2章 氷の洞窟

 H十四六月二十七日「氷の洞窟」への探検を開始する。探検リーダー:レイ、副リーダー:ファルコ、書記:アルバス、撮影:カイト&ヘレン。



 その日は、前日に霙を伴う大雨が降ったせいで、初夏にも関わらず少し肌寒かった。俺たちはロープウェイを使い、山の中腹にあるトンネルの入り口に到着した。

「景色綺麗だね~」

 お調子者のヘレンが、カイトの肩をバンバン叩いている。カイトは、ヘレンの攻撃を物ともせずに撮影した画像をチェックしていた。今日も変わらない、いつもの洞窟探検が始まった。

「ここが、あの有名な氷の通り道か」

 アルバスは興奮した面持ちで、リュックサックの肩ひもを握りしめていた。

「ねぇ、みんな寒くないの?俺寒くて死にそう」

 寒がりのファルコは、早々に文句を言っていた。そんなメンバーをよそに、俺は注目を集めようと手を鳴らした。

「さあ、今年度二回目の探検は、氷の洞窟だ!ここは、一八七九年にアントン・ポッセルトによって発見され、全長四二メートル、標高一六五六メートル、そしてなんといっても……」

 ファルコの手が、俺の肩に触れた。

「誰も聞いてないから、さっさと行こうぜ」

 ファルコは親指を後方へ突き出して見せ、ヘレンや他のメンバーが先に行っていることを示した。俺は何ともやりきれない気持ちでいっぱいながらも、

「出発だ!」と大きな声を上げた。

「おー!」

 ヘレンの声が遠くで響いた。



 洞窟の入り口に行くまでに、狭い山道を通るという試練が、俺たちに立ちふさがった。ファルコはすっかり戦意喪失しているようだ。

「ただでさえ寒いっていうのに、まだ登るのかよ」

 そう文句をこぼすファルコの気持ちは、俺にも理解できた。俺たちが普段暮らしているところとは全く異なる環境に、俺の体は徐々に悲鳴を上げていた。まだ洞窟にさえたどり着いていないというのに、だ。

 それでも、重い足を無理やり動かし、メンバーの前を歩いた。俺、アルバス、ヘレン、カイト、ファルコの順に進んだ。時々、後方にいるファルコに励ましの言葉をかけたりもした。

「レイ、寒い?大丈夫?」

 後ろから、アルバスが心配する声が聞こえた。

「大丈夫だ。あともう少しで着くからな」

 後ろを振り向き笑顔を作ると、アルバスは安心したように微笑んだ。


 それからは、みんな無言で登り続けた。ロープウェイに乗って山道前に到着してから約三十分後、俺たちはついに洞窟の入り口にたどり着いた。

「疲れた~」

 ヘレンが地面に座った。最後に到着したファルコも、四つん這いの姿勢になって息をついていた。俺とアルバスが水分をとっていると、カイトとヘレン、ファルコは簡易トイレの列へ並び始めたのが見えた。あの様子だと、帰ってくるのに時間がかかりそうだった。

「レイ、休憩所に行こう」

 アルバスは俺の手を引き、簡易トイレの隣にある木造の建物の中へ入った。休憩所のドアを開けると、ムアッと暖かい空気が体を包み込んだ。

「……少し、あの場所に似ている」

 俺がボソッとこぼした声に、アルバスは気づいていないようだった。俺は、アルバスに手を引かれるまま、ベンチに倒れるように座り込んだ。俺が座ると、アルバスは自分の上着を俺の肩にかけてくれた。

「俺は大丈夫だから、アルバスが着てろよ」

「いいんだよ、僕は暑がりだから」

 アルバスは、優しく微笑んだ。今思えば、アルバスは昔から優しさに溢れた男だった。


 アルバスとは、中学で出会った。入学式当日に意気投合し、それからずっと親友として過ごしてきた。一緒にいる時間は幼馴染であるファルコよりも短いというのに、アルバスは気軽に話せる唯一の存在となった。俺がファルコと喧嘩した時にはさりげなく仲裁してくれたり、俺が彼女に振られて落ち込んだ時には、悲しみを共有し、一緒に泣いてくれた。

 俺は、そんなアルバスが大好きだ。どんなに年をとっても、どんなに遠く離れてしまっても、彼とは親友でいたい。分かり合いたい。俺の好きな「酸素が薄い空間」のことも、少しも嫌がるそぶりもなく受け入れてくれるアルバスが、俺には必要なのだ。

 今、アルバスはまた俺に優しく接してくれている。俺が寒さを我慢していたのを、前から気づいていたのかもしれない。アルバスは、本当に自然に、息を吸うように、そういった気遣いができるのだ。

 俺がアルバスの上着で少し体温を取り戻したとき、休憩所の職員と思われる女の人がやってきて、俺とアルバスに暖かいミルクを手渡してくれた。氷のように冷え切っていた手がマグカップに触れると、みるみるうちに暖かくなっていった。ふと隣を見ると、アルバスも同じように手を温めていた。

 湯気が立ち込めるミルクを口に含むと、あまりの暑さに舌が火傷しそうだった。熱さに驚いている俺を見て、隣では、アルバスがクスクスと笑っていた。ムッとした表情をアルバスに見せながらも、俺は自嘲するように笑い、アルバスの猫のように柔らかい髪の毛をクシャクシャにかき混ぜた。

 再度、マグカップを口につけると、さっきよりは熱く感じなかった。俺はゆっくりゆっくりカップを持ち上げ、中の白い液体を徐々に舌に近づけた。チョンと液体が舌に触れたが、俺の舌は過剰反応することもなく、ミルクのほのかに甘い味が口いっぱいに広がった。

 ゴクンと飲み込むと、ミルクは食道を温めながら下り、胃へと注がれた。もう一口ミルクを口に注ぎ、飲み込んだ。注ぎ込まれたミルクによって、徐々に体が温まってくる感覚がした。一呼吸おいて、また次の液体を口に注ぐ。俺の体は、かつての生暖かい温度を取り戻していった。

 ミルクが無くなったマグカップを近くのテーブルへ置こうとしたとき、コツンと何か固いものが、俺の肩に触れた。何だろう、と思って横を向くと、アルバスが俺の肩に頭をのせていた。その顔をよく見ると、アルバスは眠っているようだった。小さな子供のような、可愛らしい寝顔だった。

 俺は、アルバスと自分のマグカップを近くのテーブルに置いた。アルバスを起こさないように、慎重に。

 アルバスのゆったりとした寝息に誘われて、俺も睡魔に襲われた。眠らないぞ、と奮闘すること三十秒、俺は睡魔に負けてしまった。アルバスの寝息が遠くのほうで聞こえ、だんだん意識が遠のいていく感覚がした。

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