Blue Blood Heat 37℃
深川夏眠
Blue Blood Heat 37℃
1.〈egy〉
武藤アンドラーシュ礼司は毎朝やんわりと執事に起床を促される。執事はアンドラーシュの頭上でボヘミアングラスのベルを震わせ、軽やかにリリリリーンと鳴らすのだ。瞼の下の情景が、ぐんにゃりと歪み、夏の縁側で風鈴に耳を傾けていたり、秋の夜長に虫の声を愛でていたり、あるいは連休明けのオフィスで電話の応対に追われていたり……と変化して、
「おはようございます。お時間です」
「……ああ、おはよう」
身支度を終えると朝食の用意が整っている。コーヒーが欲しい気分だったが、いつもと同じように紅茶を出された。しかし、アンドラーシュは異議申し立てをせず、黙って——砂糖は抜きで——ミルクだけ落としてスプーンで混ぜた。渦巻は一瞬で消えるが、脳裏に長く眩暈の尾を引くのだった。
コーヒーは会社で飲めばいい、もちろんブラックで……と胸の内で呟きながら新聞に目を向けた。十三日の金曜日。
夜の住宅街に悲鳴——
帰宅途中の女性、切りつけられる
「またか。物騒だねぇ」
「はい。危険なのは、ご婦人に限りません。お気をつけください」
「チェッ。何だかなぁ」
執事の話によればアンドラーシュこそ夜陰に乗じて美女を襲い、白い喉を牙で抉る吸血鬼……であるはずなのだが、常人並みの八重歯しか持ち合わせていないし、会社員という立場上、凶器を携帯するのも憚られた。生まれて四半世紀、掴み合いのケンカすら未経験。欲望の赴くまま凶行に及ぶ犯人は野卑で下劣としか思えなかったが、同時に、そんな風に獣性を剥き出しにできる愚か者が少しばかり羨ましいのも事実だった。
「いってらっしゃいませ」
「うん……」
執事はいてもメイドはいないし——昔はいたらしいのだが——運転手も雇っていない。混んだ電車に揺られて勤務先へ向かいながら、何かがズレている……ずっと前から……と、ぼんやり思う。無駄に華美で荘重な室内装飾は、世間との乖離に気づいてからは鬱陶しいだけだったし、恥ずかしくて友達も招けなかった。若くして亡くなったという母の肖像画を眺めても懐かしさは湧いてこない。どこかの知らない女性の絵にしか見えないのだ。何代か前の当主が、中欧の吸血鬼の一族に属すと言われる美姫を娶って以来、子供らには内輪で通ずる中間名を授けるのが慣習になったと聞いたけれども、戸籍上は普通の日本人の名前でしかない。門の外へ一歩踏み出した瞬間、ミドルネームは剥がれ落ち、ただの武藤礼司になってしまうのだ。
カラカラと朗らかに笑いながら男子高校生の二人連れが乗り込んできた。キミたち完全に遅刻ではないか……と一瞥して、後輩だと気づいた。夏服なので、これといった特徴はないが、学校指定の鞄でわかった。
こうして電車やバスで通うのが普通だが、あの男子校には寮もあった。地方から上京する生徒用の施設というのは立前で、通学圏内にいながら特別な都合で入寮する者がほとんどだった。著名人の子弟のセキュリティ問題、等々——。平日は部屋と校舎を行き来するだけの生活になり、外敵を寄せ付ける心配がなくなるからだ。礼司も中等部進学から高等部卒業までの六年間、祝休日と長期休暇以外は学校の敷地内でおとなしく過ごした。不自由さ、窮屈さより、自分は選ばれた人間だという意識が芽生え、それが皮膚の下で、こそばゆく、むず痒く自尊心を擽るのが心地よかった。どことなく取り澄ました、あの独特の冷ややかな空気……。
礼司がそこから巣立つ準備を始める頃、やはり特殊な
そういえば、我が家はどうなっていたのだろう——と、不意に疑問が頭を
「何やってるんですか!」
馴染みのある独特のかわいらしい声がツンと響いて我に返った。ざわめく車内。痴漢を取り押さえたのは同僚の笠原亜美子だった。彼女は意味の通らない言い訳をする男の手首を掴んで捩じり上げた。気の毒に、彼はヒッと小さな悲鳴を漏らしたきり、硬直してしまった。礼司は少しだけ人を掻き分けて接近を試みた。被害者の少女が恐縮している。電車がホームに着いた。亜美子はその細さに似合わぬ剛腕で痴漢を引き摺りながら、降りますよと少女に声を掛け、茶目っ気たっぷりのウインクを寄越してドアの外へ消えた。車内には、おお、という小さな嘆声と疎らな拍手が残った。
