第129の扉  そっちに行くね

【残酷描写があります。ご注意下さい】



「桜木さん、今、そっちに行くからね」


 ニコリと微笑みかけて、翼は歩みを進める。彼女に近づくほどに、冷たい風が届いた。ピリピリとした威圧感と共に、皮膚を裂くような風が翼を襲う。しかし


「みんな無事だよ。君が助けてくれたんだ」


 翼はその歩みを止めない。痛いはずなのに、怖いはずなのに、その感情は彼の言動に一切出てこない。腕、足、首、顔、少しずつ切りつけられる傷が増えていく。それでも


「帰ろうか、僕は君が居ないと寂しいんだ」


 翼の表情は変わらない。その歩みは止まらない。ニコリと微笑んで、風花へと手を伸ばす。


「翼……」


 優一の頬を静かに涙が伝った。

 風花から距離の離れた優一でさえ、今の状況は辛すぎる。彼女の放つ風が冷たく、鋭い刃となって襲い掛かっているのだ。息が詰まる。身体が動かない。痛い、苦しい、怖い。

 そんな状況でも風花との距離を縮めていく翼には、どれほどの負担がかかっているのだろうか。全く想像がつかない。


「桜木さん、大丈夫だよ。もう終わったんだ」


 ニコリと微笑んだまま、翼は距離を縮めていく。まるで彼にだけ、風花の風が届いていないかのように。


「みんな待ってるよ」


 翼にも風花の風は届いている。彼の身体に次々と刻まれていく傷がその証。それでも、彼の歩みは止まらない。


「約束したでしょ? みんなで帰るって」


 ニコリと微笑んで、その手を伸ばし続ける。そして、彼の存在に気がついた風花の顔が動き、彼女の視界に翼が映った。


「ぁ……つば、さ」


 優一の頬にもう一筋の涙が伝う。

 今の風花に自我はない。瞳に光はなく、全てを無にしてしまうような、冷たい瞳。そんな残酷な彼女の視界に翼が映ってしまった。



皮膚が裂ける。

血が飛び散る。

腱が切れる。

筋肉が裂け、骨が砕け散る。

腕がもげる。足がもげる。

お腹に穴が空く。

口から大量の血を吐き出す。

首が飛ぶ。

だらり、と彼の身体だったものが地面に倒れこむ。

ピクリとも動かなくなったソレに、まだ容赦なく風が吹き付ける。



「うぁぁ、ぁ……つ、ばさ」


 優一が最悪の想像をする中、暖かくて優しい微笑みのまま、翼の足は止まらない。今想像したそれらが全て起こる。これから彼に起こる。そして、それが起こってしまったら全てが終わる。

 相原翼は死んではいけない。桜木風花に殺させてはいけない。

 ダメ、ダメなのに。


「さ、くらぎ、や……めて」


 優一の願い虚しく、風花は翼を仕留めようと手を伸ばした。風花は止まらない、止められない。彼女は破壊の限りを尽くし、この空間全員の命を消すだろう。そして、彼女自身も壊れる。

