終章
終章
――
外は台風のように荒れ狂っているのに、空神家の敷地内は何かに守られているようで、カタカタと窓が少し音を出すだけだ。
空神家の寝室。空神夜羽は目覚めた。
「……あなた、おはよう」
何処までも穏やかで優しい声だった。その声に答えた夫の正弘も穏やかに言った。
「おはよう」
「行かなければ。分かっているでしょう」
「ああ。行っておいで」
「子供達に酷な事をさせてしまいました。あなたにも。ごめんなさいね」
いたずらっぽく少女のような微笑みをした後、僅かな羽が消え、肉体から抜け出た薄っすらとした空神夜羽がすっと立ち上がった。
肉体の方は、ぐったりと力なく正弘の方へ倒れこんだ。幽霊とも思える空神夜羽は軽く足で布団を蹴った後に壁を突き抜け、無風丘の方へ飛んでいった。
――
僕は無意識に無風丘へ逃げていた。少しでもあの空亡から遠く離れた場所へと思って。
だけど、瑠璃羽を持ち、空神を抱えては遠くまで行けない。
空亡は空へ伸びた羽を喰いながら徐々に地上へ近づいてくる。その恐怖に押し潰されそうになる。
あの悍ましい業の羽も空亡にとっては食い物でしかない。
「もういい、降ろして」
空神の意識は鮮明になっていた。が、その分痛みは増してるようで、顔をしかめている。
僕は労わるようにそっと空神美羽を降ろした。
「逃げて、碧。希崎君のお父さんみたいに、近くに居たらきっとあなたの羽も喰われてしまうわ。あれが地上を喰いつくさないよう私の羽を切って、とっとと空に還すのよ」
「いやだよ」
「人の羽を摘み取れば摘み取るほど、わたしの羽はこんな風になってしまったの。醜いでしょう? だから切って」
空神の頬に涙がすっと零れた。
この異形の羽が彼女の苦悩と苦痛全てを表していた。
あれが人の悪そのもの。それが空を隠す雲のように巨大で、それ以上に巨大な化物に喰われていく。
彼女はその羽を僕に見せてしまっている。恥と言うべきほどの醜い羽を僕に見せて本当の気持ちを伝えてくれた。
俯いている空神をおそるおそるそっと抱きしめた。そして、彼女の異形の羽を優しく撫でた。
僕にとっては愛しい羽だ。空神家の責務を果たし、空神の自己犠牲の上で成り立っている世界の平穏。
彼女は泣き止み、くすくすと笑っている。
僕は、どうしたらいいのかわからない。
「羽好きなのは変わらずね」
「ずっと。小さい頃から好きだった」
「羽がでしょ?」
羽だけど、羽はその人そのものだ。答えずに僕は空神に口付けをした。
空と地上の世界が捩じれて、無風丘が別の世界にあるようだった。
空神家の呪縛から逃れ、空亡の居ない澄み渡った空の下で、彼女が自由に羽ばたける未来の世界は、僕の頑張りに掛かかっている。
切浄の儀として切り離せばあの空亡を空へ還せるけど……。
僕は諦めない。
「思い出したよ」
空神の目が少し見開く。
「あの時はごめん。無風丘から逃げ出して。あと、羽見の儀式の舞を覗いてごめん。今度は逃げないから。ま、今も逃げてここまで来たんだけどさ」
僕は僕の羽を瑠璃羽で切り裂いた。
皆の命の羽を少しずつもらったのを、無駄にするわけにはいかない。
「碧! お前。ふざけるな。お前が死ぬことなんて許さない」
僕の胸倉をつかんで揺さぶる。
死ぬ? 違う。空神に上げるだけだよ。
瑠璃羽が煌々と輝きだした。
これで、きっと……。
僕の意識が途絶える寸前に、空神の横に女性の姿を見た。禍津日神様なのか、空神家の初代の巫女の一羽なのか。走馬灯なら母さんとか父さんとかの思い出が映し出されると思っていたけどな。
空神の声が遠のいて、僕の意識は暗がりへ落ちていった。
空神美羽は那由崎碧の手を握りながら横を見上げた。
「お母さん?」
その呼び声で空神夜羽は笑顔になる。
「あなたを生かす為に、羽を捧げてくれた優しい友達を大切にね」
空神夜羽は那由崎碧の傍で光る瑠璃羽を手にして、上空へ向かって添えるように構えた。
空亡は地上間近に迫っている。空神美羽と那由崎碧の感情などお構いなしに羽を貪り喰いながら。
空神夜羽は空神美羽と那由崎碧を庇うように空亡を見上げた。
「人が生み出してしまった哀れなモノ。悲しいモノ。願わくは人の世が終わる時まで、空の果てで眠っていなさい」
荒れ狂う風を凪ぐように、静かに切り払った。
