第7話 夏の魔法
「……あちぃ」
「文句言わない! 夏なんだから暑いのは当たり前なのよ?」
「そうだけどさ、この時間帯は一番暑いじゃん。わざわざこんな昼過ぎに出なくても、午前中に行けばよかったんじゃね?」
「それをあんたが言うわけ? 情がいくら起こしても起きないからこんな時間になっちゃったんでしょうがっ! そもそも一度起きて顔洗ったのに二度寝ってどうなのよ!」
「だって眠かったし」
騒がしい沙夜を自転車の後ろに乗せて、俺は照り付ける太陽の元をとろとろ進む。
一歩一歩と踏み込むたびに、油をさしていない自転車のチェーンがぎりぎりと音を立てる。
俺たちは家を出て山を下りると、少しだけ人気のある住宅街へと出た。今は住宅街も離れて、両脇を田んぼに囲まれた農道の歩道を走っている。
「どうしてそんなに眠かったのよ? やっぱり床で寝るのは辛いんじゃないの?」
「いや、別に床で寝るのはいいんだけどさ。まぁ、男の子の頭の中は夜になると忙しいんだよ」
「なによそれ?」
だってあんなの見た後だし……。そうでなくてもテロリストに攻め込まれたときの対処法とか、魔法が習得できるなら何属性がいいとか、いろいろ考えなくちゃいけないことはたくさんあるんだ。
「いろいろだよ、いろいろ」
「だからなんなのよ? ……あっ! 私分かっちゃった。エッチなことでしょ! 私のことでエッチなこと考えてたんでしょ!?」
「ちち違いますぅぅ! 沙夜の貧相な体のことなんて考えてませんんっ!」
「ちょっと、貧相って失礼ねっ! それに昨日ことは忘れなさいって言ったわよね!? 忘れなさいぃ! 今すぐ忘れなさぃい!!」
「ぐぇぇええ! おいこら、首絞めるなってっ! 落ちる、意識と自転車からとの二重の意味で落ちるぅぅうううう!!」
俺は後ろから両手で首をつかまれ、前後に激しく揺らされる。
視界ががたがたと揺れて、それにセッションするかのように自転車もぎこぎこ鳴りだす。お前はいいんだよ、少し黙ってなさい。
「ていうかお前、自転車に乗せてもらってる分際で暴れるんじゃありませんよ! 少しは大人しく、お淑やかにしてられないの!?」
「私がお淑やかになったら完璧になっちゃうじゃない? だからこれくらいがちょうどいいのよ」
「え、なにその根拠のない自信」
「根拠ならあるでしょうが! ほらっ、目の前に!!」
「バカバカ! 顔の向きを強引に変えようとするな! 折れる! 首の骨折れちゃう!」
周りから見れば一人で首を前後に揺らしたり、奇声を上げながら後ろを向こうと首をひねっている俺は、きっと頭のおかしな奴なのだろうと思うが、幸いにも周囲に人は見当たらない。
夏休みとはいえ、今日は平日。大人は仕事に勤しんでいるのだろうし、子供は外にいてもおかしくはないが、こんな時間に外を出歩く元気のいい子供は少なく、そんな元気のある小さい子らは住宅街から離れたこんな農道に来ることはめったにない。
いるのは30キロの低速で道路を走る軽トラックと、それにすら追い抜かれる農耕車くらいのものだ。
「ちょ、ちょっと情! あれ、あれなによ? なんか変なのが道路走ってるんだけど! 車……?」
沙夜はそんな農耕車を指さして驚いたような声を上げる。
それは軽自動車よりも少しだけ車高の低い、ボブスレーのソリのような形をした真っ赤な農耕車だ。
後ろから見るとファンのようなものが見えるので、あそこから火でも吹いて加速できそうな気もするが、下手したら自転車の方が早いくらいで、決してそんなことはない。
「あれは農耕車。あのタイプは消毒液を撒く奴だな。名前は……、スピードスプレーヤー、だったかな?」
「え、あんなのが道路走ってもいいの?」
「一応車だし、走っても問題ないだろ」
「へぇ~」
「なんだよ、あんなのこの辺じゃ珍しくもないだろ? 見たことないってわけじゃあるまいに」
沙夜は思い出すように左上を見やると、首をかしげる。
「見たことは、あるようなないような……? 私ってこんな体になるほんの少し前にこっちに来たばかりだし、ほとんど神社に引きこもりがちだったから、この辺にそこまで詳しくないのよ」
「え、じゃあこっちに来る前はどこにいたんだよ?」
そう尋ねると、沙夜は今度は右上を見てから、
「うーん、高天原?」
「天女には程遠いな」
「おいこらぁ! どういうことよ!」
「いででっ! おいこら髪はやめろ! 禿る! まだ若いのに禿ちゃう! ザビエルになっちゃうぅう!」
「神だけにって?」
「やかましいわっ!」
「あ、でも禿たら情も私のこと気軽におばさんなんて言えなくなるんじゃない?」
「ちょっとやめてくださる? それ笑えませんわよ? ちょっとぉ? その頭に置いた手をどけてくださるぅうう!?」
ザビエルヘアはもう流行らないんだよ! 俺は現代を生きる少年なの! 戦国時代の宣教師スタイルは嫌なの!
