第6話 初めてのお着替え

「お、終わったぁ~……」

「はい、お疲れさま。最初あれだけ嫌がってたにしては頑張ったじゃない」


 そりゃあんたが有無を言わせなかったからでしょうよ……。


 朝日が昇ってしばらくしたころにやり始めた宿題は、月が昇ってしばらくの後に終わった。

 もうとっくに夕食に時間だ。でもそれよりも何よりも、もう寝たい……。


「そもそも夏休みはいつまでなの? 今週はお盆だから、もう来週とかその辺なんじゃないの?」

「えっと……、そうだな。来週の22日に終わる」

「一週間前でほぼ手付かずって、あんた本当にどうするつもりだったのよ……」

「宿題っていうのは夏休み終了前の3日間でやるもんなんだよ。それまではひたすらだらだらするのは常識だろ」

「だからそんな常識はないっての」


 まぁ、3日前から慌ててやると、大体いくつかの教科は間に合わなくなるんだけどね。その場合は教科を絞って、始業式の日に出さなきゃいけない宿題だけを片付けるようにするのだ。

 それが沙夜の鬼のような指導によって、一日で終わってしまった。終わってみればありがたいとも思えるが、まさに地獄だったな……。もうやだ……。



「まぁこれで明日は心置きなくプールに行けるわね!」

「え、明日行くの?」

「なによ。どうせ行くなら早い方がいいじゃない」

「いや、心の準備が……」


 俺がげんなりしながらそうこぼすと、沙夜はニマニマとした笑みを顔に張り付けて俺の顔を覗き込む。


「あら~、なになに? もしかして情ったら私の水着を見られると思ってもう興奮しているのかしらぁ? さすがは童貞。まるで獣ねっ」

「いや、家から出るのが億劫で」

「少しは私の水着を期待しなさいっ!」


 沙夜は途端に怒りだして俺の頭をポコスカ叩き出す。

 沙夜さん、俺の頭はモグラたたきの練習台じゃないんですよ。キュウキュウ。



「ていうかさ、さっきから水着水着って言ってるけど、沙夜は着替えなんてできないだろ? そのワンピースが一張羅いっちょうらなんだろ?」

「そんなことありません! 私は女の子! しかも今を時めく女子高校生よ!? 一張羅なんてありえないじゃない!」

「え、着替えられんの? どうやって?」


 俺が驚き尋ねると、沙夜は先ほどまでの勢いはどこへやら、気まずそうに目を逸らした。


「ほ、方法は分からないけど、何とかなる、はずよ。なんか不思議なパワーでメタモルフォーゼよ」

「メタモルフォーゼて。魔法少女じゃないんだから無理言わないの。いい年こいて恥ずかしい」

「おばさんってこと!? 今おばさんだっていうことを言いたかったわけぇ!?」

「いえ決してそんなことは全然まったくこれっぽっちも」

「棒読みするな! せめて感情込めて言い訳しなさいよ!」

「27歳はもう少女じゃねぇってッ! もうぜっっっったい無理ッ!!」

「感情込めてるけど言い訳になってなーい!!」


 そして俺は再びモグラたたきの練習台となってしまった。キュウキュウキュウ。



 沙夜はそうして俺をひとしきり叩いた後、とぼとぼとベッドまで歩いていき、どさりと座り込んだ。


「はぁ……。情がプールに連れてってくれるっていうから私頑張って宿題見てあげたのに……。それなのに情は私の水着も楽しみじゃないっていうし、プールには行きたくないっていうし、私のことおばさんだっていうし……。ぐすん」


 そして沙夜は両手で顔を覆い、細やかに肩を震わせながら、湿った声を漏らす。


「お、おい、何も泣くことないだろ? プールごときでそんな……」

「情にとってはその程度でも、私からしたら誰かと一緒にプールに行くのはすごく久しぶりのことなのよ? でも仕方ないわよね。情が行きたくないっていうなら無理には誘えないし、諦めることにするわ……」