すると、異形の羽が綺麗に砕けながら一羽毎に輝き、空へと昇っていく。やがて空亡の口の中にその輝きが入ると、凄まじい悲鳴が轟いた。
空亡の無数の目が閉じ、渦巻いた暗雲が徐々に晴れていく。
砕け散った羽と、瑠璃羽から解き放たれた光が、空神美羽の背中に集まり、新たな羽が作られていく。
「美羽。よくがんばりました」
「でも碧が、碧が……」
「大丈夫よ」
太刀をすっと翳すと、両羽を切った那由崎碧の背中にも片羽だけ作られていく。
「もうじき静羽が来るわ。あの子には何時までも過去を引きずるなって言って置いて」
空神夜羽が困ったように溜息をつくと、足元から砂のようにさらさらと輝いて消えていく。
「さて、美羽のお婿さんも見れた事だし、私はもう思い残す事はないわね」
「別に碧は……」
空神夜羽がくすくすと笑う表情は、空神美羽とそっくりだ。
「私の僅かな羽も二人に捧げましょう。それじゃあ元気でね」
「うん。ありがとうお母さん」
笑顔のまま光に変わり、二人の背中に宿った。空神夜羽の持っていた瑠璃羽は芝の上にハタと倒れた。
無風丘はその名の通り風が治まり無風となった。
――――
――気が付いたのは病室だった。
「――生きてる?」
僕は起き上がり、自分の身体を確認する。手や足、服は装束ではなく病院の検査用の服を着せられていた。
病室を見回すとベッドの横に鬼無里さんが座っていた。
「おはよう。随分と遅い目覚めだね」
「えっと……。どうして? いや、どうなったんですか? 空神は?」
「美羽に居て欲しかったかな」
「えっと、その」
僕の事をからかっているのだろうか。鬼無里さんは笑顔で話す。
「大丈夫だよ。美羽は生きている」
「そっか。よかった。よかった……」
これほどホッとした事は人生でまだない。からかっていたのも空神が無事だからだろうけど、こっちはあの後の事を知らないんだから人が悪い。
鬼無里さんは僕が訪ねようとした事を粗方予想して話してくれた。まず、ここは白羽中央病院の病室だという事。あの日から五日経っている事。
皆はしばらくしてから意識を取り戻したけど、念の為にこの病室に三日前まで入院していた事。空神美羽は何度もお見舞いに来ていた事。
「君が禹歩を終えた時、気を失ってしまってね。僕は直ぐに意識を取り戻したんだが、そしたら君と美羽が居ない。空を見上げると空亡が無風丘の方へ移動しているのが見えたから、直ぐに駆けつけた。そしたら君が倒れて、いや美羽に膝枕をしてもらっていて、美羽が羽祓いの儀は終わったと言った」
なんで膝枕って言い直したんだろうか。
「僕は、瑠璃羽に宿る力が足りないと思い、自分で自分の羽を切りました。何故助かったんでしょう」
「それは分からない。美羽の話によると、姉が……助けてくれたと」
あの時見えたのは空神のお母さんだったのか。でもそれは……。
「それは十年前の切浄の儀を行ったという事ですか?」
「切浄の儀とは違う気がする。羽祓いの儀と合わさったもの……じゃないかと僕は考える。ただ、姉はあの日に亡くなってしまったから確かめるすべはない」
亡くなってしまったのか。じゃああれは幽霊みたいな状態だったという事だろうか。
「すみません」
「いや、いいんだ。今回は十年前の空亡の消え方と明らかに違った。美羽も生きているし、君も生きている。大成功だろう。姉からの言伝も美羽から聞かされたしな」
なんと言われたのかは話してくれなかったけれど、吹っ切れたようにシュっとした羽先はそのおかげだろう。
「連絡先を預かっている。あとは美羽に聞いてくれ。僕は退院の手続きと親御さんに連絡しておこう」
大部屋に一人残された。意識が途絶える前の自分の行動を思い出してみたら、もの凄く恥ずかしく、取り返しがつかない事をしていた気がする。
人は冷静になって初めて事の重大さに気付くものだ。
私物のスマートフォンが棚に置かれていたので、空神美羽の連絡先をアドレスに追加し、『起きたよ』と、一言送信した。
既読も付かないし、返信は無い。そう言えば空神はこういう連絡手段を持ってなかったはずだ。機械が苦手だとも言っていた気がする。機械音痴ではないと思うけど、使い方が分からず四苦八苦していたらと想像したら笑ってしまった。
カメラを起動し、自分の背中を映してみる。
