ニ、神罰

ニ、神罰


 学校で空神とクラスが違うのが救いだった。何時もどおりの空神と、学校での空神は明らかに違う。学校だと、無風丘でしてた会話の威圧感はない。けど、僕の言葉が全部通り抜けていっているように思える。それがなんだかつらい。


 純は今日学校を休むとメールがあった。純は心配ないとか言っていたのに風邪をこじらせて休んでしまった。

 今日の朝、昨日の出来事を伝えようと思っていたのに。

 仕方がないから空神から話してもらったことをメールで伝えた。羽見の儀式のこと。転校していった先の事件は自分がやったと言うこと。羽は隠せること。人は羽を摘まれたら死んでしまうということ。空神の羽摘み遊びは今も変わらないこと。最後のは伝えなくていいか。

「わかった」

と、短い返信だけあった。風邪は結構重くなってしまったのだろうか。


 お大事にと返信を書き終わったあと、総一が僕の机の上に座り込んできた。

「ペキ。お前、昨日の放課後どこ行ってたんだよ」

 こいつはどうしてこう情報が早いんだ。

総一は机の上から体勢をずらしてストンと自分の席に坐った。そして僕がやましいことをしているのを断定しているような目で睨んできた。

「自転車で爆走してたそうじゃないか」

「爆走したい気分だっただけだよ」

 総一は手を組んで、それを後頭部の方へもっていき、背筋を伸ばす様な体勢をしている。

「不思議なんだよお前。だいたいの女子と仲良く話してる。それなのに誰とも付き合ってない。仲良くなったら付き合うのが普通だろ」

「それは普通じゃないだろ」

「ペキはいつものんきでなよなよしてんだろ。そんなお前が自転車で爆走するって、何事かと思うだろ」

 確かにそれは言えてる。そこまでのんきなつもりはないが、急いだり焦ったりしないよう予め考えてる気がする。人の目は何処にあるかわからない。今度から気をつけよう。

「逢瀬だろ」

「ち、違うよ」

 総一には空神のことは話せない。

数秒ほど僕の目を覗き込んでいたが「ま、いいや」と言って前へ向き直った。聞き出すことを諦めてくれた。僕は嘘が下手だから、たぶん言えない事情を察してくれたんだろう。


 放課後は純のクラスへ行っても意味は無いけど、やはり空神が少し気になる。

「お。那由崎。希崎君は休みだよ」

 日野さんでも純の事は君付けなのか……。

「あ、そうなんだ。風邪?」

 知っているけどとぼけて聞き返してみた。

「そうらしいね。いつも風邪引いてるような雰囲気だから困る。元気な時は元気でいてほしいよ。じゃな」

 そう言うと体育館へ一目散に駆けて行った。日野さんらしい。

「希崎君、大丈夫かな……」

 日野さんの後ろから純が居ない椅子に向かって君嶋さんが呟いた。君嶋さんの声はふっと消えてしまいそうなほど弱々しい。その横から空神が僕に聞いてきた。

「那由崎君。希崎君と仲が良いんでしょ。メールとかで聞いてないの?」

 空神は、僕が純の事を知っていると気づいていて、敢えて聞いている。そんな風な目をしている。

「いや。二日前は心配ないって言ってたんだけどな」

 羽は隠せる。でも、僕は羽の隠し方はわからない。ただでさえ嘘が下手くそだから、少し嘘を付いてみたかった。羽の変化は僕だって多少誤魔化せる。そう無言で空神に挑戦してみた。

「……そうですか」

 だめだった。空神が嫌そうな目をして僕を見ている。

そもそも羽は自分の意志で動かすことも難しい。羽は嘘を付いているとは言わない。だから変化を読み取って判断する。僕が嘘を付いていると空神は判断した。でもすぐに表情を戻した。男のナイショ話には介入しないでやると言っているような感じだ。

