ピコん。


 電車のドアに寄りかかり、腹立つ着信音の鳴った携帯を見る。慣れないながらもSNSアプリを開くと、画面に新しいメッセージが届いていた。


『学校には着いた?先生は優しいかな?友達は無理して作らなくてもいいからね?』

 母とも思っていない人からのメッセージは、ただの雑音にしか感じない。


『うるさい。』

 それだけを指でタップして、送信ボタンを押した。


 この世界は五月蠅い雑音に満ちている。車のクラクション、飛行機の通り過ぎる音、携帯の音、人間の話声、笑い声、泣き声、呻き声……。耳を覆ってもお構いなしに押し寄せてくる雑音の波に、気が狂ってしまいそうになる。

 この世界の全ての音が自分の味方ではないってことくらい、分かっているんだ。分かっているから、お願いだから、やめてくれよ……。


 ガタンと突然襲った電車の揺れが、僕の足を掬おうとする。鍛えられていないひ弱な足でどうにか持ちこたえた後、恥ずかしさを押し殺すために深呼吸をして、窓の外を見た。 先程まで電車と並行して飛んでいた白鷺は、また飛ぼうとするのだろうか。

延々と続くと思われたヒメジョオンの群生を通り過ぎて、次に目に飛び込んできたのは、小さな公園だった。

 久しぶりに見た川沿いの公園は、遊具の数が減っていた。寂れた公園の敷地には、小さなブランコと滑り台だけ。手の付けられていない雑草の中に、ぽつんと置いてけぼりにされていた。

 小さい頃の記憶で何となく覚えているたくさんあった田圃や畑が、少しずつ家に変わっていく。白やベージュの四角い家には、ソーラーパネルが乗っている。


『〇〇駅~、お出口は左側です。』

 車内アナウンスとともに、駅のホームへ降りる。背筋を伸ばして、階段を上がる。焦らず、堂々と改札を通る。

 普通のことを普通にこなせない自分を恥ずかしいと感じる。初めての駅、動く階段、カードで通る改札、初めての経験ばかりで、今日は何だか疲れてしまった。


 ―初めて?でも、気持ちいいでしょ、この部屋。


 耳の奥で、彼女の声が聞こえた。


 初めてだけど、気持ちいい。

 この体は覚えている。

 好きだった人との、好きだった場所を。

 好きだった人と過ごせた喜びを、肌に感じた幸せを。

 忘れがたい、青春のひと時を。



 幼い頃、好きだった人が「愛のトンネル」という場所に連れて行ってくれたことがあった。そこは、植物と列車が創り上げた、ロマンチックな世界だった。洞窟の様に広がる萌黄色の葉が、二人を包み込み、幻想的な世界へと誘う。太陽の光を存分に浴び、嬉しそうに葉が戦いでいる。

顔を見上げると、好きだった人が、自分にだけ特別な笑顔を投げかける。


「連れてきてくれてありがとう」


そうお礼を言うと、彼女ははにかみ、頬にキスをしてくれた。

 それから彼女の家に帰ると、心臓をキュッと締め付ける、あの場所が待っていた。彼女と過ごせた第二の天国、「酸素のない部屋」。

 一番覚えていることは、苦しかったこと。訳も分からぬ部屋の中で、ただ、苦しいという感覚だけは止むことが無かった。ゆっくり、ゆっくり、確実に迫る死の気配を感じながら、彼女と笑いあった。


 ―初めて?でも、気持ちいいでしょ、この部屋。


 うん、気持ちいいね、この部屋。

 久しぶりに、最高の幸福を思い出した。その時の快感を思い出し、この体はブルッと震えた。

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