に巻いていたり、またその国の地図などをTシャツなどにプリントアウトしたりしている人も見られる。
「今頃地球の裏側ではこれを機に戦争が起こってたりするかもしれませんよ」
「まさか。みんな自国のことで精一杯ですよ」
「いやいや、ロシアや中国にいる人のほとんどはロシア語や中国語で話しているんですよ。むしろ、今回のことで一番大きなダメージを受けているのはアメリカです」
「……多民族国家、だからですか?」
「ええ。逆に日本なんかは平和なもんでしょう、九十九%の人は日本語が母語ですから。まあ、国際的な取引の多くが中止に追い込まれているというのを考えると、食料自給率的な問題は間違いなく起こっているでしょうけど――そういえば気づいていますか、チハルさん」
「何がです?」
「日本語ではないので何を言っているのかまでは分かりませんが、さっきから何人も、塔のようなものが描かれた紙を持ち歩いているんです」
「……くだらない」
グローバルだなんだと騒いでいた昨今の流れに唾を吐くかのごとく、私たちは外国人を避け、日本人を求めてただ歩を進めていた。私たち、いや、全世界の人々にとってもはや外国語話者は、それこそ宇宙人にしか映らないことだろう。
グローバルの風潮の中にあって、それでも外国語を体得するのが難しいという人のために「ボディランゲージ」を推奨しよう、という動きがあったが、いつぞや英語検定を受けた時の読解の文章に、その動きを批判する目的の文章があったことをよく覚えている。まあ外国語をしっかりと体得したということを証明するための英語検定なのだから、別にそのような主意の文章があったところでケチをつけるつもりはないが、その根拠としてはこんなものがあった。
いわく、「ボディランゲージ狂信者はとある心理学者の「聞き手は話し手の言葉と内容からは七パーセントしか情報を受け取っていない」という研究結果をまるで神に与えられた盾のごとく絶対の論理として振りかざしているが、じゃあ実際にボディランゲージのみで話してみて果たして本当に九割以上の情報を相手に伝えられるだろうか。少なくとも私には無理だ」と。
随分と皮肉の利いた論理展開が印象的で、今でも私の頭の隅に残っていた根拠だが、私たちは今まさにこの不可能さを実感することとなった。
言葉が通じない相手に何を伝えられるだろうか。何を受け取れるだろうか。なるほど言語とはかくも素晴らしい道具であったのだなと私たちは痛感せずにはいられなかった。いざ外国語話者と対面した時、私たちの関係はサル対サル、もしくはイルカ対イルカレベルでの意思疎通しか適わない。少しばかり頭のいい獣たちと同じだった。
そう、結局のところ、私たちは決して同じものを見ているわけでも同じものを聞いているわけでも、ましてや同じものを嗅いで、味わって、触れているわけでもないのだ。ただ同じ言語という媒介を通してでしか、通じ合えない、分かり合えない存在だったのだ。
「チハルさんチハルさん、ほらあっちの広場で牛丼の炊き出しをやってるそうですよ。いやあ何だか懐かしいですよ、いいですねえ、日本を感じられる」
「――粥川さん、」
「はい、どうしました。急に改まって」
「私、日本に帰ろうと思って」
そもそもどうして私がアメリカはニューヨークにいたのか。それは外国語を使って宇宙人と交流できる! という過去の感動がいまだに忘れられなかったからだ。だから今、その感動をもはや経験できないであろうこの地にいたところで、私にはどうしようもなかった。
大人しく日本に帰ろう。きっと今の日本では多くの同胞が飢えて困っていることだろう。もしかしたら戦後すぐの頃のように、田舎の地元にまで食料を買い求めに来る人がやってきていて、両親を困らせているかもしれない。
今こそ親孝行の時だ。今まで好き勝手に生きて、迷惑ばかりかけてごめんなさいと、素直に謝ろう。頭を下げよう。そして両親のために、同じ言葉を話す日本人のために、もう一回農家としてやり直すというのも悪くはないかもしれない。
「何カッコつけてんですかいいから早く食べましょうよ、うひょお見てくださいこの米のツヤ、まさかこれ国産米? 国産米なんですかね堪りませんねえうひゃあ」
「……」
ひと月が過ぎた。未だに空路は全滅状態でまともに機能していなかったので、船での帰国になる。緊急事態ということで、内密に貨物船が余剰スペーズを使って人を輸送してくれているのだ。
日本の風景は街並みからしてニューヨークのそれとはさっぱり違う。湿度も高い。しかしやっぱりそのどれもが懐かしくて、私の心は郷愁に包まれていた。
あらかじめ予約をしておいたレンタカーを借り、田舎のふるさとへと向かう。段々とふるさとに近づくにつれ道も既知のものになり、そしてとうとう、私は実家へと到着していた。
両親の姿はどこだろうと探すまでもない。家から少し離れた畑に見慣れた、けれども少しだけ丸まった背中が二つ見えた。
「おーい、親父、おふくろー!」
叫びながら彼らの元へ駆ける私。体が軽く感じられた。
二人はゆっくりとこちらへ振り返る。間違えようもない顔。アンディのようにコミカルではないが、彼らの驚きと喜びのような感情はその表情からすぐに読み取ることが出来た。
「〇※♯■%♭!」
「×!※□◇#△?」
「……は?」
そう、私は大事なことを見落としていたのだ。
すなわち、偶然、たまたま、これまで何千年もそれとなく会話が成り立ってきたからという理由だけで、単語は何もかも意味が違っていて、「私≠私」で「リンゴ≠リンゴ」で、文法も間違いだらけかもしれないという危惧は、何も母語と外国語の間でのみ起こりうるといったわけでは、決してないのだった。
ワレワレガウチュウジンダ 桜人 @sakurairakusa
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