遅刻した笠原亜美子をオフィスの面々は喝采で迎えた。彼女は照れ笑いを浮かべ、すみませんと繰り返しながら前下がりのショートボブを揺らし、上司に向かって、
「遅くなりまして申し訳ございません」
「いや、お手柄だったね。ご苦労さん。いっそ丸々休んじゃってもよかったのに」
「そうは参りません。十二時までは何なりとお申し付けください」
言葉は硬すぎるくらいだが、いつもどおり声色に軽くおどけた調子があって、周囲を和ませる。彼女は午後の半休を申請していて、今日は昼で退社する予定だった。
「取りあえず、お茶淹れまーす」
ツーステップで給湯室へ。同僚の女性らがアミちゃんカワイイと囁き合って笑った。
亜美子が煎茶を配る間に、他のスタッフがコーヒーを淹れ、当たり前のように礼司の机にプラスティックのカップを置いた。ご丁寧にスティックシュガーとポーションミルク付き。寝起きからずっと飲みたかったにもかかわらず、今は亜美子のお茶が欲しいと思っている。ここに読心術の体得者などいるはずもないが、内心を気取られないよう、ミルクだけ垂らして混ぜた。またしても歪んだ渦巻……。
亜美子はコマネズミのようにクルクル働き、時折目が合えばニッと笑う。線は細いが本人曰く骨太で、父親の指導で何たらいう武術を心得ているそうで、普段は
ぼんやりしていたら急に呼びかけられて慌てた。返事しながら焦って立ち上がり、移動しようと足を踏み出した途端、何かに
「誰よ、こんなところにワケわからない荷物を置いたの!」
(——すみません、僕です。自己責任です)
「ちょっとぉ、出血してない?」
「下手に動かさない方がいいよ。救急車呼んで!」
(そんな大袈裟な。掠り傷ですから、お構いなく……)
「あの、ひとまず、これ——」
亜美子だ。止血のつもりか、傷口にタオルを当ててくれている。
程なくバタバタと足音が聞こえ、上司と救急隊員の短い対話の後、ストレッチャーに載せられた。礼司は想定外の
2.〈kettő〉
「ご迷惑をお掛けしまして……」
起き上がろうとした礼司を亜美子は手で制し、
「不慮の事故です。もしかしたらお互い様です。いつか私がお世話になるかもしれません」
やはり物言いはコチコチだが、表情と声の調子は明るくユーモアに満ちていた。アクシデントを楽しんでいるとでもいうのか。
「何故私がここにいるとお思いです。一番暇だからです。ご心配には及ばないのです。何てったって金曜日に後半休を取得して温泉旅館に二泊しようって魂胆です。イヒヒヒヒ」
「約束の時間とか……」
「リミットが来たら加速してバックレます。まだ大丈夫です。そんなことより……」
彼女はフッと眉を曇らせ、
「一泊入院につき、武藤さんのお
「えっ、電話に出ないって……そりゃあ、変だなぁ……?」
肝心なときに執事は何をやっているんだと怒りが芽吹いたが、普通でない家庭の事情を亜美子に知られたくなかったのでグッと堪えて平静を装った。
「ほら、痛みますでしょう。眠った方がよろしいです。私、買い物して参ります。それから、もう一度お電話してみます」
「重ね重ね、すいません……」
彼女は敬礼のポーズを取りながら、また下手くそなウインクを寄越して病室を出ていった。隣のベッドの男が忌々しげに小さく舌打ちし、すぐ誤魔化そうと目を逸らして雑誌を捲った。
うつらうつらしていると亜美子が戻ってきた。サンドウィッチや飲み物は奢りだが、下着、歯ブラシその他については後日清算してくれとレシートを渡された。嫁入り前のお嬢さんにトランクスまで買わせるなんてひどいヤツだと自責の念に駆られたが、それというのも執事と連絡がつかないせいだ。けしからん。
「お宅の留守電にメッセージを入れておきましたけど、万全を期して、何かあったときは病院から
「申し訳ない」