片羽と少し。もともとの自分の色も残りつつ、色合いが少し変化していた。
「これだと後どのくらい生きれるのかな」
未来の心配をしても仕方ない。とにかく夏休みの三分一はもう過ぎてしまった。残りは気楽に過ごしたい。
背伸びをしたら受信の音がしたので見てみる。
『ばか』
と一言。その後に『無風丘』と『明日』『昼』と単語だけ。つまり来いと言う事だ。
慣れたらもう少しちゃんとした文を送ってくれるだろうか。とにかく行く旨を直ぐに伝えた。
そのあとに写真が送られてきた。空神の背中の写真だ。
普通の人にはただの背中だが、この羽の美しさが見れる僕は幸せ者だ。永久に保存しておこう。しかし、自撮りの写真を送信する危険性は、後で厳しく言っておかないとダメだな。
退院して、鬼無里さんに家に送ってもらってから、父にいろいろと質問攻めにされて困っている。
とにかくノートに書いてある事以外特別な事はしてないと言っても、儀式に関する仮説を話し始めて少々うんざりしてしまう。
例えば、直毘神と言う禍津日神の禍を直す神様も居る。僕が見たのはその神様だったんじゃないかとか。
僕が羽を見る事が出来るのは、瑠璃羽を作刀した蒼焔の血を引いているのかも知れないとかで先祖を辿ってみようとか、伊弉諾尊が軻遇突智命を斬り殺した際、御刀の柄に溜まった血が羽の根源で、切浄の儀の元になった話なのではないかとか、沙石集にある鴛鴦の伝説が殺生を戒める為に羽祓いの儀が作られたとか……。
その後もあれやこれや神話や民話との関連について話をされたが、ほとんど頭に入らなかった。
とにかく「これ、ありがとう」と話を切って、父さんに借りたノートを返した。
母は母で空神美羽の事を詳しく聞いてくる。
今はまだ話さないでおこうと思い、連絡先を交換した程度の事を話しておいた。そしたら、
「二人とも。生きててよかったわ」
と、結局母も知っていた事には驚いた。もしかしたら十年前の事も知っているのかも知れない。
僕は自室に入り、本棚から鳥の羽の本を手に取ってベッドに横になる。
パラパラとめくって人の羽ほど綺麗な羽も無いし、人の羽ほど禍々しい羽も無い。そして自由に空を飛べる羽は羨ましい。そんな風な事を思って読みながら眠りについた。
次の日の朝、空神と無風丘で待ち合わせをしているので、行かなくてはならない。義務的なものを感じてもワクワクしている自分が居る。このワクワクした気持ちは、小さい時に無風丘へ遊びに行ってた時と同じなのか、それとも高校一年の夏に青春めいた事柄に、だろうか。
あんな事があってもそれなりに呑気に考えられるのは羽を見て判断するよりも両親の影響の方が大きい気がしてきた。
家を出る時に自転車を置きっぱなしにしていたのを思い出した。遅刻するわけにはいかない。暑さに気を付けながら走って無風丘へ向かった。
早めに家を出たので、途中歩いても昼前には着いた。
先日あんな禍々しい出来事が起こっていたなんて想像できないほど爽やかな風が吹いている。
無風丘を登ると上の方で空神の後ろ姿を見た。
白のワンピースに麦わら帽子と、フィクションでよく見る夏の女の子の服装の定番のような服装だけれど、青空に映えて空神らしいと思った。
希崎純。手塚総一。日野桜。君嶋萌香。そして僕の羽が彼女の背中にはある。もう羽は隠していない。
彼女の右手の指先に青い小鳥がとまっている。昨日読んだ本によると、オオルリかもしれない。鮮やかな青色をしているのはオスだ。
なんだか自分が弄ばれている気がしていたたまれない。
空神はまた鳥を屈服させ、羽を摘んで遊んでいたみたいだ。
「おはよう、空神」
「おはよう」
鳥を空に放して摘んだ羽を無造作に麦わら帽子に刺した。飾りのつもりなのだろうか。
飾りならもう少し上手い具合に付けたらいいのに。
「もう摘む必要はないんじゃないの?」
「そうね。一番摘み取りたかった碧の羽も私の羽になってるわけだし、私はもう摘み取る力は無くなったから」
涼しげに言っているけど、あの時、その力で摘まれそうになった恐怖感は今でも身体が覚えてしまっている。
空神は力の話はしたくないのか話題を変えた。
「あの自転車、あなたのでしょ。希崎君から頼まれたわ」
空神が指をさした方に僕の愛車が置いてある。
