窓の外に、薄っすらと月が見えていた。

 太陽の時間は、終わったのだ。

「リース!そろそろご飯だよ」

 部屋の前で名前を呼ぶ女を、ボクは無視した。

「ねえ、一緒に食べよう?」

 冒険譚を閉じ、リュックに入れる。

「リース、聞いてるの?」

 スマホと、財布もリュックに詰める。

「まさか、また、あんなことをしているの!」

 鍵を閉めているドアノブを、ガチャガチャと揺らす音がする。開けて、開けなさい、と金切り声で喚く声と共に、姉も参戦してくる。


 ガチャガチャガチャガチャガチャガチャ。


 ああ、本当に五月蠅い奴ら。

 自分の体に縄を縛り付けて、窓から外へ出ようとする。明かりが無いせいで足元が良く見えなかったが、無事に地面へ降りることができた。

 今日は、ボクが誘拐された日。ボクの時間が、終わった日。

 何か、得体の知れないものに突き動かされたように、ボクは保育園へと向かっていた。何の保証もないけれど、彼女に会える気がした。

 保育園までの道のりで、ボクはずっと冒険譚のことを思っていた。レイがヘレンを追ってからのページが、破られている。これが誰の行為によるものか、ずっと不思議でならなかった。

 恐らく、レイ本人がやったものでは無いだろう。そうだとしたら、やったのは、レイ以外の洞探メンバーの誰か。

 幼馴染、ファルコか。

 恋人、ヘレンか。

 親友、アルバスか。

 秀才、カイトか。

 答えは出ないまま、ボクは保育園についていた。この町で唯一変わらない場所。彼女と繋がりがあるかもしれない、唯一の場所。

 ボクは、彼女に捨てられた時のように、門の前で蹲った。もし、このまま一晩経っても彼女が現れないようだったら、諦めよう。彼女のことは忘れて、あの家を出て、一人で暮らそう。

 次第に重くなってくる瞼を閉じて、僕は眠りに落ちていった。



 体が、温かいものに包まれた。

 ボクは、姉に捕まったのか。そう思ったら、目覚めるのが億劫になった。

 体が、何かに持ち上げられる。

 もしかしたら、ボクは夢を見ているのかもしれない。だって、あの懐かしい香りがするから。ずっと一緒に過ごしてきた、彼女の香りが、ボクの体を包んでいるから。

「リース」

 ああ、この声だ。彼女の、優しい声。天使のような、慈愛に満ちた声。

「リース」

 なんて幸せな夢なのだろう。彼女の香りに、彼女の声。これに、もう一つあの空間があったのなら。

「起きて、リース」

 今度は、体を揺さぶられる。もしかしたら、これは夢では無いのかもしれない。

「……ん?」

 瞼を持ち上げた先には、彼女がいた。

 夢では無かったのだ。

 保育園に、やはり彼女は現れたのだ。

「ヘレン」

 ボクは、彼女の名前を呼ぶ。

「久しぶりだね、リース」

 彼女も、ボクの名前を呼ぶ。

 幸せの、絶頂に訪れた。

「ヘレン、迎えに来てくれてありがとう。ずっと、会いたかった。今までどこにいたの、どうして、ボクを置いて行ったの」

 久しく流していなかった涙は、留まることを忘れたように、ぼろぼろと頬を流れていった。

「待って、その前に、ここを離れなくちゃ。それに、あなたを連れていきたい場所があるの」

 ボクを乗せたヘレンの車が、発進する。

「ボクらの家に行くの?」

「ううん、そこよりも、もっと良いところ」

「レイの家、とか?」

 ボクの言葉を聞いて、ヘレンの表情が変わる。保育園を発進した車は、人の通らない交差点を左に曲がった。

「読んだの」

「うん、読んだ。ヘレンは、洞窟探検同好会のメンバーで、レイの恋人で、冒険譚を抜き取った人。そうだろう?」

 ヘレンの表情は、変わらない。

「半分正解。でも、私は、もうレイの恋人じゃあない。それに、冒険譚を抜き取ったりしてない」

 車は、乱暴に右へ曲がる。

「違うなら、僕に全てを教えてよ。そのくらいの権利は、ボクにもあるはずだ」

 ヘレンは諦めたようにため息をついた。

「わかった。話すわ。あそこに着くまでは、ね」

 車は速度を落とし、左に曲がる。外の景色は、和やかな田園風景に変わる。

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