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次のページを捲ろうとしたとき、誰かが部室のドアをノックした。驚いて後ろを振り返ると、そこには憎たらしい笑みをこぼす女が立っていた。
「やっほー、リース。優しいお姉さまが迎えに来てあげたよ。さ、一緒に帰ろう」
ボクは、近づいてくる姉を軽く睨みつけた。そして沈黙していると、姉はわざとらしいため息をついた。
「あんたを見つけてあげたのは誰だと思っているの?他でもない、あたしなのよ。少しは敬意を払ってもいいんじゃないかしら」
最近知ったことなのだが、この女はこの上なく頑固で、高飛車で、傲慢らしい。ボクが一度拒否したことでも、無理やり受け入れさせようとする。いつの間に、こんな性悪女になったのだろう。
「わかったよ、行くよ……」
「な、なんで、ここに警察の方が?」
ボクが言い終わるか終わらないかの間に、担任であり洞探の顧問である教師が、ボクと姉を交互に見て驚愕していた。
「こんにちは、ミスター・ジョーカー。あたしはエミーユと言います。リースの姉であり、彼の捜査を担当した警察です。本日こちらへ伺ったのは、弟を無事家に送るためです。ですから、そんなに緊張なさらないでください」
姉は、身分証明書と入構許可書を顔の前でチラつかせ、あざとい笑顔を見せた。姉の模範的な対応に心が落ち着いたミスター・ジョーカーは、「戸締りして帰れよ」とボクに声をかけると、姉に会釈をし、洞探の部室を去っていった。
「行くよ」
彼を見送ると、姉はぶっきらぼうに言いのけた。ボクは読んでいた紙束をリュックに入れ、部室を出た。木の扉の鍵を閉めた後、鍵を制服のポケットに押し込み、先を行く姉の後ろを歩いて行った。生徒昇降口へ続く廊下は、窓が全開になっており、時折、初夏の爽やかな風が髪の毛の間を通り過ぎた。
ボクよりも先に昇降口に着いた姉は、座って靴を履いていた。西日が差し込み、幻想的な光で包まれる昇降口の中、ボクの目には、姉の背中がなぜか弱弱しく映っていた。ボクを探すために、警察官になったという姉。男よりも逞しく生えている二本の腕は、ボクよりも遥かに筋骨隆々に見えるというのに。
姉は踵の高い靴を履くとサッと立ち上がり、昇降口の目の前にある白い車のほうへ歩いて行った。
ボクが靴を履くころには、今まで昇降口を色づけていた西日は角度を変え、ボクの頭上を馬鹿にするように照らしていた。
姉の車の助手席に乗ると、姉はボクにノートとペンを渡した。
「あんたを誘拐した犯人の特徴を、そこに書いて」
「……」
「聞いているの?」
姉は腹立たしそうに、動き始めた車のハンドルを指でコンコンと叩いた。
「まだ、犯人が見つからないのよ。あんたを十四年間監禁していた場所は跡形もなく消えているし、何故か証言が全く無い。唯一わかることといえば、性別が女だっていうことくらい」
「……」
ボクは沈黙を続けた。今は、彼女の存在を明かすことはできない。それに、憎たらしい姉の手伝いなんかしたくもない。ボクの楽園を汚し、その上勘違いの捜査を自慢げに見せびらかす姉なんかに、彼女を批判されたくない。
彼女―ボクが十四年間一緒に過ごした人―は、本当に素晴らしい人だった。瞳の中に溢れんばかりの光を蓄え、それをボクや周囲の人に分け与える、そういう人だった。ボクは、彼女が好きだった。彼女が、ボクの太陽だった。彼女が、ボクを照らしてくれた。無能な太陽に代わって。
「もしかして、庇っているの?」
姉の泣きそうな声で、ボクは我に返った。
「ねぇ、それがどういうことを意味するのか、分かっているの?あんたは、ただの可哀そうな被害者なのよ、庇う必要は無いのよ」
「……」
ボクは、それでも沈黙を続けた。
パチンッと音が鳴った。それが、姉がボクの頬を叩いた音だと気づくのに、かなり時間がかかった。
「ふざけないで」
無反応だった右の頬が、じんじんとする痛みを訴えてきた。
「あんただけが被害者じゃないんだからね」
姉の目は、見たことがないくらいギラギラと光っていた。その様子は、真っ暗な宇宙に浮かぶ灼熱の太陽が、ボクを焼き殺そうとしているようだった。その様子に少し面食らったボクは、蛇に睨まれた蛙のように、ただそこに、居座っておびえていることしかできなかった。
「あんたが誘拐されている間、あたしたちだって苦しんでいた。お母さんは十四年間、親として最低だと蔑まれ、ネットからバッシングを受け、寝込んでしまったことだってあった。あたしに暴力を振るうようになった。昔と比べて髪の毛が細くなって、白髪が増えて、やせ衰えてしまった」
姉の頬に、一滴の涙が滑り落ちた。ボクの体は、車とともに上に揺れた。
「それに、お父さんは、あんたのせいで死んだのよ。心臓病で床に臥せていたお父さんを、内側から壊していったのは、あんたよ」
姉は、涙で濡れたハンドルを強くたたいた。ボクは、隣でむせび泣く姉に声をかけることができなかった。
「あたしは、あんたが嫌い。何の苦しみもなく悠々と過ごしていたあんたが嫌い。あたしを警察官にさせたあんたが嫌い。お父さんとお母さんの愛情を独り占めしていたあんたが、だいっ嫌い」
ボクは、本当に何も言えなかった。どうしたらいいのか、わからなかった。
運転席の横から差し込む沈みかかった夕日が、姉の涙を照らしていた。その目から生まれた雫は夕日に照らされて輝き、そして落ちていった。
家に着くと、姉は乱暴に車のドアを閉め、家の中へ入っていった。一人車の中に取り残されたボクは、地平線に消えていった太陽の残骸を見ていた。
「おかえりなさい、リース」
家に入ると、母と名乗った女が待ち構えていた。
「今日はどうだった?これからも学校に行けそう?友達はできたのかな?あ、先生は……、」
「うるさい」
母と名乗った女は、あからさまに落ち込んだ表情を示した。
「……じゃあ、ご飯食べようか。お母さん、頑張っていっぱい作ったのよ」
「いらない」
女の声を遮るようにして、冷酷に答えた。あっけにとられた女を置いて、ボクは階段を上り、用意された部屋へ行った。
女によると、この部屋はボクが三歳頃まで使っていたという。内装も三歳の時のまま、この部屋の時間は止まっていた。いや、この家全体の時が止まっていたのかもしれない。それが今、ボクが救出されたことによって動き始めているのだろうか。
正直に言うと、この家で過ごした記憶はほとんどない。何がどこにあるのかわからないし、誰がどの部屋を使っているのかもわからない。ただ、三歳の時にボクが好きだったキャラクターのフィギュアだけが、ボクが確かにそこにいたことを物語っていた。
しかし、ボクはもう三歳のガキではない。十四年の時を経て、体も心も大人になった。だから、この幼稚な部屋にいると、馬鹿にされているような気がしてくる。
異常な誘拐犯に育てられた、可哀そうな子。さぞかし、人格も頭も悪いんでしょうね。だったら、三歳からやり直しましょう。
そう言われているようにしか感じない。
ボクは、小さなベッドの横に置いたリュックから、洞探の部室で拾った紙束を取り出した。ボクと同じ、酸素の薄い場所が好きだったレイが書いた、高校最後の一年間の記憶と思い出が、ボクの怒りを紛らわせてくれるに違いない。
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