 翼を止めたい。風花を止めたい。

 それなのに、優一の足は動かない。声は掠れて届かない。


「つば、さ」


 優一は涙でぼやける視界の中、遠ざかっていく翼の背中を見つめることしかできなかった。


















「……あ、いはら、く、ん」


 風花の動きがぴたりと止まり、彼の名前を呼んだ。不気味な音を響かせていた風も止み、あたりを静寂が埋め尽くす。誰一人として、言葉を発さない、発せない。

 虚ろで光を宿していなかった彼女の瞳が、揺れる。冷たくて、全てを消し飛ばす残酷な瞳。そんな彼女の瞳に一筋の感情が滲み出る。そして、その瞳の先には














「そうだよ、桜木さん。僕だよ」


 にこりと微笑む翼の姿が。

 手足はちゃんとついている。首もつながっている。お腹に穴も開いていない。


「あい、……は、らくん」


 風花は翼を殺さなかった。彼へと伸ばした手は、翼の命を消す前にその動きを停止。翼がしっかりと風花の手を握ったのだ。


「ちゃんと、ここにいるからね」

「……あいはら、くん」


 翼が言葉を紡ぐたび、風花の瞳に本来の優しい光が戻ってくる。暖かく微笑みながら、彼女と繋いだ手を握りしめて離さない。


「相原、くん」

「お帰り、桜木さん」


 桜木風花は帰ってきた。普段通りの柔らかくて、暖かい彼女が。翼の声が、想いが彼女に通じたのだ。

 二人はお互いのぬくもりを確かめ合うように、ギュっとその手を握っている。


「おわ、った?」


 優一の口から息が漏れる。

 桜木風花は戻ってきた。相原翼は生きている。

 優一の想像した最悪の事態は何一つ現実にならなかった。これで全てが終わった。

 頬に流したままの涙を拭き、にこやかに手を繋いでいる二人のもとへと歩き出す。しかし……


「「ゲホッ」」


 大量の血を口から吐きながら、二人の身体が崩れ落ちた。


「翼! 桜木!」


 優一が二人の元へと駆け寄ると、真っ赤な血溜まりが。しかも二人の息はか細く、吹けば消えてしまいそうな命の灯。

 風花の瀕死状態。彼女はバーサーカーの代償だろう。二段階の解除でもボロボロだった彼女の身体は、限界まで踏み抜いたリミッター負荷には当然耐えられない。

 対する翼は、風花の攻撃を受け続けたことによるダメージ。彼は何事もないように彼女への歩みを進めていたが、バーサーカー風花の攻撃を受けてタダで済むはずがないのだ。彼の身体もボロボロである。


「おい、しっかりしろよ! 翼! 桜木!」


 優一が必死に呼びかけるも、翼と風花は答えてくれない。しかし、ギュっとお互いにつないだ手は離れなかった。












―――――――――――――――


「あ、れ?」

「「起きた!」」


 翼が起床すると、目に飛び込んできたのは涙目の美羽と一葉。そしてホッとしている様子の優一と彬人。

 あの後懸命な治療により、翼は何とか命を繋ぐことができた。全てはハナカラ族たちの回復魔法のおかげ。流石は高度医療の担い手である。素早い処置と的確な判断で蘇生させてくれた。


「桜木さんは?」

「……まだだ」


 翼の問いかけに苦しそうに優一が答える。風花はまだ予断を許さない状況。

 彼女はリミッターを限界まで踏み切った。今まで不完全な魔力でしか慣らされていなかった身体に、突然のその負荷は耐えられない。臓器はズタズタ、血管もボロボロ。現在、太陽と鈴蘭、雛菊が治療に当たっているようだ。


「ったく、無茶しやがって」

「わ! 痛い!」


 暗い顔をしている翼の頭をポカリと優一が叩いた。風花のことも心配なのだが、優一には翼に聞かなくてはいけないことがある。

 あの時の翼の行動。自我がない風花の前に歩いていくなど、自殺行為だろう。結果的に無事だが、それは結果。優一は翼の行動を叱る。


「死なないって思ったんだ。よく分からないけど」


 優一は翼の返答に頭を抱える。何となく予想していたのだが、その通りの返答が返ってきてしまった。

 翼はあの時恐怖を感じていなかった。全く震えていなかったのが証拠だろう。人一倍恐怖に敏感な彼が、その感情を押し込められるとは思えない。なぜ彼が恐怖を覚えなかったのか、理由は……


「だって、桜木さんだもん」


 理由になっていない気もするが、実際そうなのだろう。桜木風花は自我を失っていても桜木風花。彼女が自分を殺すはずがない。だから恐怖を感じていなかったのだ。

 普段と何も変わらない表情、声で、話しかけに行く感覚で彼女に近づいていった。


「はぁ」


 彼のその行動には助けられたのだが、優一はため息が止まらない。


「ふ、愛の力か……」


 彬人がポツリと呟いたセリフも優一のため息にかき消されて、翼には届かなかった。












「ねぇ、本当にやるの?」

「……」

「限界は3分だと思うよ。いや、それでも長すぎる」


 翼たちの隣の部屋では、呼吸の浅い風花を囲んで太陽、鈴蘭、雛菊が。


「最初に会った時もやっていたけどさ、これ良くないと思うんだよね」

「ちょっと、雛菊!」

「……返す言葉もございません」


 雛菊の鋭い視線と言葉に太陽はぺこりと頭を下げる。鈴蘭が彼女を止めるも、雛菊は止まらない。


「荒すぎる。何回もやっていると、風花ちゃん本当に死ぬよ?」

「……」

「これで何回目? その回数によっては、出した瞬間に死ぬ」

「いい加減にしなさい! そもそも太陽さんのせいではないでしょう?」

「いえ、私の力不足です。それにあなた方が居なければ、姫は最初に死んでおりました」


 太陽は苦しそうに顔を歪める。自分の回復魔法はまだまだ未熟。本来なら最初に二段解除で倒れた時点で風花は死んでいた。それが生きているのは鈴蘭と雛菊があの場に居てくれたから。太陽一人の魔法ではどうにもできない状況だったのだ。


「どうか、もう一度力をお貸しください」


 太陽は深々と彼女たちに頭を下げる。その肩は小さく震えているようにも見えた。


「雛?」

「分かっているわよ。別に助けないなんて言っていないし、私はやり方が嫌なだけ」

「ありがとうございます!」


 雛菊の言葉に再び太陽が頭を下げた。二人の協力があったとしても、風花の状態がひどいことに変わりはない。鈴蘭と雛菊の手を借りても助けられるかどうか。


「では、よろしくお願いします」


 それでも助けなければいけない。太陽は心を落ち着けて、手のひらに白色の光を放ち、風花の胸元に手を進めていった。

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