 今まで見たことないほどに落ち込む沙夜に、さすがに申し訳ないことをしたなと反省した。

 プールに一緒に行ってやってもいいと言ったのは俺だし、宿題を見てもらって助かったのは事実だ。それにおばさんおばさんって、少し揶揄からかいが過ぎたかもしれない。

 このまま沙夜を泣かせたままっていうのは男が廃るってもんだよな。それに一度交わした約束を違えるっていうのも、人としてどうかと思うし。


 俺はそっと沙夜の前まで歩み寄り、しゃがんで目線を合わせる。


「ごめん、沙夜がそんなに楽しみにしてたなんて思わなくて。明日プールに行こう。水着への着替えも何かいい方法がないか考えてみよう」


 沙夜は指の隙間から、潤んだ瞳で俺を見つめる。


「……ホント? 情は私の水着姿、楽しみ?」

「ああ、とっても楽しみだ」

「おばさんの水着なんて見たくないとか言わない?」

「言わない。おばさんなんて言って揶揄って悪かったよ。沙夜はピチピチの17歳だ」

「……うん」


 そう言ってうつむいて、沙夜は肩を震わせる。

 まったく、泣くほど嬉しいのかよ。まぁ、友達とプールに行くってだけでも10年以上できなかったことだもんな。俺が想像する以上に、沙夜にとっては特別なことなのかもしれない。



「……ぷふっ、……ぷひゅ、…………ぶしゅしゅっ」


 そんなことを思いながら沙夜を見つめていると、何やら変な音が沙夜の口から漏れ出てきた。


「お、おい、どうした?」

「うふっ、ぷふふっ……。あは、あははっ! もう無理! もう限界っ!」


 突然沙夜はそう言って立ち上がると、大声で笑い始めた。

 何が何だか分からず呆然とする俺を置き去りにして、沙夜は腹を抱えてうずくまり、床をバンバン叩きながら身をよじっている。

 そしてようやく収まってきた頃合いでふらふらと立ち上がると、未だ笑いの余韻を引きずったまま、目に溜めた涙を拭った。


「ひっー! あーもう笑いすぎたぁ! あーおかしい! 言質取ったわよ情。明日はプールで決定!」

「え、え? どゆこと? 言質って……?」

「何よ、まだ分かってないの? ウソ泣きよウソ泣き! まんまと引っかかってちょろいのなんのって。男ってこれだからバカなのよねぇ」

「ウソ泣き……? え、あれウソ泣きだったの!? うますぎじゃない!?」

「驚くとこそこなの!?」


 いやー、絶対マジで泣いてるんだと思ってたよ。あの演技力なら女優狙えるんじゃないの?


 それにしてもだまされていたとは、不覚! でも涙を武器に使うのは卑怯だよなぁ。あんなことされたらこっちが謝るしかないじゃんかなぁ?



「はぁ……。まぁ騙されたとはいえ、一度言った言葉は引っ込められないな。でも、明日プール行くのはいいとして、本当に水着はどうするんだよ? なんか心当たりとかないのか?」

