第65話 俺と妹のこれからについて15

 どうせ逃げるなら乗ってきた原付で逃げれば良かった。


 指宿奏いぶすきかなでがそう思ったのは、破られたシャッターから倉庫を出て、スマホを取り出そうとした時であった。

 奏が110番を押す前に、目の前にある何も無いはずの空間に、足元からスーっと黒いマスク姿の男——影山が現れる。

 奏は自らの足が同年代の女子に比べて圧倒的に遅い事を失念していたのだ。


「……ちょっと待ってね」

 叩き落とされてはたまらぬと、奏は影山を見据えながらスマホをポケットにしまう。そして影山に語りかけた。


「いやね、お互い色々事情があるとは思うけど、女の子相手によってたかってどうこうってのはどうかと思うんだよ。ここは一つ男気を見せて『よし、悪い事はやめよう』とはならないものかね?」

「ならない」

「私がお願いしてもダメぇ? 見逃してくれるならほっぺにチューくらいは……」

「ダメだ。滝波さんの命令は絶対だ」

 極力陽気に提案した奏に対して、影山の返事はつっけんどんなものであった。


 争いは避けられそうもない事に緊張を感じながら、奏はその時点で影山がなんらかの能力の影響を受けている事に気付いた。

 なぜなら、影山の心音——この場合は心臓の鼓動の事ではなく、奏の能力『三猿の報せモンキースポークス』によって聞こえてくる相手の心理状態を報せる形容し難い音に乱れはなく、同じく『三猿の報せモンキースポークス』によって見える影山の背後に立ち上るモヤの色は平静を示す白色をしていたからだ。

 普通であればこのような状況下にあれば、多かれ少なかれ精神状況は揺れ動く筈だ。歴戦の軍人であろうとも、戦の前には緊張があったり精神が昂るだろう。そのような心の動きが影山にはほとんど見られなかったのだ。

 それに、彼女に甘い声で願い事をされて心が動かなかった男子など、奏は今まで出会った事が無かった。

 という事は、影山はあの滝波という女子に何かしらの能力で精神的に支配されている可能性が高いと奏はふんだのだ。


 そうなると交渉ではどうしようもないという事になるが、これは非常に厄介な状況だ。

 他人の精神状況が読める事によって他者からの怒りを躱す事ができる奏は、これまでの人生で暴力的喧嘩など一度もした事がなかったし、体力にも自信がない。そもそも相手の影山は細身とはいえ男子である。これでは到底勝ち目はない。


 しかし、負けるわけにはいかない。

 奏の働きが本介と霧子の無事を左右する事になるからだ。


 奏はあの奇妙な関係の兄妹の事を気に入っていた。

 妹の事を嫌いではないが、立場上女として見る事を拒絶している兄本介。そして、義理の兄に恋していながら何かしらの秘密を抱えている妹霧子。

 他人の精神状況を絵画や音楽のように俯瞰して鑑賞できる奏にとって、二人の関係は非常にユニークであり、能力のせいで通常の人間関係を築く事が難しい奏にとって、それは愛おしく感じる程にもどかしい関係であった。

 それに、互いに欲求に素直でありながらスマートに振る舞えない二人の人間性も奏は好きであった。


 そんな二人にどんな形であれ幸福を掴んで欲しい。

 普段あまり他者の人間関係に肩入れする事の少ない奏にとって、それは珍しく素直な願いであり、想いであった。


 そして、目の前に立ちはだかる男と、彼を操る滝波遥はその願いを踏み躙ろうとする者達だ。


「あなたも能力者みたいだけど、私も能力者なんだ」

 奏が発した能力者という言葉に、影山はやや警戒した様子を見せる。


「私の能力はね……」

 奏はそう言いながら服の胸元に指をかけ、ゆっくりと引っ張る。

 すると本介を虜にしたあの魅惑のグランドキャニオンが姿を現した。影山は動じる様子はないが、奏のグランドキャニオンをジッと見つめている。


「ここからビームが出————るわけないでしょうがぁ!!」


 グランドキャニオンに釘付けになっている影山に、奏は不意打ちで前蹴りを放った。しかし、本介であれば間違いなくクリティカルヒットしていたであろうその前蹴りを、影山はなんなく躱す。


