3
「俺には、一つ違いの兄がいた。名前はラーク。小さいときは、俺に優しかった。一緒に子供向け映画を見たり、俺におやつを分けてくれたり、とにかく慈愛に満ちた良い奴だった。」
「いいお兄さんだったんだね」
「そんな兄が変わり始めたのは、小学校に入学する少し前だった。
俺には理解できなかったけど、なぜか俺に暴力を振るい始めた。幼稚園の誰かの入れ知恵なのか、こういう遊びが流行ったのかは知らないが、兄は豹変したんだ。
ある時は俺に腐った卵を食べさせ、それに反抗すると今度は殴り続けた。母親は、俺が幼稚園の誰かにいじめられていると勘違いして、俺を家に閉じ込めた。
それが、兄の暴力をますますエスカレートさせた」
アルバスはどう思うのだろうか。俺の幼少期を、可哀そうだ、と憐れむだろうか。
アルバスの表情からは、俺は何も読み取れなかった。
「続けて。僕はレイを受け止めるよ」
アルバスは、そう思ってはいないようだ。
「兄が小学校に入学した少し後、兄は俺を地下室に閉じ込めた。入学式の前夜から、入学式の午後まで。母には適当なウソを言って、俺を半日以上そこへ閉じ込めた。
兄が地下室を選んだのは、俺が頻繁にそこへ逃げていたからだと思う。兄に殴られそうになったり、殴られたりした時、そこで泣いていたんだ。俺は、弱虫で泣き虫だったから、そうすることしかできなかった。
その日は四月のくせに肌寒くて、夜には五度近くまで下がっていたらしい。俺は、凍死寸前だった。食事もとっていなかったから、腹もすごく空いていた。
俺が発見されたとき、兄の表情はどんなだったと思う?」
俺は、少し間を置いた。
アルバスがどんな反応を示すのか。
答えは、ただ無表情で、真剣に聞き入っているようだった。
「兄の表情は、嘲笑と、蔑視と、怒りと、悔しさが混ざったような、気持ちの悪い笑顔だった。俺は、ただ絶望した。こんなに異常な人がいるんだ、と幼いながらに感じ取った。
それから俺は、兄を憎むようになった。俺は密かに、兄に仕返しをしようと、計画を練り始めていた。
八月上旬、その気持ちを強固にさせた事件が起きた。家族で水中洞窟に行った時だった。兄は、いつも通り俺をいじめていた。両親が見ていない時を見計らって、俺の髪の毛を引っ張ったり、バスの窓に俺の頭を打ち付けたり、笑いながらいじめていた。
俺は耐えた。耐えるしかなかった。ここで歯向かったら、また殴られるだけ。今は、時を待つしかないのだ」
俺は、アルバスの方を見た。アルバスは、俺の目をまっすぐ見ていた。俺は、目をそらした。なんだか急に、話すことが後ろめたくなってきた。
アルバスの愛情を拒否し、しばらく無視していた俺を、アルバスはここまで親身になってくれるのか。俺は、すべてを話して大丈夫なのか。
「レイのペースで話して」
アルバスの陽だまりのような笑顔が、俺の瞳に光を灯した。
「水中洞窟がある海の見える街に着くと、俺たちは船着き場へ向かった。古い家が立ち込めている街並みは、俺の憂鬱な心に風を吹かせた。この国に、こんな綺麗な街があるのだと、初めて思った。
俺たちは、船着き場の近くにあった定食屋で昼食をとった後、水中洞窟へ向かう船に乗った。小型船の上には、真っ黒に日焼けした大きな男が立っていた。
船に乗る時も、兄は俺をいじめた。船に乗る瞬間に、背中を強く押され、あやうく海に落ちそうになった。
俺は、近くを通った母に訴えようと母の手を引いた。しかし、母は俺の手を振り払い、こう言ったんだ。
『落ちればよかったのに』
俺は、耳を疑ったよ。母親がこんなことを言うなんて、信じられなかった。俺は、母も兄と同じなんだ、と咄嗟に悟った。
その後の航海は、あっという間だった。海岸にそって船が進み、崖が見えてきたなと思うと、すぐそこに洞窟と思われる大きな穴が開いていた。
その日は天候が良く、波の状態も静かだった。
洞窟にそのまま船で入った。ふと、周囲が明るいことに気づいた。洞窟は初めて入ったが、暗闇に包まれていることは大方予想がついていた。しかし、隣で母に甘える兄が見えるほど、ここの洞窟は明るかった。
『この水中洞窟は、“星の洞窟”と呼ばれています。この名は、洞窟についている土ボタルという虫が夜空に浮かぶ星のように見えるので、こう名付けられました』
船を操縦していた真っ黒な男が、体に似合わぬ小さな声で説明し始めた。男が説明していると、『すごいねえ』と母がわざとらしい歓声をしきりにあげていた。
俺は、洞窟の天井を見上げた。
土ボタルは生き生きと洞窟の壁を光らせていた。小さな体で、精いっぱい輝いている土ボタルを見て、俺は元気づけられた。
俺は兄より弱く、体が小さい。だから、いじめられていても反抗することを放棄していた。
しかし、土ボタルは俺よりも小さいくせに頑張っている。生を全うしようと、光り輝いている。俺は、抵抗することを諦めないと誓った。俺は、土ボタルから、兄への反抗心をもらった。
折り返し地点が来たとき、俺は一番油断していた。土ボタルに見惚れ、兄が近づいてくることに気づくのが遅くなった。振り向いた時には、彼は俺のすぐ後ろにいた。
彼が手を広げると、そこには握りつぶされた土ボタルがいた。俺はショックを受けた。
しかし、ショックを受けている場合ではない。早く彼から離れないと、何をされるかわからない。
俺が彼から離れようと船のふちに近づいたとき、兄は俺の頭をグイッと押した。俺は、洞窟内に入り浸っている、冷たい海に落ちた。
その時の俺は、まだ泳げなかった。俺は、必死になって助けを呼ぼうとしたが、何か言おうと口を開けるたびに、海水が口の中へ入ってきた。その海水を吐き出そうとする度に、海水は口の中へどんどん入ってくる。
俺は、息を吸うことを諦めた。口を開けなければ海水は入ってこないのだから、呼吸をしなければいいと考えた。しかし、だんだん苦しくなってきて、酸素が欲しくなった。朦朧とする意識の中、俺は土ボタルの明かりに照らされた海の中を、下降していった。
目は海水で沁みて痛かったけれど、そんなのはどうでもよかった。
洞窟内を照らす満天の星の下、冷たい海水が、俺の体に張り付く感覚。酸素がなくて、苦しい感覚。
普段は好まれないこの状況が、俺には幸せに思えた。幸せ、というと違う気もするが、とりあえず、得体の知れない充足感でいっぱいだった。永遠と思われたこの時間は、実際はかなり短い時間であった。
その後のことは、よく覚えていない。いつの間にか、あの船着き場の近くにあった定食屋に、俺は横たわっていた。
後から聞いたところ、俺たちの船を操縦していた男の人が、俺を助けてくれたらしい。俺は、いまでも彼に感謝している。
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