「あの子は、十四年前の夏に、誘拐されました。当時、まだ三歳でした。幼いころのあの子は、本当に可愛くて明るい子でした。

 誘拐された日、私は仕事が終わらなくて、保育園に迎えに行くのが遅くなってしまいました。仕事場から直接保育園に着いた時には既に六時になっていて、私は息を切らしながら、あの子がいるはずの教室に行ったんです。

『私のリース、遅くなってごめんねぇ!』

 と言って教室に入ると、そこには保育士が一人だけ、おもちゃを片付けていました。他に人はいないかと見渡してみても、教室にはやはり保育士しかいませんでした。

『リース君は、もう随分前に帰りましたよ』

『あ、そうなんですね。失礼しました』

 保育士の言葉を信じて、私は家に帰りました。でも、おかしかったんです。家の鍵が、開いていなかったんです。それに、家に光が一つも灯っていなかったんです。

 夏の六時頃と言ったら、まだ明るいですけれど、私の家は西日が差しにくい場所にあるんです。まわりに背の高い建物が沢山あって、光が遮られてしまうんです。だから、暗いところが苦手なリースはすぐに明かりをつけていました。

 変な胸騒ぎがしました。

 家に入り、あの子の名前を何度も呼びました。けれども、返事はありません。庭にも出て、名前を呼びました。でも、やはり返事は無かったんです。

 当時中学生だった娘が帰ってきて、一緒に探し始めました。私は、死に物狂いで探したんです。あの子が大好きだった川沿いの公園や、あの子の好きなレストラン、友達の家、町中を駆け巡りました。

 見つからないまま七時半になり、いよいよただ事ではないと警察に通報しました。警察の力をもってしても、リースの行方を知ることはできませんでした。

 それから十年が経っても、リースは見つかりませんでした。元々心臓が弱っていた夫は死にましたが、私の強い希望で娘は警察官となり、新人にも関わらずリースの捜索隊に入りました。

 娘が捜索に参加してから四年が経ち、もうリースは死んでしまったのではないかという考えばかりが続いていたある日、あの子が、発見されたんです。街中をパトロールしていた娘が、保育園の前で蹲る少年に声をかけた所、娘はその少年がリースであると確信したのです。

 私は、それを電話で聞いた瞬間、まさしく飛び上がりました。十四年間、あの子の生還だけを願っていました。あの子が無事に帰ってくるだけで、私は充分でした。リースが搬送された病院に行き、私は十四年ぶりに、愛しい息子の顔を見ることができました。

 病室に入ると、娘を含む警察官三人が、ベッドの上の息子と何やら話していました。話を中断させることに何の躊躇もなく、私はずかずかと息子に近づきました。

『リース!こんなに大きくなって……。辛かったよねえ、怖かったよねえ、良く帰って来たねぇ!』

 涙でクシャクシャになった自分の顔を、か細い息子の胸に押し付け、私はリースを抱きしめました。十四年ぶりの、家族の再会でした。やっと、家族がそろいました。

 これで、ハッピーエンドだと思いました。

 私たち家族は、ここから、幸せになるのだと思いました。

『離れろ』

 しかし、久しぶりに聞いた息子の声は、低くて冷たくて尖っていました。私は、聞き間違いだろうと思いました。

『え?』

『離れろ。お前は誰だ』

 これが息子だろうかと疑ってしまいたくなりましたが、紛れもなく息子でした。幼い時に娘がつけた、特徴的な耳の傷がそのままでしたから。

『何言ってるの。私は、リースの母親よ。そこに座っているのは、あなたの姉よ。覚えているでしょう?』

 息子は、私の顔を見た後、娘の顔も見つめました。

『知らない』

 一言言い放った後、リースはベッドに横になってしましました。きっと、酷い誘拐犯に育てられたから混乱しているだけだ、と私は思っていました。

 リースが発見されてから、私はずっと病院に通いました。十四年の空白を、何とか埋めたいと思っていたのです。けれども、リースは耐えられなかったようで、家族の私にでさえ面会謝絶を求めました。

 それから一週間後、私は警察に話を聞きに行きました。

『犯人は、見つかったんですか?』

 警察は、首を横に振りました。

『見つかっていません。防犯カメラにも、それらしい人物は一切写っていないんです。息子さんも話そうとしませんし、知らない、分からない、の一点張りでして』

『そうですか……』

『でも、昨日エミーユ(あなたの娘さん)が、監禁していたと思われる場所を発見しました』

『そこは、どこなんですか!』

 弾けるように立ち上がった私を宥める動作をしながら、警察は古そうな手帳から写真を取り出しました。

『コンテナ……?』

『そう、コンテナハウスです。港で、空のはずのコンテナに、人が住んでいた痕跡がありました』

 コンテナ?人は住めるのでしょうか?

『そこって、人が暮らせる大きさなんですか?』

『約十八畳ほどありました。それに、そこからリース君のものと思われる髪の毛を発見しました』

 希望の一筋、発見。

『それじゃあ、犯人の髪の毛は?』

『残念ながら、見つかりませんでした。長い髪の毛を幾本か見つけたのですが、人工物でした。でも、ここから購入した人がわかるかもしれません』

 犯人が見つかるかもしれない、そう思った瞬間、胸の中で気持ちが沸騰してきました。

『それともう一つ、奇妙なことがわかりました』

『何です?』

『エミーユから聞いた話なのですが、リース君を発見した時、酸素が薄いところに帰せ、と言っていたそうです』

『酸素が薄いところに帰せ?それって、どういうことですか』

 意味が、分かりませんでした。酸素が薄いところって、水の中ということでしょうか?

『恐らく、犯人が教えたものだと思いますが、低酸素状態が好きなようです。今朝、リース君に説明をしてもらおうとしたのですが、生憎、面会謝絶状態で』

 低酸素状態が好きですって?犯人は、変態に違いないです。そんな異常者の趣味を息子に強要するなんて、なんて忌々しいのでしょう!

『ですから、母親であるあなたが、よく見守って下さい。もうすぐ退院になるでしょうから、リース君が間違った道に行かないように、注意してください』

『もちろんです、私がリースを守ります』

 そうして、私は警察署を去りました」

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