「ウソォ!?」

 渾身の一撃を躱されてすっ転ぶ奏を、影山は鼻で笑った。


「バカめ、しのびが色仕掛けなど食らうか」

「イタタタ……忍?」

「左様」

 それを聞いた奏は、立ち上がりながら次の策に打って出る。


「あなた、忍者なの?」

「左様、俺は滝波さんに仕える忍だ」

「へぇー! すごーい! 忍者って現代にもいるんだぁー。伊賀? 甲賀?」

 奏の言葉に、影山の心音に僅かな乱れが生じた。


「もしかして、忍者だから黒いマスク着けてるの?」

「別にそういうわけではない」

「えー、でもそのマスクすごく忍者よねぇ」

 影山の心の乱れは徐々に大きくなってゆく。

 それを奏は逃さなかった。


「あなたの能力って姿を消す事ができる能力かな? それもすっごく忍者よねぇ」

「だからなんだ!?」

「いや、ただカッコイイなぁって思ってさ。本当に忍者なら」


 ドッドッドッドッドッドッドッ


 影山の心音だけでなく、心拍数まで大きく乱れ始める。


「ねぇ、忍者ってどうやってなるの? 修行とかするの?」

「そ、そうだ、俺はまだ修行中の身だ」

「え? じゃあ、まだ忍者じゃないの?」

「まだというか……心持ちは忍だ」


 先程の冷静さはどこへやら、影山は滝波の命令など忘れてしまったかのようにアタフタし始めた。


 奏は自らの能力『三猿の報せモンキースポークス』について他人に説明するとき、『他人の心理状態を音と色と匂いで感じとる事ができる能力』と説明しているが、奏の能力はその説明と少しだけ違う部分がある。


 奏の能力名の由来となっている三猿といえば『見ざる聞かざる言わざる』の像が有名ではあるが、奏の説明では『見ざる聞かざる嗅がざる』になってしまう。

 奏の正しい能力は『他人の心理状態を音と色で感じとる能力』であり、匂いで感じとるというのはフェイクなのだ。


 では、『言わざる』はどこへ行き、なぜ奏は自らの能力名に『三猿』を入れているのか。

 それは奏の能力から生まれたもう一つの能力に理由がある。

 奏は能力が発現した幼い頃から、ずっと他人の心の機微を見続けてきた。

 それにより奏は、自らがどのような声を発しどのようなトーンで話せば、どう相手の心が動くかを把握しているのだ。よって、奏は自らの言葉である程度相手の心を操る事ができる。それが『言わざる』である。

 この副産物的な能力も合わせ、奏は自らの能力を『三猿の報せモンキースポークス』と呼んでいるのだ。


 奏は今『言わざる』を用いて、影山の心を大いに揺さぶっていた。


「でもさぁ、たまにいるよね。能力に引っ張られて自分にキャラ付けしちゃう人とか」

「ぐっ……」

「いや、あなたがそうだって言うわけじゃないよ? ただ中学の頃とか結構そういう人いたなぁって話。あ、ごめんごめん。で、忍者って具体的に何するの?」

「あ、暗殺や身辺警護を……」

「それは昔の忍者の話でしょう? 現代の忍者は……っていうか、あなたは忍者としてどんな活動をしているの? ねぇ? ねぇ? ねぇ?」

 影山の顔は既にマスク越しにもわかるほど赤くなっていた。

 影山はもちろん忍者などではない。

 能力が発現した中学時代に自らを忍者だと思い込み、それをきっかけに忍者にハマり、抜け出せなくなっただけのただの忍者マニアである。

 現在進行形の黒歴史をえぐられ、影山のメンタルは既にズタボロになっていた。


「ぐっ……ぐがっ……あぐぐぐ……」

 だが、一見有効に見えた奏の精神攻撃は実は悪手であった。

 メンタルをやられて恥ずかしさのあまりに思考が停止した影山に残ったのは、滝波の洗脳による命令だったのだ。


「……アイツラヲ、ツカマエル」

 それまで身悶えしていた影山は突然ピタリと動きを止めると、自らの能力『忍びの掟シャドウダンサー』によって姿を消した。


「あれっ!?」

 それによって動揺したのは、このまま影山を無力化できると思っていた奏であった。

 そんな奏に、姿を消して背後に回り込んだ影山は襲いかかる。


 しかし————


 ボグッ


 奏の放ったパンチが、影山の顔面にカウンター気味にめり込んだ。

 その瞬間に影山の能力は解け、影山はアスファルトの地面にもんどりうって倒れる。


 奏のパンチは闇雲に放ったものではない。

 奏には『三猿の報せモンキースポークス』によって聞こえてくる影山の心音によって、影山の位置がはっきりとわかっていたのだ。


「イタタタ……」

 初めて人を殴ったせいで痛めた拳をさすりながら、奏は呆然と倒れている影山の顔を覗き込んだ。


「大丈夫?」

「止めを刺せ……忍びに情けはいらぬ」

 能力まで使って女の子に喧嘩で負ける。

 影山にはもう恥らうメンタルすら残っていなかった。


「うーん、それだけキャラを貫けるなら、いつか本当に忍者になれるかもよ。でも仕える相手はちゃんと考えるんだぞ。忍者クン」

 そう言って背を向けた奏の背中を、影山は何も言わずに見送る。

 影山の心には彼が感じた事のなかった熱い気持ちが残り、彼はそれが恋だとはまだ気付いていなかった。


 そして彼が奏の言葉をきっかけに、後に総理大臣の隠密身辺警護につく事になるとは、まだ誰も知らない。

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