地獄な僕

 カツポツ、ポツカツと雨が叩くビニール傘の下。二人で並んで話していた。

「大学生活はどう?」

「もう大学は卒業したよ」

「そうなの。じゃあ、今は社会人? サラリーマン?」

「社会人ではあるけど、サラリーマンではないよ。フリーター」

「ふーん」

 しばらくすると僕が今現在、そしてこれからも住み続けるのだろう平屋の一軒家が目に入った。元々は両親が住んでいた平屋だが、父よりも母が先に死に、そして去年にはぽっくりと父が亡くなった。家計を支えていた父は普通のサラリーマンで、大した収入もなく遺産と呼べるものがこの平屋だけしかなかった、僕がその遺産を相続した形になったのだ。

 電球の光が灯されていない我が家は薄暗闇に溶け込んだようにひっそりと息を殺しており、そこに何もないかのように振る舞う。それがとてつもなく寂しかったため、羽織っていたパーカーのポケットからすぐさま鍵を取り出し、鍵を開け、玄関の明かりをつけた。

「変わっていないね」

 テルが後ろでそう呟いた。そう言えばあの日も彼女を家に入れていたのかと思い出していた。後ろを見てみると、彼女の唇が先ほどよりも紫になっていた。肌も白を通り越して、少し青く見える。

「風呂、入りなよ」

 そう言うと彼女が案外に素直に頷き、風呂場へと向かった。女性用の下着など女装趣味のない僕が持っているわけもないため、僕が高校時代につけていたジャージ一式を渡してやる。

 しばらくすると雨の音よりも激しく、水が地面を断続的に叩くような音が聞こえた。それを聞いてこの家に彼女が来ているのかと不思議にも狼狽することなく理解できた。

 ふと考えたことがあった。人間という生き物は生きながらえるよりも死んだほうが幸せなのではないかと。嘘と真実が混雑して、今や何が本当なのかもわからない。人は息をするように嘘をつき、偽りの仮面をつけて笑っている。それがどれほど醜くて、どれほどの苦行なのかを皆が知っているはずなのに、皆が知らないふりをする。嘘は劇薬だ、使えば人生のスパイスにもなるし、使い過ぎれば人という生物は死ぬ。人ではない、何かに変わっていってしまう。きっとその異形のものを人は悪魔と呼ぶのだろうか。

 現代には悪魔が蔓延っている。そうなると僕たちが生きているこの世界は地獄と呼べるのではないか。だとするならば僕たちが死んだらその地獄から解放されるのではないか。

 ふと強い水音が止み、不思議に思うとジャージ姿の彼女が出て来た。先ほどまで白よりも青に寄っていた彼女の色はすっかりと健康的に戻り、血がかよう健康的な肌色へと戻っていた。

「ポテチ、食べる?」

 僕が聞くと彼女が無言で頷く。彼女が頷いたのを確認して台所に隣接してある戸棚を開いた。そこにあるポテトチップス(塩味)の袋をつかんだ。

「まだレコード 聴いているんだ」

「うん」

 ポテチを箸で食べる彼女のために、一膳だけ箸をとってやる。ふと彼女に目をやると興味津々な様子で本棚に陳列されたレコードを見ていた。大学時代になぜか無性にレコードを聞きたくなって、レコードを買い占めたことを思い出した。なぜあんなにもレコードにハマっていたのかを今では思い出せない。

 彼女はここにいてはならない、と不意に思った。

「何が聞きたい?」

 戻りながら彼女に聞く。彼女は少しだけ迷ったように本棚を睨んでいたが、数秒経って「これ」と短く言いながら一枚のレコードを取り出す。

「雨だれのプレリュード。今日にぴったりの曲だと思わない?」

 雨だれのプレリュード、正確に言えばショパン/24の前奏曲集第15番「雨だれ」はその名の通り雨を連想した曲だ。しかし今日の雨具合にしてはこの曲は少し優雅すぎる気もする。フラットの単音から始まるこの曲はさながら森の中にシトシトと降り萌えた若葉を微かに濡らす霧雨のようなのだが、テルが合うのだと言っているのだから彼女の中で今日の雨は霧雨だったのだろう。

 ふと窓ガラスが透過した、我が家の敷地内にある庭を見た。ガラス越しでくぐもった雨音が響き、ビチョビチョと庭の土を静かに濡らして、できた水溜りが空に浮かぶ黒雲を反射していた。雨だれのプレリュードとかけた覚えはないが雨垂れの庭だ、とふと考えた。もしかすると彼女にはこの雨垂れの庭に滴る雨音が、ビチョビチョではなくしとしとと聞こえるのかもしれない。と考えた。僕にはその真実を知り得ない。僕とテルはA面とB面なのだ。そして、きっと。だからこそ、きっと。

 きっと彼女はここに存在してはいけない。

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