深愛

殴られた後、長い夢を見た。


浅い呼吸が聞こえる。儀式用の部屋の壁、床には魔法陣がびっしりと気味が悪くなるほど、書き込まれている。その真ん中に少年がいる。傷だらけで血まみれの。部屋の床は古い血と新しい血がまざった赤いカーペットの上に二人がいる。


少年の背中にはバールが深く刺さっている。歪な翼のように。頬は刃傷が切り裂いている。包丁で切ったのだ。爪が剥がれて、ぷっくりとピンポン球のように指先が腫れている。それを思い切り踏みつぶせば死んだように横たわる少年は泣き叫び喘ぎ、視線を動かした。


「神サマ、本日の儀式は終わりです。お疲れ様でした。」

「おとー…さ…。」

「お父さんって呼ばないでください。……おや、気を絶たれたのですか?」


時折、痙攣をする以外の反応を示さなくなったユウトをもう一人の私はだきあげる。血の匂い、血の匂い……。


──この世に神など居やしない。


──ならば、この手で造りあげようではないですか。


そのためなら死にそうなほどの努力もいとわなかった。それはまさに信仰、狂信。神としての才、『神性』を秘めた女性を母胎にして、新たな神を作り出そうとした。


この『息子』という生き物は非常に都合が良かった。精神や肉体は魔術的な儀式において重要視される。精神は育てる過程でそうなるように指針を与えた。肉体は徹底的に管理した。特に儀式で血は特別なものだったから。


「あぁ、ユウトくん。」


傷を丁寧に手当てしていく。血の匂い。包帯、ガーゼ……血は滲み止まらない。止血をしないと。ぎっ、と僅かに傷口を圧迫すれば痛みに悶える、唸り声。


生まれたときから私はきっと狂っていた。人を殺めたり傷つけたりすることがひどく好きだった。でも、死体をアイしているわけでもなかったが。人を殺すのなんてモノを壊すのと変わりはしない。だから、人を傷つけるのを厭わない。


「……おとーさん?」

「お父さんって呼ばないでください。」

「今日ぐらい、いいじゃない、直之さん。」

「そんなにお父さんって呼びたいんですか?」

「呼びたい……。」


あれだけの痛みや傷を負わされても神の如き少年は甘える声を出す。それが生存本能なのか、アイジョウなのか、終にわからなかった。新興宗教の神。


彼を神にしたことに一切後悔はない。そのために作り出した。アイチャクは二の次だ。それでいい。そこを履き違えると後に残るは災いだけ。アイしてるといいながら、感じながらもそれを正確に伝える術を彼らは持たない。


「ねぇ、ユウトくん。」

「あ、今お父さん、僕のことユウトくんって言った!僕もいいでしょう?お父さん!」


さんざめくカラスの子らみたいな、それでいて、蛇神のような。わからない、わからない。


「アイしてますよ、ユウトくん。」

「僕もお父さん、アイしてる…。」


傷でろくに動かない腕を伸ばして、息子は笑っていた。



──また、派手にやった、わね。


咳混じりにそんな声が直之を責めた。神の母胎として利用した彼女は14年という歳月を経てもなお、処女のように純真なまま。だけれど、生を確実に燃やし尽くそうとしている。


「だから、裕子さん。ユウトくんは私が利用するために作った私の神サマなのですよ。」

「……わかってる。」

「それよりも体調はどうですか?」

「同じ質問ばかり…いいわけ、ないでしょう?」


彼女が起きている姿をここのところ見ていない。ただ、人形のように寝台に寝そべり、確実に死へと向かっていく。嗅ぎ慣れた死の匂い。病に侵された人間特有の疲労に満ちた表情。


