「そんなことが、あったんですね」

 急患は来なかったようだ。

「はい。だから、今回の酸欠も、きっと犯人に影響されてやったのだと思います。決して、自殺ではありません」

 ボクのことを何も知らないくせに、勝手に語るな。そう言ってやりたかったが、声をかけるのも面倒だった。

「息子さんは、ストックホルム症候群かもしれません」

「スト……、何ですかそれ」

「ストックホルム症候群。つまり、心的外傷後ストレス障害の一種なのですが、誘拐や監禁の被害者が、加害者と心的な繋がりを持ってしまうことを指します。息子さんの場合も、酸欠状態になることで犯人との心の繋がりを感じているのかもしれません」

 そんな簡単に決めつけられたくは無かったが、医者の言うことは恐らく正しいのだろう。でも、決して病気なんかじゃない。ボクは、自分の意志で、嫌気空間を作ったのだから。

「そんなっ!それはいつ、治るんですか?」

 女は、相変わらずぴーぴー鳴いている。

「精神的なものですから、いつ治るかまではわかりません。ただ、母親であるあなたが正しい道を示してやれば、少なくとも酸欠状態になろうとは思わなくなるかもしれません」

「分かりました、やってみます」


 

 その日は、注意を聞かされた後すぐに解放され、母と名乗った女の車で家に帰った。運転中、女は一人で何やら大義名分のようなものを述べていたが、ボクの心にそんなものは響かなかった。

 今住んでいる家(三歳まで暮らしていた)は、西日が通らないせいか、酷く暗く感じ、正直入るのが嫌だった。自分の部屋も、彼女と暮らしていた時より暗く、別の意味で息苦しかった。

 ボクの求めている息苦しさは、こういうものじゃあない。もっと神聖で、精錬されたものなんだ。あの冒険譚を書いたレイも、きっとそう感じていたに違いない。 酸素の薄い空間は、彼女を失ったボクを受け入れ癒してくれる、唯一無二の存在だ。それを再現するためなら、ボクは死んでもかなわない。死ぬまで好きな空間を味わえるなら、それでいい。

 ふと、まだ読んでいる途中であったことを思い出し、ボクはまた彼の世界に浸っていった。レイの冒険譚は、ボクを快楽の世界へ導いてくれる。

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