「兄のいじめが始まって四年目になる頃、転機が訪れた。家族で、またあの水中洞窟に行こうって話が上がった。俺が兄に落とされ、死にかけた、あの“星の洞窟”に。

 仕返しの日、この日は猛暑日で、太陽がかんかんと照り付けていた。兄の背中にも、俺の心にも。

俺たちは、今と同じ、このバスに乗って水中洞窟のある町へと向かった。その時も、俺の二の腕は青く腫れていた。兄がバスに乗る直前に刻んだ、俺への暴力の印で。

 あの船着き場から船に乗り、洞窟前に着いた。今回の探検は、船ではなく参加者自ら泳いで探検する、というものであったため、ガイドさんと一緒に水中洞窟へ入った。母と父は前を泳ぎ、俺は兄に足を引っ張られながら、どうにか二人についていこうとした。

 光の届かない洞窟の中、僕は頭に着いた小さなライトで、懸命に泳いだ。たとえ、その小さな光を消されようとも、もがいて、もがいて、生きようとした。俺は、決して兄には負けない。傲慢で、無秩序で、乱暴な兄になど、屈してたまるものか。

 十分ほど泳ぐと、目の前にエアドーム(洞窟内にある空洞)が現れた。そこは、一時休憩として使われていて、大人五人分くらいのスペースがあった。

 俺は、兄を先に行かせ、エアドームに入る前に水の中でバタ足をしてみせた。

 エアドームに入ると、ガイドと両親は楽しそうに談話していた。三人の話を盗み聞きしたところ、ガイドと母は古い友人らしい。嫉妬する父をよそに、思い出話に花を咲かせる母を見ていると、愛とはなんて儚いのだろうと思った。

 五分ほど休憩した後、ガイドと両親は再度水中へ潜っていった。その後を追おうとしていた兄を引き留め、俺は話しかけた。

『ここには、幽霊がいるんだ』

 兄は笑った。

『急に何だ。そんなものいるはずないだろ。まだ幽霊なんか信じているのか』

 俺は知っている。兄がこういった話に弱いことを。

『エアドームで窒息死した女の幽霊が、俺らみたいな子供を狙っているんだって』

『そんなのウソに決まっているだろ』

 兄の声は、少し上ずり、震えていた。

『嘘じゃあないよ。俺、テレビで見たんだから。エアドームから出ようとしたところを狙って、襲うんだって』

『お、お前は怖くないのかよ』

 兄は、必死に平静を保とうとしていた。

『怖いよ。だから、ラーク兄さんに守ってもらおうと思ったんだ』

 兄の顔は、俺の言葉を聞いた瞬間に唐辛子のように赤くなった。

『お前、俺を盾にしようとしたな?』

『違うよ!ただ、ラーク兄さんは強いから、頼りになるって思っただけだよ』

 兄は、俺が言いきらないうちに、俺を殴った。人の言うことも聞かず、自分の感じたままに生きる。それが兄だった。

 俺は怒った。

『兄さんはいつもそうだ!俺を殴ってばかり、俺の言うことも聞かずに、どんどん考えが暴走していくんだ。俺は、兄さんなんか大嫌いだ!』

 兄の顔は、唐辛子よりもさらに赤く、マグマのように赤くなった。

『お前、どうなるかわかっているよな?』

 俺は、逃げだした。こうなった兄のする行動は、ただ一つ。俺を殴ること。俺は、酸素マスクをかぶり、水中へ潜った。

 最後に、バタ足を忘れずに。

『おい!待て、レイ!』

 兄は、俺の名前を呼んでいた。

『レイ!』


 ガイドと両親が残してくれた目印のおかげで、俺は水中洞窟の外へ出ることができた。俺は、清々しい気持ちでいっぱいだった。

 水中洞窟は、海に面しているが、潮の流れはない。だから独特な生態系が生まれるのだが、そこには欠点があった。

 それは、一度海底の泥を巻き上げたら、なかなか元に戻らないということ。つまり、泥が舞い上がって悪くなった視界は、長時間経たないとクリアにならないということ。

 俺が泥を巻き上げたから、兄はエアドームから出られない。俺がどんなにすごい存在か、身をもって知るだろう。

 俺は、真上で光る太陽を見た。俺だって、やるときはやるんだ、と自信いっぱいに笑って見せた。

 しかし、太陽は、目を瞑るように雲の後ろへ潜っていった。

 前を向くと、ガイドと両親はおかしな顔をしていた。俺が戻って安心したような顔と、兄がいないことへの不安を交互に出していた。

『どうして』

 先に口を開いたのは、母だった。

『レイ、あなた一人で来たの?』

 俺は、褒められたのだと思った。

『そうだよ。ママたちが残してくれた目印を追ってきたんだ』

 そう言って、自信満々に笑って見せた。

『どうして』

 次に口を開いたのは、父だった。

『ラークは一緒じゃなかったのか?』

 俺は、なぜ父がこう聞いたのかよくわからなかった。

『エアドームで、ラーク兄さんは俺を殴ったんだ。だから、怖くなって、一人で逃げてきた。兄さんはまだエアドームにいると思うよ』

『どうして』

 最後に口を開いたのは、ガイドさんだった。

『ラーク君を置いてきた?』

 何か、怒られているような気がした。

『殴ろうとする相手と仲良く帰って来いって言いたいの?』

 ガイドさんはたじろいだ。

『レイ、ラークは無事なんだよね?』

 母は、俺の肩を強くつかんだ。あざができるくらい、強く。

『無事に決まっているだろ?俺はただ逃げてきただけなんだから』

 母は、安心したように頷いた。

『そうよね、ラークなら一人で帰って来られるわよね。レイだってできたんだもの』

 俺は、今度こそ褒められた。兄ではなく、自分を見てもらえた。やっと、認めてもらえたのだ。

 俺たちは、近くのキャンプ場で談笑していた。俺が洞窟から出てきて一時間ほどたった時だった。

『ラーク、遅いなあ……』

 父の不意にこぼした短い言葉が、母を不安にさせた。

『何かあったのかしら』

『キャンプ場にいるとは知らなくて、一人でホテルに戻っちゃったのかな』

 俺の言葉に、みんなが賛同した。うんうん、そうだ。その通りだ。ラークは先に戻ったのかもしれない、と。

 俺たちは、ガイドさんと別れてホテルに戻ってみたが、そこにラークの姿はなかった。

 母はついに、ダムが決壊したかのようにぼろぼろと涙をこぼし始めた。

『どうしよう、どうしよう。あの子が無事でなかったら……』

 何度もこう呟いて、ハンカチで目をぬぐっていた。父は、受付の人に「小学生の男の子が来ていないか」としつこく聞きまわっていた。

 俺は、ちょっとした疎外感を感じた。母と父は、あんな最低なラークをこんなにも必死に心配し、探している。もし、今いないのが俺であっても、こんな風に探してくれるのだろうか。

『あの子、ひょっとしてまだあの洞窟にいるんじゃ……』

 母が、俯いていた顔を上げ、独り言のように呟いた。『まさか』と自分は思った。ずっとあそこにいるわけがない。あいつは誰よりも、俺を殴ることに対して執念深いのだから。

『そうかもしれない』

 父は、母の言葉を汲み取った。

『念のため、警察に連絡しよう』

 警察は、父が通報して五分後には、ホテルで両親と話していた。事故の可能性、殺人の可能性、自殺の可能性もあると、警察に吹き込まれていた。あいつは、俺が謝るまで出てこない作戦なのかもしれない、と俺は密かに思っていた

 だから、まさかあんなことになるとは思っていなかった。

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