でもあれなんで頭頂部だけ禿てるんだろう。河童なのかな? 河童リスペクトなのかな?
俺は沙夜による攻撃から毛髪を守りつつ、自転車をこいだ。
右に左に揺れる自転車は、俺が一人で乗っている時よりもずっと慣性が乗り、扱いづらい。
「なぁ、お前透明人間なんだろ? 俺のイマジナリーフレンドなんだろ? どうして体重だけはしっかりあるんだよ。重いんですけど」
「ちょっとぉ! 女の子に重いとか失礼じゃない!? 第一私は重くないから。モデル体型で羨ましいって言われてたんだからね!」
「ふーん。なに、50キロくらい?」
「そ、そんなにないから! まだ50キロにはなってないから!」
「てことは大体48とかそのくらいか」
「そ、そんなにないわよ! もう2、3キロは――、ってなに体重特定しようとしてんのよ!?」
「別にしようとしてないんだよなぁ。盛大に自爆してるだけなんだよなぁ」
そんなくだらない会話を笑うように、自転車が一層大きな音で軋んだ。
――――
「うーん、足の裏ムズムズする」
プールに到着して着替え終わり、未だ外に出てこない沙夜を待っているのだが、随分と退屈な時間だ。
家から最も近いこの市民プールは、市営ということもあり安いには安いのだが、いかんせんボロい。
まずタイルは年中雨や日差しにさらされ、一体何十年前のものですかといったような年季の入ったもので、その間からは雑草がいっそ誇らしげに背を伸ばしている。
そしてその草が俺の足裏をくすぐるものだから、むず痒くてしょうがない。
施設も手前から子供用のプールと日陰の休憩スペース。大人用の50mプールとその程度だ。
ウォータースライダーや波のプールや流れるプールなんてものは存在しない。いるのも近所の子供やその親くらいのもので、特に賑わっているわけでもない。
「あ、カエルだ。おぉぅ、保護色で真っ白になってるなぁ」
そんなことだから待ち時間もすることもなく、こうして足元にやってきたカエルと戯れたりするわけだ。
うむ、こうして手に乗せてみるとぷよぷよしててかわいいなぁ。アマガエルなのに全長4cmくらいあるけど。実は皮膚に微弱な毒持ってたりするけど。
「お待たせ! って、何してるのよ、情?」
俺がカエルを野に放ってから手を洗っていると、後ろから声がかけられた。
どうやらようやく沙夜のご登場らしい。まったくどれだけ時間かけるんだよ……。
「ほんとにお待たせだよ。着替えるったってイメージするだけなんだから、そんなに時間かかる――」
手を洗い終えて振り向いて、俺はその光景に言葉を失った。
「なによ、だからお待たせって言ったじゃない。イメージするにもどれにしようか色々迷ってたのよ。それに情にも少しはドキドキする時間を与えないとね?」
小悪魔的に笑うその少女は、自分でいうだけはあって美しかった。
この市民プールに似つかわしくないビキニの水着は、沙夜のほっそりとした体を彩り、一種の芸術品のような雰囲気すら漂わせている。
プールに来たためか、長い髪を後ろで一つに束ねているのも、美しいと感じることに一役買っているのかもしれない。
「ちょっと情! なにボケ~っとしてんのよ? おーい!」
「……はっ! お、おう、どうした?」
「どうした、じゃないわよ。急に黙ってあんたの方こそどうしたのよ? あ~、もしかして私のあまりの美しさに言葉もなかった感じ?」
「うん、正直びっくりした。よく似合ってるよ」
俺が正直な感想を述べると、沙夜は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、一歩後退る。
「な、なによ。急に素直じゃない? この短時間で変なものでも食べたの?」
沙夜はせわしなく視線を動かすと、みるみる顔を赤くしていく。
終いには暑そうに片手で顔を仰ぎながら、腰に反対の手を当てて、
「ま、まぁ? 私はスタイルも抜群の完璧美少女だから? 見とれちゃうのも仕方ないっていうか、それ以外に方法がないっていうか、そんな感じだから? その反応は当然というかなんというか……」
と、なんだか偉そうな感じである。
ていうかさっきから沙夜のやつ、チラッチラこっち見てくるくせに、目が合うとすぐそらすんだよなぁ。なんか落ち着きもないし、顔も赤いし、もしかしてこいつ……。
「なにお前、照れてんの?」
「べべ別に!? 照れてなんてないんですけどぉ!? 水着を人に見せるのなんて普通だし、似合ってるって言われるのも当たり前だし! て、照れる要素なんてないのですけどぉ!?」
