四、空の神様

四、空の神様


 私が那由崎碧に出会ったのは四歳の時だ。

高校生だった叔父が、幼い私をよく家から外へ連れ出してくれて、その日も何時も通り無風丘へ行こうと叔父にせがんだ。

無風丘という名前からは想像できないほど気持ちの良い風が吹く。人も居なくて私はその場所が大好きだった。

だけどその日、無風丘には先客がいた。私と同じくらいの子がぽつんと立って、こっちを見ていた。

警戒心も無く近づいてきて屈託なく言った。

「ねぇねぇ。きれいなはね」

 その言葉にどれだけ救われたか。

綺麗と褒められたこともそうだが、自分と同じように他人の羽が見える一族以外の者がいる。その事の嬉しさと言ったらなかった。他の人は、羽を見ることが出来ない。たったそれだけのことで、私は幼稚園で孤立していた。その寂しさもあったからだと思う。

だけど少しむかついてもいた。お気に入りの私の場所を取られたように思ったからだ。

羽が綺麗と言われた気恥ずかしさも隠す為に「ここは私の場所だ」とか言って押し退けた記憶がある。直ぐに叔父さんに怒られて、叔父さんがその子に名前を尋ねた。

「なゆざきあお」

 人畜無害な表情で答える。頼りなさそうで弱そうで、今も変わらない澄んだ瞳をしていた。

 叔父さんに「この子は引っ越してきたばかりで友達がいないんだって」と言われた。だからなんだという風に思ったが、特別に私の遊びを教えてあげた。

 碧は「かわいそう」と言った。

 そう。可哀そうだ。だから私は楽しかった。羽なんて見えなければいい。無ければいい。そういう思いの反動だろうか。自由に空を飛べる鳥が羨ましく、単に妬んでいただけかもしれない。

 私が強く思えば、大抵の鳥は自分の言うとおりになる。それは、鳥が私を哀れんでいるからだと勝手に思っていて、そういう時には人にも能力を使ってみたりする。鳥だけじゃなく人にも僅かに効く時がある。

可哀そうと言う当たり前の感情を抱いた碧が憎らしかったので、碧を少し動けなくさせてやろうと思い、能力を使ってみた。少し後ずさりしたから効いたように思ったけど、疑問の表情を浮かべながらも身体は動いている。碧には効いていなかった。

 叔父さんは私が能力を使った事を察したらしく、羽を摘む以外の遊びを提案した。

 綾取り。花冠。鬼ごっこ。草笛。

 叔父さんはこういう遊びをよく知っていたし、どれも上手い。

碧は叔父さんが教えてくれる遊びはどれも楽しそうに遊ぶ。私もつまらなくはない。けれどやはり鳥の羽を摘み取りたくなる。

碧はその都度私を止めさせようとしたけど、叔父さんが説得したらしく、何も言わず見ていてくれるようになった。

この日以来、無風丘へ来る時は碧と遊ぶようになった。「なんでいつも先に居る」と碧に当たると、私が来れる日をあらかじめ叔父さんが碧に伝えていたそうだ。変な風に気を使われている。きっと私が幼稚園で一人で居るのを知っていたからだろう。

それからしばらくして、碧は私が通っている幼稚園に転入してきた。碧は羽が見える事を言わない。当然だ。皆と違う力があれば敬遠されるという事は碧も知っていたのだろう。ならどうして私に会った時は、一番に羽の事を話したのだろうか。碧も羽が見えると皆にばらしてやろうかと思ったが、それはそれで裏切りのように思えて躊躇った。


碧は誰とでも仲良く話せる。そして私にも何時も通り話しかけてきた。羽の事を特に気にしていないのかバカなのか……。

仲が良い? かは分からないが、私と碧が話しているのを皆不思議がっていた。碧のおかげで幼稚園では孤立するような事も無くなり、それ以降差し障り無く幼稚園生活を送り、平穏無事に卒園する事が出来た。