真っ白な髪を彼が指先で撫でると少しくすぐったそうに、彼女は力なく笑った。


「ねぇ、直之さん。」

「なんですか?」

「いま、どんな、気持ち?」


「息子を神にしたのに、結局、あなたはだれも救えない……。」

「あの方はまだ不完全な神で、それに、寿命ばかりはどうしようもない。」

「やっぱり、何回考えても、人間が神を作るだなんて、おかしいわ……。」

「では、人間以外のものがどうやって神を作ると言うのですか?」


彼女の瞳は赤いルビーの瞳。二人の薬指の指輪の宝石と同じ色。静かに首を振り、綺麗な顔で彼女は微笑む。


「裕子さんは、難しい方ですね。」

「そうかしら。生まれてからずーっと。一生をベッドの中で過ごしてきた、つまらない人間よ。」


その腕はまた細くなったようだった。


「私が死んだら…。」

「縁起でもないことを……。」


そういいながらも、人生を燃やし尽くそうとしている声を止めることはだれにもできない。


「私が死んだら、私の死体を、食べて欲しいな。そうしたら、ずっと一緒……。」

「怖いことを言わないでください。」

「ふふ、冗談、よ。」


微笑む唇のまま、腕に彼女は口付け、呪いをかけた。



次の日の明け方には、妻は死んでいた。悲しみに暮れることもせず、死体を解体していく。呪いにかけられたとおりに。


─ 最後に 私を食べてくれないかな。


わずかな温もりは幻影のように消え去り、肌はゴムのようで。それでも、その肉の全てを解体していく。


─ 私が腐る前に。


冷静に。


─ 私を食べて。


ただひたすら、冷徹に。肉切り包丁で手際よく開胸してゆけば、先ほどまで拍動していたはずの心臓があったので、それを切り取ってまず口に運んだ。


─ きっと、美味しいから。


心の底からアイした妻の心臓は涙が出るほど美味しかった。


─ 健やかなるときも病めるときも、死が二人を引き裂いても、貴方を愛しています。



部屋で血抜きをしながら、天井を見つめていた。おそらく、10時間ぐらいそのままでいた。切り取った妻の腕をかじっているうちに。妻の頭部はところどころ腐った匂いがし始めた。


「こんなに食べきれませんってば……。」


誰のもとにも届かない独り言を呟く。この日のことはよく覚えている。


突然、電話が鳴った。いや、本当はもっと前から鳴っていたのだろうけれど。そういえば、息子はユウトはどこに行ったのだろうか。数回、ユウトの名を掠れた声呼んでから、無造作に受話器を取れば、血がべったりと付いた。私の兄の声だった。


『なぁ……、直之…、お前、裕子さんをバラしたって、マジなのか?』


『ユウトくんが、怯えて俺の家にきたんだけど、直之、お前、遂に…。』


『おい、直之、聞いてるのか?おい、なあ、お前。』


「兄さんがユウトくんを、攫ったの…?」


自らの正気が消え失せているのを思いながら、声を発した。もはや体のコントロールは効かなかった。ただ、あの子を取り返さなきゃなとぼんやり思った。冷蔵庫の中の物を一度、全部放り捨てて、その中に腐り始めた妻の死体を保存した。


「待っていてくださいね、すこしだけ、すぐに帰りますからね。えぇ、安心してくださいね。」


生きていた頃と同じように彼女にキスするも、帰ってきたのはひどく冷たい感触だった。


こんなに不幸な日だというのに雨上がりの夕焼け空だった。足早に足早に、息子を迎えに行こうとした。ただそれだけのアイを推進力にして、駅まで歩いて。切符を買って、改札を出て、階段を降りているうちに視界が狂い始めた。意味もなくぼやける視界。意味もわからず嗚咽を漏らし、泣き出したい衝動に駆られた。


そのとき、足を踏み外して、階段から落ちた。左足が曲がってはいけない方向に曲がっていたけれど、そんなことはお構いなしに立ち上がる。


立ち上がって、ホームを歩き始めたがそこで遂に限界がきたのだ。思ったより早く、思っていたよりも精神は磨耗していたらしい。考えてしまった。


迎えに行って、それから?


息子を取り戻して、また神にして、それでも妻は戻ってこない。もう、元に戻れはしない。


これが絶望なのだとようやく理解した。


歩く足元が揺れている。普段なら耐えられたはずの濡れたホーム。足を滑らせて、転倒し、線路の上に落ちた。体の末端が痺れて感覚が失われていく。そのときはわからなかったが、きっと脳震盪を起こしていたのだと。


踏切の音が聞こえる。電車が来るのだろう。死ぬことは怖くなかった。ただ、もう迎えに行けないのだ、という悔恨のみが支配していた。


力を振り絞って、麻痺しているろくに動かない右手を血のように赤い夕焼け空にむかって伸ばした。


「きれいな、あかいろ……。」


ここにいる“彼”は思い出すのを無意識に避けていた。自分の最期の何もかもを思い出した。

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