「今日は空神さんに美術部を見学してもらうの。良かったら那由崎君も来ない?」

「僕も行っていいの? 君嶋さん」

「もちろんいいよ。今年は入部する人が少なかったから、そのまま入ってくれると助かるんだけどな」

 君嶋さんは小柄だけど、こういう所は割りと押しが強い。入部するかどうかは置いておいて、僕も見学させてもらうことにした。

 君嶋さんの足取りは軽やかだ。


 美術室は三階だ。パソコン教室の真上にあたる。何回か来たけど、ここからの眺めは抜群だ。景色は凰鳴学園随一だろう。

 だけど窓側は上級生が使う場所らしい。先輩方がイーゼルに向かって真剣な表情をして絵を描いている。

「一年生は廊下側ね。そこの机に荷物置いていいよ」

 荷物が置いてある横に、パソコン部から流用されたパソコンが二台置いてある。旧式だがペンタブレットも繋げられている。

 私立だからデジタル系の機材も揃えてあげればいいのにと思うのだが、美術部の顧問の先生は頭が硬いと言う話を前に聞いた。

 アナログ主義で、デジタルで描く絵は邪道らしい。言いたい事は分かし、そういう先生も居るのだろう。美術系の大学入試試験でもデジタルで絵を描くような試験は無いと思われる。でも今や殆どがデジタルで、早いうちから使えるようになっているに越したことはないんじゃないかと、帰宅部の僕は浅はかにそう思ったりもしてしまう。

 そういった訳で、君嶋さんは美術部から独立して、漫画部を立ち上げたいという野望を抱いている。前にそう語ってくれたのだが、やはり現実問題難しいらしい。でも君嶋さんみたいに志を持っていれば、在学中に設立できるような気がしてくる。