小学生になっても碧は人気者だった。だけど私は、碧と少し距離を置いた。なんとなく碧の邪魔になりたくない。私といる時は、やはり皆少し距離を取る。

碧は羽が見えるけれど、一族の者ではない。空神家である私とは関わらない方が良い。そんな私の懸念も全く気にせず話しかけてくる。

私に関わらないで欲しいと、言おう言おうと思っていても、なかなか口に出せない。

そのまま二年生になろうかと言う時、家が慌ただしくなった。母の切浄の儀が行われると当主の祖母から聞かされた。


 私は一人無風丘へ向かった。空神家の事。儀式の事。何も考えたくなかった。

「なんで、お母さんが……」

 後ろの方から草を踏む足音が聞こえる。

「みはねちゃん?」

 一人で居るのは辛い。辛い事を誰にも知られたくないから一人になりたかったのに。私の心を辿ってきたかのように碧は現れる。

「何の用?」

 碧は困惑している。

「どうしたの?」

「別に……大丈夫だから。今日は遊びに付き合わなくていい」

「ぜんぜん……。全然大丈夫じゃない」

 碧が怒鳴った声を初めて聴いた。私は当主の祖母から叱責された時よりも驚いた。

 碧が更に近づいてきた時、背中に激痛が走った。

「痛いの?」

「羽が……」

 無風丘にいつも舞っている心地よい風が止み、文字通り無風になった。空には黒い雲が竜巻を生み出す前の様に渦巻いている。

「まさか、お母さんが……」

 ――失敗した?

 行かなきゃ。そう思った時、空から音の無い雷光が一閃、私を貫いた。 

 空に居た鳥達は、命を失ってボトボトと落ちて来た。

「み、はね、ちゃん?」

 恐怖に怯えた碧の目の中に、私の羽が写っている。

 その羽は禍々しい羽が新たに生まれたように鈍い色で小さく光っていた。

 碧は本能で逃げたがっているのを必死に抑えているのが分かる。出来るならそのまま逃げて欲しい。何をしている。何を? 摘むためだ。私が? 逃す前に摘んでしまえ。

 私の声で囁く何かに支配されそうになるのを必死に耐えて言った。

「逃げ……て」 

 私の言葉を聞いた碧は逃げる事を決意したようだった。駆けだした背中の羽に、私の羽が変化した鉤爪の様な手が襲おうとする。

――碧の羽は摘み取らせない。

 羽を無理矢理抑え込む。傷口を刃物で更に抉っているかのような痛み。それでも力に自分の意思を羽に委ねるわけにはいかない。

 なんとか力を抑える事は出来たが、その時生じた突風で碧は道路まで吹き飛ばされた。

「碧っ!」

 意識を失って倒れている碧に駆け寄って抱きかかえる。胸に耳を当てて心音を聞く。

――よかった。生きている。

何処かへ運ばなければと碧を抱えた時、命はこんなにも重たいものなのかと感じたのを覚えている。

 今は公園として整備されてベンチがあるけど、その時は無かった。代わりに椅子の様に組まれた大きな石を椅子代わりに使っていた。そこへ碧を運ぶ。

 人を呼ぼうか迷ったが、母の事が心配でたまらず、額の血を拭ってあげてから駆け出した。


 家に帰ると皆慌ただしく動き回っている。

「美羽お嬢様!」

 家の門に立っていた私を呼んだのは鴛鴦神社の宮司だ。すぐに駆け寄ってきて、私の手を引っ張る。

「当主様がお待ちです。直ぐに参りませんと」

 その慌てぶりから儀式が失敗したのは間違いがない。でも、どうして。


空神家の屋敷は広く、幾つもの座敷がある。その一番奥の座敷に当主の空神時羽が待っていると宮司に告げられた。宮司は襖を開けず、廊下から私を連れて来たと祖母に知らせると、私に一礼してから去っていった。

私は畏まって襖を開ける。祖母が座っている対面に座布団が敷いてあったので、私はそこに正座した。

 祖母の目は鋭く、私の羽を値踏みするように見定めている。

「お前に素質があったとはな。夜羽の代わりにお前が儀式を成就させよ」

「……はい。あの、お母様は?」

「夜羽は業を空に捧げる事は出来なかった。よって罰を受けた。夜羽が成し遂げられなかった切浄の儀はお前にやってもらう。羽見の儀式の後に羽を摘み取りに行ってもらう事になるだろう。それまで力を使う事は許さん。よいな」

