A面終了
彼女の言う通りにレコードをセットした。カツポツ、いや、カツカツと窓ガラスを叩く雨音にザーッと砂嵐のようなノイズが重なり、やがて曲が始まった。最初のノイズを聞いて、もしかするとレコードがもう使えなくなってしまっているのかもと微かに危惧を抱いていた僕は少し安心した。
静かに始まったピアノとミスマッチに響く乾いた咀嚼音。ポテチを食べていた。当たり障りのない会話。続かずポツポツと途切れる。決してこの話題には触れてはいけないのだろうと考えながら、それを避けて話していた。
最近活躍し始めた人気女優の話、フリーターになって苦しかったこと、エトセトラ。
「なんで今頃になって」
テルの友達がどうしてもできない、私は根暗なのだという話題が終わり、少しの沈黙の後、テルが不意に呟いた。続きの言葉は、わかっていた。
「なんで今頃になって戻って来たんだろう」
きっとその問いを投げかけられても僕は何も答えられないし、彼女もそれはわからないのだと思う。だけどもそう呟かずにはいられなかった。
「わからない」
「それもわかっている。だけどさ」
「わからないよ」
「だから!」
テルが声を荒げて言った。わからなかった。本当に、心の底から、わからなかったんだ。
「なんで、私」
沈黙が続いた。やがて雨だれのプレリュードが終わり、あとは砂嵐のようなノイズが響くだけだった。B面に変えないとなぁ、と漠然と思いながらも動けなかった。別に動くのが億劫だったわけではない。彼女の視線に射抜かれて、動けなかったのだ。
彼女は泣き叫びそうなほどに、醜く眉間にシワを寄せていた。真一文字に結ばれた唇が桃色から白へと変わっている。
言わなきゃいけないのだ。言って、終わらせてしまおう。
彼女はここに存在してはいけないのだから。
「俺さ、彼女できたんだ」
数秒の沈黙。その間、彼女は僕の言葉の意味を理解できてないように見えた。僕の言葉を脳に伝わらせ、口で噛み砕き、食道へと飲み込ませる。彼女の控えめに突起した喉仏が軽く上下に移動したのが確認できた。彼女が僕の言葉を理解し、噛み砕いて飲み込んだ瞬
間、彼女の瞳が激しく動揺に揺れた。揺れた彼女の瞳からフツフツと感情が浮き出てくる。激情か、憤怒か、それとも寂寥か。
テルの顔が苦痛で歪んでいくのが視認できた。そのことに、心を痛めながらも、鬼にならなければならないと思い、言葉を続けた。
「テルとは違ってさ、底抜けに明るくて、友達が多くて、ポップスが好きで、ポテチを手づかみで食べるような豪快さでさ、少し日に焼けた茶髪が眩しくて、存在するだけで周りの空気が明るくなるようなそんないい子なんだよ」
だから。テルは。
ここにいてはいけない。
僕が指差す方向には簡素にもコルクボードに貼り付けられた、底抜けに明るい、女性の写真がある。
「そっか」
彼女が無理やりに作った笑顔でそう言った。はたから見れば無理やりに作ったとは見えないかもしれないが、しかし僕から見れば無理やりなのだ。何年同じ時間を過ごした。何年互いに愛を語り合った。何年、手を繋ぎあったと思っているのだ。
「じゃあ、お邪魔したんだね。ごめんなさい。もう、帰るね」
彼女がそう言い終わるか否か、いや、言い終わるよりも早く彼女が部屋から出ていく。ガチャリとドアの開く音と、一層強まった雨音が次のガチャリという音に合わせて一気に音量を下げていく。
こうするしかなかったのだ。僕は指差した方向の先、僕が最近ハマっていた女優の写真を見ながら思った。女優の活発な笑顔を見ているとつい先ほどついた嘘が本当によかったものなのか、少し胸の疼きが強くなる。
彼女はここにいてはならない。彼女がもし、心霊的なものだったのだとしたら、彼女は帰らなければならない。彼女はこんな地獄にいる必要なんてないのだ。
彼女は地獄から解放された人間の一人で、地獄から飛び立ち、早く自由になって欲しかった。だというのに、彼女が未練がましく僕の前に現れるのだ。もし、彼女の未練が僕だったのだとしたら、その未練を僕が断ち切らなければならない。
彼女には僕という存在は必要ないのだ。彼女という未練を背負うのは、僕だけでいい。
だからこそ、嘘をついた。
あぁ、でも。
「やっぱり言えなかったなぁ」
砂嵐のノイズがうるさくて、僕はB面に変えるために立ち上がった。
レコードにはA面とB面がある。A面の再生時間が終わったら、裏側にかえし、B面を再生する、という風にできている。
A面を見ている視点からはB面の様子なんて見えない。背中合わせだから仕方がない。つまりはAとBは相反しているわけで、お互いの様子、気持ちなんて全く理解でき
ていないわけだ。
つまり簡略化して伝えてみると、ここから物語はB面へと差し掛かる。
ここからは彼女の物語だ。
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