第5話 兎少女と穴熊妹2

「ねぇ、きみ! 起きて! 大丈夫!?」


 誰かが俺の頬をペチペチと叩いている。


「いたたた……」

 俺は顔面と後頭部にズキズキとする痛みを感じながら目を開けた。するとそこには、心配そうに俺の顔を覗き込むショートカットで活発そうな女の子の顔があった。先程俺にスパッツキックをぶちかました女の子だ。


「良かったぁ……死んじゃったかと思った……」

 俺が上半身を起こして軽く顔を拭うと、手にはベットリと鼻血が付いていた。これは断じてぴっちりめのスパッツに興奮して出た鼻血ではない。彼女の体重を顔面で受け止めたせいだ。しかし幸いにも鼻の骨は折れていないようだ。


「ごめん! 本当にごめんね! 私遅刻しそうになって、それで『能力』使っちゃって……とにかくごめん!」

 スパッツガールは謝罪の言葉を繰り返しながら、俺の顔をハンカチでフキフキし始める。あまりに申し訳なさそうな顔をしているので、逆にこちらが申し訳なくなってしまうくらいだ。


「いや、こっちこそごめん。避けるつもりだったのにペダル踏み外しちゃって……。君も龍鳳だよね? ハンカチ、洗って返すよ」

 俺はそう言って、しきりに謝るスパッツガールの手から血塗れのハンカチを半ば無理やりに受け取った。すると、校舎の方から聞き慣れた予鈴が聞こえてきた。


「あーっ! もう、本っっっ当にごめん! 私のせいで遅刻までさせちゃった!」

「だから謝らなくていいって、お互い様だし」

「そう言われても私の気が済まないよ」


 「あちゃー」と言わんばかりに額に手を当てるスパッツガールは、少年のような顔付きであるが、よくよく見ると結構可愛い顔をしている。スタイルは全体的に細身で、スラリと脚が長くスポーティな印象だ。


「本当にごめんね。私、二年三組の稲葉小春いなばこはる。今度購買でジュースでも奢るよ」

「うーん……じゃあ、そこまで言うならご馳走になろうかな。俺は阿佐ヶ谷本介あさがやほんすけ。二年五組」


 スパッツガール——いや、同学年だという事が判明した稲葉さんに手を貸してもらい、俺は立ち上がる。なんだか運命チックで青春っぽい出会いに、俺は遅刻なんてもうどうでもいい事のように感じてしまう。


「でも、なんで屋根の上から落ちてきたの? 能力がどうとかって言ってたけど」

 俺が自転車を起こしながら聞くと、稲葉さんはポリポリと後頭部を掻きながら言った。


「あ、あのね、私今朝寝坊しちゃって。それで、通学路に人が見当たらなかったから、能力使って近道しようとして……」

「能力って、ヒーローキックをぶちかます能力?」

「ち、違うよ! 私の能力は……」


 稲葉さんはそう言って、右足を一歩踏み出して腰を沈めた。そして——


 ヒュオッ


 辺りに旋風が巻き起こり、一瞬のうちに稲葉さんが俺の視界から消えた。

 俺がキョロキョロと辺りを見渡すと、上方から稲葉さんの声が降ってくる。


「おーい、こっちこっち!」

 上を見ると、俺の遥か頭上に稲葉さんはいた。


「これが私の能力! 『因幡イナバ跳兎ホッパー』っていうんだ!」

 なる程、どうやら稲葉さんは跳躍力を強くする能力を持っているらしい。活発そうな稲葉さんにピッタリの能力だ。これで建物の屋根を渡ってここまでショートカットしてきたら、たまたま着地点に俺が現れただろう。


 爽やかな笑顔を浮かべながらスカートをはためかせて上空から降りてくる稲葉さんの姿は、ウサギというよりは一羽の美しい鳥か天使のように見え、俺はその姿に胸が高鳴るのを感じた。


 繰り返される平凡な日常にうんざりしている俺。

 学校も家も平凡で退屈で、ドラマチックな事など何一つ起きる事ない、そんな日常。

 しかし、それは俺自身が平凡で退屈な人間であるせいだと俺は気付いている。

 押し潰されそうな退屈な日常の中で、俺はウサギのように自由に跳ねる少女に出会った。彼女はどこまでも軽やかに跳び、重量すらも遥か彼方に置き去りにしてゆく。

 彼女の笑顔は俺の憂鬱を吹き飛ばし、まるで不思議の国のアリスに出てくる白ウサギのように俺をこの平凡な日常から連れ出して————ん?


 ひゅぽっ


 俺が脳内ポエムに浸っていると、突然、落下してくる稲葉さんの着地点に暗闇が現れ、稲葉さんはまるでベテランの飛び込み選手のように音も無くその中に吸い込まれていった。そしてその暗闇の中から、見知った顔がひょっこりと顔を出す。


「オニイチャン」


 目を爛々と輝かせながら俺を見つめるその顔は、他でもなくたった一人の妹の顔だ。


「うわぁぁぁぁぁあ!? 霧子! お前何やってるんだ!?」

 うん、こいつがいる限り俺の日常が平凡なはずがなかった。


「鼻血出てる……お兄ちゃんあの人に何されたの? 大丈夫?」

 霧子は異次元空間から出てくると、俺が握っていた稲葉さんのハンカチをもぎ取り、ばっちい物でも摘むようにして異次元空間の中へとポイッと捨てた。そして自らのハンカチを取り出して俺の顔を拭う。


「お、お前なんでこんなとこにいるんだ!?」

「お兄ちゃんが中々学校に来ないから心配して迎えに来たんだヨ」

「稲葉さんをどこにやった!?」

恐山おそれざん

「お、おそ……取ってきなさい!」

「……ヤダ」

「取ってきなさい!!!!」

「ヤダ」

「いいから早く!!」

「あの人と私、どっちが大事なの?」

「訳のわからんことを言うな!」

「お兄ちゃんに怪我させるヒトは許せないヨ……」

「いや、まじで頼むから連れて帰ってこい。怒るぞ」

「……怒ったらお仕置きしてくれる?」

「お前は脳味噌まで異次元か!?」


 その後、俺による数分間の必死な説得の末に、霧子は恐山でイタコと談笑していたらしい稲葉さんを連れ帰ってきてくれた。

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