「……はい。あの、お父様は?」

「正弘は夜羽に付き添っている」

「……叔父様は?」

「あの愚か者が……」

 憎々し気な表情をして祖母は立ち上がり、座敷から出て言ってしまった。聞ける事はそれ以上無い。私は母の部屋へ向かった。

 襖を開けると布団に横になっている母。枕元には父とお医者さんが座っていた。

「ああ、美羽か」

「今、お祖母様から聞かされたの。お母さんの代わりに私が儀式を引き継げと」

「そうか。……すまない」

 父は私の方を見ようとしなかった。

「お父さん。お母さんは儀式を失敗してしまったの?」

「……」

 父は何も答えなかった。沈黙が肯定を表していたのだろうけど、失敗の原因は父にもある。そんな風に感じられる雰囲気を纏っていた。だとしても責める事は出来ない。きっと母の為に父が叔父さんと一緒に儀式を止めようとしたんだ。

「私が頑張るから、心配しないで」

 頑張るような事柄でないのは分かっていたが、その時の父の憔悴しきった表情は、とても見れたものではなかった。

 私の言葉に救われたのかは分からないが、父は少し表情を緩め、優しく頭をなでてくれた。それは褒められたと言うよりも、贖罪を込めた愛情だったのだろうか。

 母は安らかに眠っている。お医者さんも身体自体は正常だと私に教えてくれた。身体が正常だとしても羽はどうなっているのだろう。

「お母さんの羽、見てもいい?」

 父は頷き、お医者さんも構わないと言ってくれたので、少し布団を捲って母の背中を確認した。羽があるべき場所には、ほんの微かにぼんやりとした光があるだけだった。

 その光を見て、私は覚悟を決めた。母は業を空へ還す事が出来なかったが、母の羽を蝕んでいた業の禍々しさは無くなっている。もともと母の羽を蝕む空神の力が許せなかった。自分がこの力を得る事によってあの禍々しい羽が母の背中から失くなったのなら、私がどうなろうと構わないと思ったんだ。


 次の日に学校へ行くと、碧が真っ先に駆けよってきて、私の羽を心配した。力を得ても業を摘み取らなければ羽は蝕まれない。しかし根元の方には黒くぼんやりした傷跡がある。

 碧は昨日の出来事を覚えていないと言う。それが衝撃によるものなのか、恐怖によるものなのか。それとも、空の神様が記憶の一部を摘んでしまったのか。何れにせよ、碧にはもう言わなくては。

「私に、関わらないで」

 碧は何か言いかけたけど、私の強い意志を感じ取ったようで、項垂れて自分の席へ戻っていった。

 それ以降、学校で殆ど話すことは無くなった。大したことじゃない。一族の者は皆、外の者と深く関わりを持たないようにしてきたじゃないか。元に戻っただけ。その筈なのに、学校で一人でいることが余計に辛くなった。

 家に帰ると、叔父さんが空神の家から追い出されていた。

叔父さんがしでかしたことは絶縁される程の事なのかと思った。これで家でも気軽に話せる人が居なくなってしまった。

 父は父で私を見ようとはしてくれない。植物状態になっている母の世話と、切浄の儀の前に生まれた妹の世話。それ以外に空神家の仕事も祖母から任せられていて忙しそうにしている。これ以上父に負担をかけてはならない。

私は切浄の儀で死ぬけれど、妹は空神家を継ぐ事になる。妹に何かあっては大変だ。祖母も私より妹を見ている時の方が表情が和らいでいるように見えた。妹への妬ましさがそういう風に見させたのか、私への冷ややかな態度は、未練を断ち切る為の祖母の優しさなのか。そういう風に考えたところで私の心が救われる事はない。だからと言って私は父も母も恨んだことはない。妹への妬みだって、些細な感情の揺らぎ程度だ。祖母への思いだって深く感情を歪ませる程じゃない。

 ただ、純粋な孤独感に包まれていた。

 そんな寂しさを紛らわせる為、学校が終われば直ぐに無風丘へ向かい、鳥の羽をひたすら摘んで、摘み取り続ける日が続いた。何れ人の羽を摘み取るようになった時、心が惑わされないように。