「ごめんすっかり忘れてて。」
「では行きましょう」
「どこへ?」
「鴛鴦神社」
「どうして?」
「いいから、乗せなさい」
自転車の後ろに女の子を乗せるのは青春と言う言葉が当てはまる。
鴛鴦神社に着くまでに僕が寝ていた五日間の事を聞いた。
鬼無里さんが僕を運んでくれた事。瑠璃羽も祈り羽もちゃんと返して、切浄の儀式はやらなくて良いと宮司に伝えた事。空神家の当主に羽祓いの儀と空亡の消滅を伝えた事。
当主の空神時羽は相当ご立腹だったそうだ。実際本気で僕を殺そうとしてきたからその怒りは凄まじかっただろうと思う。ただ、空亡の消滅を確認したという事で十年前のように静羽さんの処遇ほど重くはなく、空神美羽に家を継ぐ事はさせず、妹を次期当主にすると言うお達しだったそうだ。
妹がいると聞いて、やはり血が途絶えないようにはしていたのかと思った。空神美羽が死んでいたら当主には妹がなっていたので、建前的なものかもしれない。
一二度しか会ったことが無いけど、妹の事ははやはり心配だと言う。
妹は父方の家で育てられていて交換する形になったわけだけど、そういった事情で、空神は空神ではなく、父方の神崎を名乗る事になったらしい。苗字が変わって面倒だからと、名前で呼べと言われた。
最後に空神の母で静羽さんの姉、空神夜羽さんの葬儀が行われた事を聞いた。
僕が「葬儀に行けなくて申し訳ない」と言うと、「身内のみで行うものだからどちらにせよ参加できない」と言われた。
葬儀も神道では魂が霊璽に宿り、家の守り神となるので、神社で祈れば問題ない……だそうだ。そう言う訳で鴛鴦神社に連れてきてくれたのか。実際に自転車をこいでいるのは僕だけど。
重たい話も朗々と語ってくれている間、心臓に美羽の声が共鳴してるようで感情が伝わってくる。羽を見なくても分かるような手段を普通に見える人はとっている。声とか鼓動とかがそうなのだろう。
「お嬢様、到着しましたよ」
「乗り心地は最悪ね。」
美羽はそう言うと、ひょいっと軽やかに降りて鳥居の前に行って一礼した。鴛鴦神社空神にとっては家みたいなものでも、当たり前の礼儀はきっちりと行う。
先導する空神の後を、余計な事を考えないで階段を登り、二の鳥居を潜る。既に最近来たばかりでもこの潜る瞬間はいつも新しい気持ちにさせてくれる。
手水舎で手を清め、拝殿へ向かう。
ふと隣を見る。神前だから帽子を取るのは分かるけど、何をしているんだろう。
美羽は麦わら帽子に刺してた青い羽の片方を「はい」と押し付けるように僕に渡した。
「え?なに?」
「鴛鴦の契りよ。鴛鴦の羽じゃないけど、別にいいでしょ」
「鴛鴦の契り?」
「羽の加護を授かるの」
「ふーん」
後で純に聞いた話だと、鴛鴦の契りと言うのは、結婚しますと言う事らしい。そうとは知らずに、特に何も何も気にしていなかったし、そういう事をさらっと言ってしまえるところが羨ましい。
僕がもっている羽と美羽の持っている羽を重ねて上から下へと静かに降ろす。
この羽はこの後どうするのか聞くと、どう扱っても良いという事だ。羽好きの僕としては大切に保管するとしよう。
「この後は?」
「そうね。地上を見て回ろうかしら」
「地上?」
「そう。乗せなさい」
「乗り心地は最悪だったんじゃないの?」
「乗り心地は最悪でも、碧の羽を間近で見れるのは、悪くないわ」
美羽は鳥居に隔てられた神域との境目に立って地上を見渡す。確かにここは天界のように思えなくもない。ここから出て、その瞬間にようやく空神家の呪縛から逃れる事が出来るのかも知れない。
何百年も続く空神家は空の神を囲った鳥籠に思える。そして今、空神美羽が人になれた瞬間なのだろう。
羽を摘む力は無くなっても鳥達が言う事を聞いてくれるのは、天性のカリスマがあるからこそだろう。
羽が摘めなくても変わらずに羽は見えるし、鳥達も言う事を聞いてくれる。そして彼女の羽のとりこになってしまった僕も鳥のように従順に従おう。
人の羽で空は飛べないが、彼女が自由に空を飛んでいる姿を僕は想像する。
――終わり――
羽摘み少女 片喰藤火 @touka_katabami
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