ショパン『舟歌』変ヘ長調作品60

 仕方ない、仕方ないのだと考えてみても結局納得できないのが人間というものらしい。

 あぁ、多分この辺なのだ。私が死んだ場所は。

 雨が身体中を叩く、それと同時に裸足で歩道を走っていたことに気がついた。

 私は死んでいた。何年前なのかも忘れたが、これだけは忘れていない。私が死んだのは雨の日だった。

 出会いは最悪だったと思う。まるで雨だれのプレリュードのように、最悪で、どうしようもなく不安で、憂鬱で、結局結ばれなかったものなのだ。彼との出会いは最悪だった、彼と私は図書委員だった。それだけ。他になんの接点もなく、高校生活が終わるのだと思っていた。しかし引っ込み思案で根暗な私に彼が話しかけて来た。私たちはA面とB面だ、二人が交わることなんてない、勿論最初は彼の人間性が理解できず反発していたのだが、それと同時に彼に惹かれるものもあったのだろうと思う。高校二年生で付き合い始めて、大学一年生でファーストキスを奪われた。それも嫌じゃなかった記憶がある。

 あぁ、だとするならば私が死んだのはそう遠くない過去だったのかもしれない。

 少しずつだが、記憶が掘り返されていく。

『花火あがらなくてよかったね』

『何がよかったんだよ』

『だって、花火が上がったら祭りが終わってしまうじゃない。祭りはできるだけ長く続いて欲しいもの』

 傘が流れて運河となる。その流れに乗って私たちは歩いていた。それから、それから。どうしたのだろうか。アキの家に行ったのは覚えていた。

 だとしたら、きっと帰り道に私は死んだのだ。きっとカップルらしいことをしたのだろうか、きっとそういうこともしたのだろうか。事実はわからないけれども。

「結局、また言えなかった」

 歩きながら思い返した。何年も、何年も一緒にいたのに。交わすことのできなかった一言。あの時私が言えばよかったのに。言えば私がこんなに苦しい思いをしなくてもよかったのに。

 胸がポッカリと空いたような空虚。何かが私の心を穿つ。穿ち、そして大穴を開け、背中から飛び出したそれは結局のところ未練以外の何物でもない。私は結局焦がれていた。言えなかった言葉に焦がれて、そして彼が言ってくれるのを望んでいた。

 好きだとは言えたのに。

 私には彼が必要だった。彼には私が必要なかった。それだけ。人間というものはなんともめんどくさい生き物なのだろうか。それだけだと、それだけなのに私は納得がいかない。

 胸に空いた大穴に冷風が、身を凍えさせるような冷風が通り抜け、それに共鳴するようにはぁと嘆息を吐いた。それと同時に焼けるような激情がせり上がってくるのを感じた。足から上へと犯すように激情がせり上がって、逆流して、切なくて。

 ショパン/舟歌変ヘ長調作品60

 穏やかに始まる曲、花を思わせるような曲調。なのに、どこか切ない。

 きっと、この曲を失恋というのだ。

 地面を打ち付けていた雨音が、水たまりを弾くような足音が、急かすような車の音が乖離していく。全てが無音に変わる。一曲のピアノ曲しか、今は聞こえない。雨だれのプレリュードでもなく、かの有名な革命のエチュードでもなく、三度失恋しなければ引ききれないと言われたあの曲が、頭の中で反響して、そのペダルを踏む音、重なり合った和音が私に語りかけていた。

 残響が、私を問い詰めていた。失恋したのだと、認めたくない事実を、彼らは笑いながら提示していく。

 失恋、なのだろうか。

 そう考えると、目頭に激情が到達するのを感じた。何かを閉じ込めていた閂が壊れたように、門が決壊する。感情が溢れ出した。溢れ出したのは、感謝の言葉だった。

「ありがとうございました。ありがとうございました」

 いや、過去形などではない。きっとこの気持ちは今も。

 こんな私と付き合ってくれて、こんな私のそばで笑ってくれて、こんな私のために苦しんでくれて、こんな私のそばで愛を語ってくれて、こんな私のために真剣な顔をしてくれて、こんな私のために手を繋いでくれて、こんな私のためにレコードを聞き始めてくれて。

 こん、な私、を愛、して、く、れて。

「あ、りが、とう」嗚咽が混じった声でそう言った。

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