 そして何年も過ぎて、中学生になり、羽見の儀式を迎える事になった。

 この儀式を終えれば、人の羽を摘み取りに行ける。この頃には業を摘み取ると言うより羽そのものを摘み取りたいと思うようになっていた。


羽見の儀式の前に、鴛鴦神社の舞殿で神楽を舞う仕来りがある。

この巫女舞で楽師に見初められたら、空神様に契りを交わす事を許される。本来当主が結婚の相手を決める訳だが、この儀式の後、空神家に婿として迎えられる者も稀にいるという事だ。稀の筈なのだが、父がそうだったと母に聞かされた事があった。幼馴染であり、父の血筋も問題なく、祖母も異論は無かったらしい。 

とは言うものの、羽が嗜虐的な欲に塗れた形や色をしているのを見ると、なんとも不愉快なものだ。だから私は力を使った。祖母の許しは儀式を行う前に出ている。

 宮司は慌てていたが、奥で舞を見ていた祖母は取り乱していない。祖母は本来、羽を摘めば人が死ぬと伝え聞いていたと言っていた。母の摘み取り方は前例が無かったそうだ。死なないならばそれはそれで構わない。母の能力を買っていただけに、切浄の儀の失敗は祖母には堪えたろう。

――誰かいる……。

 視線を感じて振り向くと、板壁の隙間から誰かが覗いていた。村の者は羽見の儀式の後に見せに行くから家に居るはず。その誰かは私と目が合うと直ぐに逃げていった。

 逃げていくときに羽がちらりと見えた。

 碧……。


「逃げるなよ……」

 病室から窓の外を見ながら窓に薄っすら写った自分に呟いた。

子供の頃に『逃げて欲しくなかった』気持ちを抑えて「逃げて」と言った事を思い出して嫌になった。羽見の儀式の時に逃げ出していった碧はむしろ清々する。

 羽見の儀式の時に羽を摘む所を見ていたなら、あの時の事も思い出すんじゃないかと思って無風丘でからかってはみたけど、やはり覚えていないようだった。

泣けないほどの心の軋みは未だに治らない。

 小さく溜息をついた時、病室の扉をノックする音が鳴った。


病室に戻ってきた叔父さんは、母の事を話してくれた。

「まさか希崎君のお父さんまで関わっていたとは思わなかったわ。当時の私は、お母さんの事と力の事で余裕はなかったから。私に力が宿ったのは、それが原因だったりするの?」

「それは分からない。ただ、当時は無我夢中で、知っている人皆に助けを求めていた。そんな情けない自分に手を差し伸べてくれたのが真さんなんだ。それがあんな事になるなんて」

「助けようと思ってくれた人をお母さんは責めたりしない。希崎君のお父さんだって、叔父さんやお母さんを助けたと思ったから手伝ってくれた。叔父さんももう……」

「何か、何か方法があるんじゃないかと。君も……」

「ありがとう。でも、私は覚悟をしてるから」

「姉さんと同じことを言わないでくれ」

 私は小さく笑った。

「母さんは人を殺さずに羽を摘む事が出来た。私にはそれが出来ない。母さんとは違う。沢山摘んで沢山殺した」

「力の事を言っているんじゃなくて……いや、すまない。僕は、もしかしたら那由﨑君がどうにかしてくれるんじゃないかと、そんな希望を持ったりしているんだ」

「碧が?」

 思わず笑ってしまった。

「彼は僕と違って羽が見える。でも、僕はあの過ちを繰り返したくはない」

「だって、話してしまったんでしょ?」

「ああ。」

「碧に私を助ける覚悟……できるかしらね。」

「僕の覚悟じゃ及ばなかった。」

「叔父さん……。碧の事をお願い。羽が見える事がお祖母様に知られてしまったら、どうなるかわからない」

「わかった」

 叔父さんの酷く疲れた羽にも少し光が戻っていた。碧に懸けているみたいだ。だけど、今度もし失敗したら、碧が死んでしまうかも知れない。そんな事になるぐらいなら私が犠牲になるだけで問題ない。

 私は切浄の儀まで、せめて普通に、ごく普通に学校生活を送ろう。



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