「人にあまり水着を見せたことがなくて、似合ってるなんて言われたこともなくて、いざ言われるとさすがに照れると。説明ご苦労さん」
「勝手に人の言葉を翻訳するなぁ!」
図星だったらしく、より一層真っ赤になった顔であれやこれやと言い訳をする沙夜は、とても楽しそうに見えた。
「さ、いつまでもここで喋ってると俺が変な目で見られるからな。行くぞ」
「言われ慣れてないわけじゃなくて、ここ10年は言われてないって意味であって――、って一人でどこ行くのよ!? 置いてくなぁ!」
そんな沙夜に背を向けて、俺は大人向けプールに歩き出す。
もう限界だった。これ以上沙夜を見つめていることなんでできっこない。
思わず本音が出ちゃったけど、冷静になって考えてみれば結構恥ずかしい……。
「……くそっ、照れた顔もかわいいんだよなぁ」
「え? なにか言った?」
「言ってねぇよ」
俺は熱を帯びた顔を隠すようにそっぽを向いて、沙夜の前を歩く。
だって絶対赤くなってるし。こんな顔、見せられねぇよ……。
あー! くそっ! 今日も暑いなぁ!
――――
「あー、楽しかった! まさかこの体になって水着でプールに入れるなんてね」
「でも結局水には触れられなかっただろ? あれで入ったことになるのか?」
「いいのよ、そんなの気分の問題なんだから! 私は情と一緒にプールで過ごせて楽しかった、それでいいじゃない!」
「お、おう、沙夜が楽しめたならそれでいいけどさ……」
日が西に傾きかけてきた夕方。俺は沙夜を自転車の後ろに乗せて昼間来た道をえっちらおっちら戻っていた。
時間帯が違うだけで、木々が伸ばす影、道路を走る車、体に当たる太陽の熱が来たときとは違う景色を見せる。
頭頂部を焦がさんばかりに照りつけていた太陽は、今は俺の顔を右側から温めている。まったく、熱いくらいだ。
「……ねぇ、情。今日はありがとうね」
「なんだよ急に改まって。変なものでも食べたか?」
「いや私何も食べられないから! ってそうじゃなくて、単純にお礼が言いたくなったのよ」
俺の両肩に置かれた沙夜の手に、少しだけ力が入る。
「私、10年も神社にこもりっきりで、誰とも話せなくて、触れられなくて。こうして誰かと一緒にプールに行くなんてこと、もうできないんだって思ってた。でも情が私を見つけてくれて、言葉を交わして、外へ連れ出してくれた」
沙夜の独白に、俺はただ黙っていることしかできなかった。ギコギコとうるさかった自転車も、今だけは空気を読んで少し静かにしているように感じる。
チラリと見やった自転車の影は、実物よりうんと長く伸びていたけど、そこには自転車をこぐ俺の影しか映っていなかった。
俺の両肩に手を置き、静かに語る沙夜の体は、この世界に影を落とすことも許されていないのだ。
俺は確かにその重みを、その熱を、その存在を感じるというのに。
「私ね、本当は少し怖かったのよ。あの神社から外に出て、誰も私を見てくれない、感じてくれない。そんな思いをまたするんじゃないかって」
また、か。
きっと沙夜は以前にもそんな思いをしたのだろう。あの神社からほとんど外に出なかった理由も、家族のもとに帰らない理由も、きっとそこにあるんだと思う。
人がいるところに行けば、自分が誰からも認識されない透明人間だと、そう思い知らされてしまうから。それはきっと、俺が想像もできないほどに辛いことなんだと思う。
「でも全然平気だったわ! 情がいてくれて、私を見て、私の話を聞いて、私に触れてくれる。それだけで怖いことなんて一つもなかった!」
「そうか……」
「ええ。だからね、本当にありがとう。私とっても感謝してるわ」
コツンと背中に何かが当たる感触がする。
沙夜が言葉を発する度に、背中から振動が伝わってくる。沙夜の思いが、熱となって伝わってくる。
「……そうか」
「ええ、そうよ」
遠くの山でヒグラシが鳴いている。どこかの家の風鈴が、風に揺られて切ない音色を響かせる。
太陽がすべてを
道も、木々も、家も、自転車も。そして俺の顔や、きっと沙夜の顔も。
胸を締め付けるような切なさも。胸を焦がすようなこの熱も。きっと夏のせいなんだ。きっと、この太陽のせいなんだと、そんなことを思った。
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