「では、残念ながら時間なのです」
「本当にありがとう。気をつけてね」
気をつけて——には、女性を狙う不審者の件が含まれていた。もっとも、彼女は明るいうちに温泉場へ移動してしまうのだが。
「今夜は満月だから月見露天風呂を堪能したいのです。ウフフフフ」
「それは
「ご馳走アホほどただいてきます。お土産も買ってきます。お茶菓子。月曜日に会社でお会いしましょう」
亜美子はツーステップで去っていった。礼司は口の中で小さく
傷は浅いが微熱があり、所見は栄養失調気味、眩暈を繰り返すという自己申告も手伝って、一晩入院を余儀なくされた。明朝、診察を受けて問題がなければ帰宅できるが、眩暈については後日精密検査を——と決まった。
亜美子がアイマスクや耳栓まで用意してくれたお陰で、短時間だが熟睡できた気がする。礼司はむっくりと起き上がり、珍しくスッキリ冴えた頭で考えた。自分自身と家族の過去、諸々の事柄について。思い出そうとしてもほとんど記憶を辿れないのは何故か。何が追想を阻害するのか。暗示でも掛けられているのか、潜行しようとする
はっきりしているのは、定期的に採血と輸血を施されていたことだ。吸血鬼でありながら人を襲うのもままならない暮らしを送っているため——当然の話ではあるが——体調のいいときに血液を採って保存し、必要に応じて体内に戻す
テレビでは、また通り魔のニュース。亜美子は無事に露天風呂を満喫しているといいのだが——。
3.〈három〉
浅く眠っては目覚め、消灯の時刻を過ぎ、天井を見つめたら、それはぐんにゃりと歪み、渦を巻いて闇に溶けた。耳栓を外すと、同室の患者らの寝息、鼾が不協和音を奏でていた。礼司は溜め息をつき、スリッパに足を突っ込んで部屋を出た。熱っぽく、顔が火照っている。
トイレから病室へ戻ろうと歩を進めた瞬間、仄暗い廊下の向こうで妙な物音がした。微かだが金属的な……。
(無視しろ、構うな)
(行ってみろ、ひょっとして餌にありつけるかもしれん)
二つの命令が交錯した。だが、餌とは——。自分の心の声を不審に思いながら、後者に従った。否応なく磁力に引かれる気がした。巨大な満月が嘲笑うように窓からこちらを覗き込む……。例えば表現主義映画なら、そんな演出になるだろうか。
角を曲がると、人が俯せに倒れて血溜まりができていた。恐らく中太りの女性。さっきの小さな音は多分、指環か何かが床に当たって発したに違いないが、薄暗いので近寄ってもはっきり確認することはできなかった。
この血を啜れば微熱が下がり、眩暈も治まるかもしれない。本性に立ち返れば。礼司は屋敷に置いてきたミドルネームのラベルを己に貼り付けるべく、遠くから手繰り寄せるように腕を伸ばしたが、実際は壁の手摺りに縋って震えを堪えるばかり。赤黒く粘つく液体に魅惑されるどころか、立ち昇る臭気に嘔吐を催すほどだった。
階段を上る足音。踊り場に留まっていた犯人が戻ってくるのか。恐怖のあまり、包帯に覆われた顳顬の辺りで血管が大きく脈打ち、激痛をもたらした。眩暈。塞がれたはずの傷が開いて血が滴った——というのは錯覚で、冷や汗が頬を伝っただけだった。脳裏を駆け巡るセピア色の光景。絵本の中に大きく描かれたツートンカラーのロリポップ(しかし赤い縞だけ着色されて際立っている)、バスタブの栓を抜いて残り湯が排水溝に吸い込まれる瞬間、初めて瀉血された午後(血だけがキッパリ赤い)、
リリリリーンと、軽やかなベルの
靴音、ベル、靴音……。忘れていた父の顔を思い出した礼司は
【vég】
◆ 初出:note(2015年)退会済
*縦書き版はRomancerにて無料でお読みいただけます。
https://romancer.voyager.co.jp/?p=116436&post_type=rmcposts
Blue Blood Heat 37℃ 深川夏眠 @fukagawanatsumi
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