「あ、あれ、案外あっさりしてるのね。少しは怒るかと思ったわ」


「怒る気力もかねぇよ……。あ、そういうことか。今日一日で宿題終わらせたのは俺の気力をそぐ作戦……。戦いは朝起きた時から始まっていたということか……」

「いや、そこまでは考えてなかったわよ? んで、着替える方法だっけ? まぁ当てがないわけじゃないわ」


 沙夜はそう言って自信ありげに笑みを浮かべた。

 本当だろうか? なんか根拠のない自信に見えて仕方がないんだよなぁ。心配だなぁ……。


「私も試したことがあるわけじゃないけど、こういう場合大体方法は一つよ」

「ほう、その方法とは何ですかな、先生」




「ずばり、イメージよ!」




「イメージて。ファンタジーじゃないんだから無理でしょ。やっぱり魔法少女へのあこがれは捨てきれないか」

「そんなんじゃないから! ほらっ、漫画だと幽霊の女の子がイメージで着替えたりとかしてるじゃない!」

「漫画の読みすぎかな? 頭の中まで妄想でいっぱいのお花畑ガールかな?」

「いいじゃない、じゃあ今からやってやるわよ! パジャマに着替えてやるわよ! 括目してなさいよ!?」


 沙夜はそう高らかに宣言すると、きつく目を閉じてうなりだした。

 次第に唸る声は大きくなり、眉間にしわが寄っていく。見受けられる変化はその程度で、別段服が変わり始めている様子は見えない。



「ぷはっー! 無理! 全然変わんないじゃない!」

「まぁ普通に考えれば幽霊は着替える必要もないわけだし。当然っちゃ当然だな」

「あ、あれよ! 具体的なイメージの材料が足りないのよ! 何かファッション誌とかないの?」

「男の部屋にそんなものがあるわけないだろ」

「じゃあ何か服の絵が描いてあるやつとか写真とか、ないの?」

「写真かぁ。カメラで女の子を撮ること自体ないからなぁ……。あ、漫画とかいいんじゃないか?」


 そう言って俺は本棚から適当な漫画を引き抜く。

 パラパラめくって内容を確認すると、鈍感系主人公のハーレムもの。その温泉回のようだ。


 何かいい服はないかと物色していると、ヒロインたちが浴衣を着ている絵があった。

 まぁ浴衣もパジャマみたいなもんだろう。これでいっか。


「はい、じゃあ行くぞー」

「分かった。じゃあ私の顔の前にかざして」


 沙夜はそう言ってきつく目を閉じ、集中する。

 俺はそんな沙夜の顔の前に漫画を広げてかざすと、合図を送る。


 沙夜はむんむん唸って、これから目に飛び込んでくる衣装を着ている自分のイメージの準備をしているようだ。

 そんなことしなくてもパッと見てからイメージすればいいと思うのだが、なんか変なこだわりとかがあるに違いない。一瞬で変身できたらかっこいいとかそんなこだわりが。


 にしても手が疲れてきたな。早くしてくれないかなぁ。


「よし。行くわよ!」

「おうー」

「メタモルフォーゼ!」


 沙夜がそんな掛け声とともに目をあける寸前。俺は手の疲れか、あるいは宿題をやり続けた疲れからか、手が滑ってしまった。

 その結果、保持していたページとは違うページがめくれてしまい、見開かれた沙夜の瞳には浴衣とは違う何かが映りこんでしまった。




「……え?」




 ボフンッ!