「せっかくだから皆で何か描いてみよう。クロッキー帳は余ってるのあげるよ」

 絵は素描から。そういう教えが伝わってくるように美術部員には惜しげも無く配布されるものらしい。

「僕は絵心ないからな」

 と、予防線を張っておく。本当に絵が下手くそだからだ。

 ジャラッといろんな濃さの鉛筆が机に並べられた。好きに使って良いと言うことだ。「よしっ」と心の中で自分に掛け声を掛けて濃い目の鉛筆を手に取る。


 十五分ぐらい経ったら、描けたかどうか君嶋さんが聞いてきた。

 ……二人共早い。

 まずは部員の君嶋さんからと言う事で披露してもらった。

躍動感ある侍の絵だ。

「今度の漫画は時代物を描いてみたいと思って」

君嶋さんは小柄で小声な人物とはまるで逆の表現をする。雄大で筆圧が強めな線を描く。

 続いて空神の絵。南国の方にいる鳥っぽい。空神は細かく流れるような線で明るい感じに描く。

「なんて言う鳥?」

「カザリキヌバネドリ。グァテマラの国鳥よ。色付けしたくなるぐらい綺麗な鳥なの」

二人共流石と言わざるを得ない。絵は描いた数だけ上手く早く描ける。彼女達はきっとそれ相応に描いてきたんだ。

 二人の視線が、僕が胸に抱いてるクロッキー帳を見る。

「ほら。見せてよ」

 空神が急かす。仕方なく二人に見せた。

「猫……かな」

「かわいいかわいい」

苦笑いの君嶋さん。笑ってる空神。絵心が欲しい。

情けない絵を披露してしまったが、こういう平和な学校生活はたまらない。やはりこうでなくては。もう事件の事なんてどうだっていい気持ちになってくる。

「私は美術部にするよ」

「僕は遠慮しておく。結局パソコン部かな」

 一ヶ月以上机の中に放置していた入部届の紙についに記述する時が来たかな。

「那由崎君、なんで吹奏楽部に入らないの?」

 君嶋さんはこういう事をさらりと暴露してしまう。もちろん口止めとかをしているわけではないから、君嶋さんを責められない。

「君嶋さん。どうして?」

 空神が僕ではなく君嶋さんに優しく尋ねる。空神に父の事は話した事があるけど、母の事は専業主婦としか話してなかった。

 小さい時、空神が家へ遊びに来た時だってピアノは別室にあったし、ヴァイオリンも隠していた。なんとなく誰にも知られたくない。そう、なんとなく。

「この前駅で那由崎君のお母さんに会ったから。駅ビルの所でヴァイオリンの先生してるんだって」

 そのなんとなく知られたくない僕の気持ちは母には関係ない。母は話好きだからたぶんもうだめだ。

「ああ、母さんね、ちょっと昔弾いてたみたいだから。そして家計が厳しいからね」

「じゃあ那由崎君も弾けるのね」

 すかさず空神に問われる。それを僕は否定する。

「どうしてそうなるの。僕は弾けないよ。だから吹奏楽部には入れない」

そう。弾けない。金管楽器は弾けない。嘘じゃない。だから空神も納得するはずだ。

「え? 小母さん那由崎君も弾けるって言ってたよ」

 君嶋さん。なんて素直なんだろう。吹奏楽部に弦楽器は無いんだ。例え入ったとして何をしろと言うんだ。この他愛もないような事をさらりと受け流すのは難しい。気兼ねなく答えてしまう君嶋さんの性格を少し恨む。

「へぇー。そうか。吹奏楽部に弦楽器は無いものね」

「あっ! そうだったね。ゴメンね。那由崎君。でもヴァイオリン弾けるなら管楽器も大丈夫じゃないかな」

「……」

 君嶋さんは天然か。それは仕方ないとは言え、空神が怖い。声は普通なのに、屈服させられる感じだ。無風丘で感じた威圧感。

これはもう自分の『なんとなく』を説明しないと弾いてみろと言われそうだ。

「……なんとなく、聴かせたくないんだ。たぶんみんなと合わせるのが苦手なんだよ」

 どうも上手く説明できない。羽が見えるせいだからとは言えない。音楽も羽と一緒で、あまりにも繊細すぎる。とても羽に影響が出やすい。他人に。おそらく自分にも。

 空神はそれだけで納得してくれたように感じる。でも君嶋さんの羽を見るとハテナマークが描かれているようにもやっとしている。

「え、どうして? 那由崎君は誰とも仲良く話せてるのに」

「なんだかね、ダメなんだ。音楽になるとダメなんだ」

「対人恐怖症みたいなものね。きっと」

 空神がフォローしてくれた。羽が見えていなかったら本当にそうなっていたかもしれない。むしろ表情からそういう他人の感情を読み取ってしまえるような人は、対人恐怖症になってしまうのかなと思った。

「でも聴いてみたいな。せっかくだから」

君嶋さんが明るく言う。けれどそれに応えることは出来ない。

「えと、CDを聞くと良いよ。この学校の図書室には沢山置いてあるし、なにぜプロが弾いているんだから」

「もう、そういう事を言ってるんじゃないのに」

 君嶋さんが。クロッキー帳を一枚捲って、サラサラと描き始めた。ヴァイオリンの絵だ。見なくても直ぐに描ける所は凄い。

「はいこれ」

「おぉ。流石だね」

「報酬は一曲ね。いつでもいいから」

 ダメと伝えても君嶋さんは折れてはくれないらしい。だけどこういう頼まれ方をされるのはそんなに悪い気はしなかった。


美術部には最後までいた。僕は、下手な絵を量産しただけだった。コツみたいなのを教えてはもらったが、やはり上手くはならない。きっと途方も無く描いていかなければならないのだろう。

