真愛
「お父様、そんなに慌てなくても約束の時間まではまだありましてよ。」
長い黒髪の先を人差し指に絡ませて、蓮の妹であり、優の娘である胡桃が呟いた。少女は優雅に紅茶を啜りながら、忙しなく動き続ける父を見ていた。
「だって、お父さんが来るんだよ……!落ち着いてなんていられないよぅ……。」
「『先を見すぎてはだめ。運命の糸は一度に一本しかつかめない』のですわ。」
「英国人チャーチルの言葉だね。……うん、慌てても何しても立ち行かないことばかりさ……。」
そう言いながらも、優の部屋は散らかってゆくばかりだ。クローゼットやらタンスやらをひっくり返す勢いで何かを探している。そして、中途半端に引き出された引き出しに頭をぶつけては悶絶するのであった。
「お父様は何を探していらっしゃるの?」
「ネクタイピンを……ほら、あったろ?金色でダイヤ型の……。」
「それは……存じ上げておりませんが……まあ、探すのを諦めたときに出てくるのではなくて?」
「……それは…うん、確かにそうかもしれない。」
ストン、と上質な革張りのソファーに優はやっと腰掛けた。
「よろしければ紅茶をどうぞ。」
「あ、うん、ありがとう、胡桃。」
そう言って、カップを持ち上げながらも窓の外を何度も気にしている。少女は大きくため息をついた。
「お父様、まるで初めてのデートを心待ちにする若者のようだわ。」
「変な表現やめてよぅ……。」
空になったティーカップをソーサーに戻し、胡桃は無感情に笑む。
「こういうときはシリアスに待つものでしてよ。」
「そんなこと言っても……、結局昨日は眠れなかったし。」
「……やはり、初めてのデートに出かける若者的な……。」
「やめてよう……もう。」
「窓の外は私が見てますわ。お父様はネクタイピンの在り処でも推察してなさいな。」
「うん。」
時計の針の音が響く。一つ、ため息を吐いて、優は静かに目を閉じた。
父も母も死に、自分は伯父に引き取られた。十分な教育と教養を与えられて、新興宗教の神は誰にでも優秀といわれる人間になっていた。だけれどその優秀、という言葉には同情も含まれていたようだった。かわいそうな子、親から虐待を受けて、宗教の神としての人生を強制された子。いつだって褒める言葉には憐れみがあった。育ててくれた伯父でさえ、そうだった。自分はかわいそうではない、自分は幸福だったと声高に叫んで。そうして、諦めたように撫でる手と、見つめる瞳は明らかに可哀想な子どもを慰めるものだった。
だから、ユウトという名前を秘め隠した。これ以上可哀想という目を向けられのには耐えられなかった。名前を封印して大人になる頃には、そんな目を向けられることは殆どなくなった。だけれど、名前とともに思い出すら封印してしまったようで。時折、焼けそうな痛みが溢れるように感情を焦がした。
昨晩、蓮が、大切な息子が連絡してきた内容に驚いた。父が蘇ったと、とても信じられない。だけれど、あの真面目な蓮が嘘をつくだなんて絶対に考えられなかったから、真実だと信じた。
父は神としてユウトを育てていた。だけれど、ずっと前。神と神官という関係になる前の父親の姿を覚えている。病弱で入院しがちな母の代わりに全ての家事を行い、子育てに奮戦する。他の人が知らない姿を、ユウトだけは覚えていた。
儀式だからと暴力と血を求めた姿は恐ろしかったけど。それ以外は決して恐ろしくなどなかった。必要最低限の食事を与えて、会話しないで育てることだってできただろうに。彼はそうしなかった。
ユウトがテストで良い点を取れば、頭を撫でて褒める。ご飯を食べている最中に「美味しいですか?」と、見て微笑む彼の顔が頭から離れない。一時期は洗脳でもされているのではないかと悩み続けたこともあったが、最終的にユウトはある結論に至った。
つまり、どうしようもなく父が好きなのだということに。イかれていても、ヤバくても、邪教の教祖でも、どうしようもないぐらい頭がおかしくても、ただ一人の自らの父であると。嫌えるはずも憎めるはずもなかった。完璧で、不完全な彼を間近で見ていたのは他ならぬ自分なのだから。
もちろん、喜びだけではなく、不安や恐怖も感じていた。もしかしたら、父は自分なんか本当に眼中になくて。神サマしか見えていないんじゃないか。そう思うと心臓が止まりそうなほどだった。眠れなくなるほどに。だけれど、父と会う決断を推し進めたのはきっと、勇気という単語に近いものだ。
アイはきっと愛だけじゃなくて色々な感情を含んでいるんだろう。哀、阨、逅、藹、娃。同じ音だけでもこれだけの意味に分かれる。愛するだなんて口にするのは簡単で。だけれど、それはただ一つに意味を固定してしまう。理解は真の理解ではない。勝手に意味を決めつける。それでは言語はあまりにも無粋だ。
生まれたときから狂っていた彼は狂っていたからこそ、息子と妻を理解できず。初めて愛を口にしようとして、やっぱりそれが理解できなかったのだ。故にアイ。音は同じだけれど、その意味は愛ではないような。そう、不定形なアイ。
何もかも混ざった生まれたてで極彩色のアイを与えることが父なりのアイジョウであり、シンアイだったのだ。ただ、それもユウトの憶測に過ぎないから、これからくる父に聞いてみようと考えた。ただ、この何もかも混ざったアイという言葉なら、ユウトも素直にアイを口にできる。恐怖と喜びと愛情……、受け取り方は相手次第だ。それはとても素敵なことに思えた。
コンコンコン、と不規則なノックの音が聞こえ、……やけにパンキッシュなメイドが部屋の扉を開けた。
「旦那様ぁー?蓮様とお客人がお参りましたよぅ?」
「えっ、あ、ありがとう。……胡桃、窓の外見ててくれたんじゃないの?」
ばっ、と振り向くと胡桃は窓の桟の部分に腰掛けたまま、うたた寝していた。
「あぁ、結局、ネクタイピンも見つからなかったよ……。」
「ネクタイぃピンですかぁっ?」
泥酔者のように歩き、メイドは胡桃のタイから、優のネクタイピンを外し、手渡した。
「……あー、なるほど。」
「灯台デモクラシってやつ、ですぅっね?」
「もと暗し、ね。デモクラシーじゃ原型もうないから。」
そんな声も聞こえていないのかメイドは不規則に歩きながらエントランスへ向かう。その後ろを優は歩きながら、大きく深呼吸した。
あの日喪った、父が。自分に会いに来てくれた。
アイだけを推進力にして、冥界から現世まで。
まずは大喜びで「おかえり、お父さん。」って言おう。
シンアイ ミミ @mimi_mi
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