 沙夜の小さなつぶやきの後、そんな音と共に白い煙幕が沙夜を包む。

 そして次に俺の瞳に沙夜が映ったとき、沙夜はもうワンピース姿ではなかった。




「…………え?」




 ワンピース姿でもなければ、浴衣姿でもない。

 それはなんかよく分からない白い煙で局部を隠した、一糸まとわぬ生まれたままの姿。沙夜の体そのままだった。


 俺は何が起こっているのか分からず、ただ茫然と沙夜を見つめていた。


 煙に隠れていても分かるまな板っぷり。出るところは出ていないけど、引っ込むところはちゃんと引っ込んでいる。いわゆるスレンダー体型と言うやつかな。

 でもウエストが細いから、思っていたほど小さくは見えないな。


 沙夜はみるみるうちに顔を赤くしていき。しまいにはゆで上がったタコのように真っ赤になった。

 同時に目に涙を浮かべ、羞恥しゅうちにわなわなと唇を震わせながら、口を開く。


「……い、い、い――」

「……い?」

「いやぁぁぁああああッ!! こっちみんなぁぁぁああああ!!」

「ぐぼへあ!」


 ――衝撃。

 頬に走る強かな衝撃が俺を襲う。


 俺は正面を向いていることもできず、衝撃のなすままに右に首をひねる。そのまま体も持っていかれ、耐えきれずに膝をつく。


「な、なにする――」

「だからこっち見ないでってばッ!」

「ぶふぉっ!」


 顔を上げようとしたところに顎下を蹴り上げられ、視界はぐりんと裏返り天井を映す。


「見んな見んな見んなぁッ! あっち向いててッ!」

「い、いや、何か煙があるから肝心なところは見えてないぞ?」

「そういう問題じゃない!」


 あっち向いてと言われても、もうさっき蹴られたせいで仰向けに転がっているのだが、言われる通り窓の方へ目を向けておいた。

 それでも外が暗いせいで窓ガラスに沙夜の裸体が映りこみ、結局どこを見ていればいいのか分からずに目を閉じた。


「~~ッ! もう信じらんない! 仕返しにしてもあんまりだわ!」

「いや、別に仕返しとかでは――」

「黙っててッ!」

「……はい」



 再びボフンッ! という音が聞こえ、ベッドの軋む音と布ずれの音が聞こえた。


「……もういいわよ」

「お、おう……」


 そう言われて体を起こすと、沙夜は一糸まとわぬ姿から先ほどまでの白いワンピース姿へと戻っていた。

 しかし俯いたその顔は未だ真っ赤に染まったままで、肩は強張っているのか微かに震えている。


 そうしてしばらく沈黙が続いた後、沙夜は真一文字に引き結んだ口を開いた。


「……見た?」

「い、いや、見てない。というか見えなかった」


 俺の必死の言い訳に、沙夜は音がしそうなほど鋭く、涙で濡れた瞳を俺に向ける。


「嘘! 目の前で私裸になったのよ!? 見えなかったわけないじゃない!」

「いやいや、さっきも言ったけど煙で肝心の部分は見えてないから!」

「そういう問題じゃないわよ! これじゃあもう私お嫁にいけないじゃない……」

「もともと俺以外には見えないんだからお嫁に行くも何も――」

「何か言った?」

「いえなんでもないです」


 気まずい沈黙が部屋を支配する。


 沙夜がしばらくの間、鋭い視線でまっすぐに俺を見つめるものだから、その圧に負けて思わず視線を逸らす。



「……わざとやったんでしょ。私が騙して言質取ったりしたから! わざと裸の絵を見せたんでしょ!」

「違う違う! それだけは誓って違う! 最初は浴衣の絵を開いて見せてたんだよ! でも手が滑って……!」

「嘘よ! そんなに私の裸が見たかったのね!? 変態! このけだもの! 童貞!」

「おい待て! 童貞は関係ないだろ!? それに本当に違うんだって! お前の裸何てこれっポッチも興味なかったんだって!」


 沙夜は俺の剣幕に少しだけ表情の険しさを緩めると、ためらいがちに言った。


「う、うそよ。だって情は非モテの生まれてこのかた彼女もいない童貞男子でしょ? 私の裸に興味がないわけないじゃない」


 これは俺の必死さが伝わっている感触。このまま沙夜の裸を見たかったわけではないことを猛アピールすれば許してもらえるかもしれんっ!


「いやいや、まじでないって! 沙夜の裸にはこれっポッチもそそられない!」

「そ、そんなこと言って本当はまじまじ見てたんでしょ! 情のいやらしい視線を確かに感じたものっ!」

「見てない見てない! 見る価値もないって! 出るとこも出てない貧相な体なんて見ても何の得にもならないから! ぜんっっっっぜん! 興味もないから!」

「うわぁぁああん! なによなによ! そこまで言わなくてもいいじゃない! 私だって好きでこんな体になったわけじゃないんだからぁ!」


 必死にわざとではないことをアピールしていると、沙夜が突然泣き出した。

 あ、あれ? 俺何かまずいこと言ったかな? 必死すぎて何言ったか覚えてないんだけど……。



「うぅぅ……。裸を見られた上に貧相だ興味ないだとけなされて、これじゃあ完全に見られ損だわ……」

「あ、あの~……、沙夜さん?」


 沙夜はしばらく俯いていたかと思うと、手で涙を拭った。

 そして未だ羞恥に染まる顔を上げ、まっすぐに俺を見つめる。


「情!」

「はいぃ!」

「本当に私の裸を見て何も思わなかったわけ!? これっポッチも、なんの感情も浮かばなかったわけ!?」

「それは……」


 本当のことを言うと何も思わなかったわけじゃない。むしろ嬉しかったくらいだ。

 同じ年頃の女の子の裸なんて生まれてこのかた見たこともないし、何も感じるなという方が無理な話なのだ。

 しかし、そんなことを正直に話そうものなら、今度は蹴り飛ばされるだけでは済まないかもしれない……。


「この質問でもうこの話はおしまいにするわ。もう怒ったりしない。だから正直に答えて!」

「はい、分かった! 分かりましたぁ!」


 もう怒らないって言葉は信用しちゃいけないって幼少期に学んだはずだが、なんだか沙夜の目が真剣で、必死さを感じさせるから、せめて正直に話そうと思えた。


「俺は沙夜の裸を見て、そのぉ……、少しだけラッキーだなぁと、思いました……。あとは体が細いのでもう少し食べたほうがいいと思います……」


 恐る恐る沙夜の顔色をうかがうと、沙夜は俺の言葉の真偽を確かめる様に、俺の瞳の奥の心を覗き込んだ。


 そしてしばらく経つと、ベッドから立ち上がり、腕を組む。

 それからそっぽを向いて、少し偉そうな態度をとって言った。


「……ふんっ! あっそ!」


 やっぱり怒っているんじゃないか? 正直に言ったのは間違ってたのかな?

 だって、そっぽを向いた沙夜の横顔は、さっきよりもずっと赤くなっていて、耳まで真っ赤になっていたから。ものすんごく怒っているんじゃないかって思ったんだ。


「これでこの話はおしまい! 私も忘れるから、情もさっき見たことは全部忘れなさい!」

「はい、分かりましたあ!」

「まぁ、着替えられることは分かったんだし、明日は予定通りプールに行くわよ。情が夕食食べてる間に、頭のイメージだけで着替えられるよう練習しておくから」

「はい! では僕は夕食を食べに行ってまいります!」



 そう言って俺は部屋を後にする。

 どうやら許された、のかな……? よく分かんないけど正直に話した方がよかったってことなのかな?


 忘れなさいって言われたけど、あんな衝撃的な出来事、そうそう忘れられるようなもんじゃないよな。夢に出てきそうだもん。

 思い出すとなんだか変な気分になってきちゃうからやめておくけど、できるだけ鮮明に覚えておくとしよう。


 そうして俺は心のアルバムに、先ほどの記憶をそっとしまい込むのだった。

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