 外はもう暗くなっていた。部活に最後まで出ると、このぐらいの時間になってしまうか。

 帰り道は三人で帰る。と言ってもバス停までだが。

「これで部員が一人増えた」

 君嶋さんは嬉しそうだ。スポーツをしている空神も良いと思ったが、やはり美術部の空神は良いと思う。

 中一の時、美術部に居た時の彼女を思い出す。その時見えた彼女の羽を重ねてみたりした。今の空神の羽は……。

「それにしても、那由崎君には驚いたよ」

「え、何が?」

「音楽ができる人って、大抵絵も上手い印象がするんだけどな」

 空神は僕が描いた絵を思い出してくすくすと笑っている。

「絵の神様を笑かす自信はある」

 すると君嶋さんがとてもマジメな顔で僕の冗談に突っ込んでくれた。

「絵の神様は下手な絵を笑ったりしないよ」

中途半端な冗談を言うものじゃない。君嶋さんはそれほど絵に対して真剣なんだ。真剣故に僕の絵を正直に下手だと断じてくれて切ないよ。

「きっと絵の神様が笑う時は。絵を描く人も見る人も笑顔になった時ね」

 空神は絵に対する嘲笑という意味ではない。君嶋さんもそういう事を言いたかったんだ。

「そうそう。下手だけど笑ってもらえたら描いた甲斐があったよ」

「那由崎くんも美術部に入ったら上手くなるのに。今からでも遅くないよ?」

「いや、パソコン部で」

 君嶋さんも食い下がるな。

「もう描いてくれる事はないのかな。記念に那由崎君の絵、貰っておけばよかった…か…な」

 話している語尾がゆっくりとなったので、どうしたのかと思って空神を見ると、表情が一変している。視線の先は僕を通り越して校舎の方を見ていた。

 善くない未来が見えたんだ。

空神の視線の先を見ても誰もいない。何が見えたんだ?

「空神さん?」

 君嶋さんの呼びかけに応えずに空神は走りだした。

「どうしたんだろうね。忘れ物かな。ちょっと見てくるよ。君嶋さんは先帰ってて。おーい空神」

 君嶋さんを心配させないように穏やかに、とぼけたな感じの声色で誤魔化し、空神を追う。

 心の焦りが鼓動を早くする。

部活を終え、中庭の道を歩いていた総一が、空神ににこやかに話しかけた。

「お、みうちゃん。忘れ物?」

 空神は総一を無視してその横を駆け抜けていく。総一はその後に続く僕に問いかける。

「ペキ。どうしたんよ」

「わからない」

 総一は僕の後ろに何も言わず走って付いて来た。総一なら何か危険な目にあっても対抗出来るかもしれない。毎日鍛えている筋力は相応のものだろう。

 空神は靴のまま体育館へ入っていった。

「おかしいな。鍵は先生が閉めたはずなのに……」

 出入り口で総一が呟く。

 靴を脱がないで入っていった空神よりも、鍵の事を気にしていた。鍵は部長でなく先生が閉めた。僕はそれで空神が誰を見て、どういう未来が見えたのかなんとなくわかった気がする。

 先に入っていった空神に続いて、僕らも体育館に入る。中庭の外灯のおかげで体育館全体は真っ暗ではない。

空神が立ち止まった場所は、体育倉庫の前だ。

 そして思いっきり引き戸を開けようとした。静かだった体育館に音が響く。開かないのは承知だったと思う。体育倉庫は内側からは鍵が閉めれないようになっている。したがって中から何かで押さえているはずだ。

 すると中から呻く声が聞こえる。助けを求めているように聞こえる。くぐもった声の主は……日野さん?

「桜っ!? そこにいるのか!」

 僕より早く総一が日野さんの名前を呼んだ。そして慌てて倉庫前に行く。

「おい、何があったんだ」

「ちっ。うるせぇなぁ。騒ぐな」

 永田先生だ。普段の口調ではない。あの僕が嫌な羽だと思っていた形と色。今発した声と羽が同じ感じだった。

「てめぇ何してんだよ!」

「その声は手塚か。ったく上手く時間を見計らったのによ。ついてねぇ」

「くっそ先公がっ! 開けろ! おい!」

「直ぐ終わるから待ってろ。それ以上騒ぐとこいつ殺すぞ」

「ぐっ」

 総一がその言葉で怯んでしまった。こんな短絡的な脅迫をする先生だったとは。

自分の犯行がばれて、もはや言い逃れは出来ない。と言う事は犯行を終えてから素直に自首するつもりなのか。

だからって……。このまま待ってられるか。

僕は扉に体当りした。

「ペキ!」

「引き戸をレールから外せば、扉ごと押し倒せるかも」

「よし!」

 総一と声を合わせて扉に体当たりをする。映画なんかではタックルをするとドアが直ぐに開いたりするけれど、実際は、なかなか上手くいかない。

 三度目という所で、僕と総一の後ろから空神が来た。

「どいて」

 僕と総一は空神の手で押し退けられた。

 空神の髪が生きているように靡き、瞳が燃えるように赤くなっている。あの時と一緒だ。

総一は何者なんだと思うような表情で空神から後ずさっている。

 空神に人の羽をこれ以上摘み取ってほしくない。それは紛れもない殺人だからだ。たとえその行為が犯罪として立証出来なくても、空神が人を殺すことに変わりはないんだ。だけど、今、日野さんを救うには、空神の力に頼るしかない。だけど……。

「空神!」

空神に触れようとした瞬間、僕は風圧で弾き飛ばされた。尻もちをついた僕は空神を見上げた。

 空神は今、苗字の如く空の神に見える。

 空神の右手が扉の向こう側にいる永田先生を裁定するように差し出された。空間が縮まったような後、音もなく空間が弾けて広がった。さっき空神に触れようとした時の風圧は無く、フッとした風を感じるだけだった。

 現象は直ぐに収まった。空神の髪も瞳も元通りだ。放心しているように見えるけど、意識はあるように見える。

おそらく犯行を犯そうとした永田先生は、もう羽を摘みとられてしまっただろう。

出来るなら空神を止めたかった。僕と総一で永田先生の犯行を止められたらと思った。もしかしたら空神には、僕と総一が間に合わない未来を見たのかもしれない。

 空神が扉から数歩下がって僕らを促す。

「碧。いつまで尻もちついてるの。手塚君も」

「ごめん。いくぞ、総一!」

「あ、ああ」

 三度目のタックルで引き戸をレールから外した。

バタンと言う音と共に体育倉庫の中が見える。

 デジカメを持ったまま永田先生が無様に死んでいる。羽はもう無い。日野さんを脅したと思われるナイフも近くに落ちていた。

 日野さんは明かり取りの窓の下にいた。後ろ手にガムテープを巻かれ、口にもガムテープが巻かれている。

 総一が急いで駆け寄り、そっとガムテープを外す。

「総一……。そういちぃ……」

 日野さんは総一にしがみついて号泣した。

 僕は総一の腕の中で泣いている日野さんの状態を確認するため、横から覗きこむ。

殴られた痕はあるけれど衣服はそのままだ。ギリギリの所で助けられたと思う。この恐怖心は二度と取れる事はないだろう。

 でも、とにかく救えたんだ。空神のおかげだ。

 空神にお礼を言おうと振り返る。

「空神?」

「大丈夫。慣れてるから……」

 空神は胸を抑えてうずくまった。

「全然大丈夫じゃない。顔が真っ青だよ」

 僕が空神を支えようとしたかがみ込んだ時、空神の意識が途絶えた。危うく頭を床にぶつけそうになってしまったのを寸前の所で抱え込む。とにかく救急車を。

僕はスマートフォンを取り出して救急に番号に掛けた。

『火事ですか、救急ですか?』

 初めてのことで戸惑ったが、深呼吸をしてから答える。

場所と患者の状況。自分の名前を伝え、最後に救急から警察に連絡を頼んだ。これでいいだろう。後は先生に報せなければならないけど、空神をこのまま放ってはおけない。救急車が来れば先生も気が付くだろう。

 空神の左手首を取って脈を計ってみる。脈が早い。意識を失っていても羽が見えない。見えた所で僕に治療できるはずもないのに。

 意識を失った人間は、とても重たく感じる。それは命の重みそのものが僕の腕が感じているからかもしれない。

 顔にかかっている髪をそっと払ってみる。人の表情をこんなに近くで見たのは初めてかもしれない。羽なんて見なくても苦しさは分かる。

 苦しさが少しでも和らげばと祈りを込めて空神の肩を抱き寄せた。


 どのくらいこうしていただろうか。空神の意識は回復しないままだが、日野さんが少しずつ落ち着きを取り戻してきている。日野さんは総一に視界を遮られてこっちは見えていないけど、空神が意識を失って倒れている状況は分かっているはずだ。そして永田先生が突然倒れた事もきっと疑問に思っているだろう。

 そんな日野さんの心の声を聞いたかのように総一が僕に話しかける。

「ペキ。後でちゃんと話せよ」

 すこし厳しい総一の声は、僕を責めている。僕が空神の異能を知っていたからだろう。僕だって昨日聞いたばかりだったし、空神の能力を目の当たりにしたのはあの時以来だ。だけど、こんな非現実的な事柄も総一は絶対に信じてくれる。もちろん日野さんも。

遠くにサイレンの音が聞こえる。思っていたより早い。そして徐々に近づいてくる。

殆どの生徒が下校している事を祈る。サイレンの音を聞きつけてわらわらと野次馬が来られてはたまったものではない。

救急車のサイレンは中庭で止まった。

 最初に体育館に入ってきたのは杉浦先生だった。入ってから直ぐに体育館の電気をつけて、僕等の方へ歩いてくる。その後に担架を持った救急隊員の人が続く。

「那由崎。一体何事だ」

 羽がとても怒った色をしているけれど、とても心配してくれている色が交じり合っている。安心できる先生だ。

「患者はこの学生ですか?」

 体育倉庫の外側に居た僕と空神に救急隊員二人が駆け寄ってくる。

「はい。呼吸はあるけど、意識がないんです」

 一人が呼びかけをして、脈を確認した。

 空神の意識を確認している救急隊員の横から、杉浦先生が体育倉庫の中を見て驚いた。

「永田先生……? 那由崎。それ貸してくれ」

 杉浦先生は仕舞わず横に置いておいた僕のスマートフォンを取った。一応こういう類の物は学校に持ってきてはならない規則にはなっているが、咎められることはなかった。むしろ先生なら自分のを持っていて欲しいと思う。

杉浦先生は永田先生が倒れている現場の写真を数枚撮った。事件だと確信して撮っている。

「一応な。……警察の人に説明する時、必要だろう」

「倒れているのは先生ですか?」

 もう一人の救急隊員の人が杉浦先生に問いかけた。驚いている。当たり前だ。近くにナイフにデジカメがある。そして僕等が先生を助けようとしていない。ただ、救急救命士にとっては犯罪者かどうかは関係ない。直ぐに永田先生に駆け寄り意識と脈、呼吸を確認して心配蘇生法を行った。

 杉浦先生は奥にいる二人に屈みこんで名前を確認した。

「手塚と……日野か?」

「そちらの生徒に怪我は? 歩けますか?」

 総一が日野さんに手を貸して立ち上がらせる。

「顔に打撲の痕がありますが、軽症です」

 杉浦先生が答える。

「おい!」

 空神の様態を確認していた救急救命士が永田先生を診ていた人に呼びかける。その人が頷いて、何かを了承したような感じだった。永田先生の救命措置を止め、担架で空神を救急車へ運びだす。戻ってきて、今度は永田先生を運ぶ時に杉浦先生に付き添いをお願いしていた。

「私は此処に残った方が良いでしょう。付き添いは別の先生に頼むことにします」

 杉浦先生が入口の方へ小走りに駆けていく。どうやら何人かの先生は生徒などが入ってこないよう体育館の前で陣取っていたらしい。

 日野さんも乗ることが出来るようなので、患者は同じ救急車で全員運ばれた。

残った僕と総一に杉浦先生が見下ろすように話しかける。背は僕等よりだいぶ小さいのにとても大きく見えた。

「状況が状況だ。だが解せん。お前たち二人がやったようには見えなかったが」

 永田先生の事を言っている。もちろん僕等はやっていない。空神がやったんだ。だけど空神が永田先生の羽を摘み取ったなんて言えるわけがない。

「わかりません。僕達が扉を外した後はもう倒れていました。空神はショックで卒倒してしまった感じでした」

「……そうか」

 それ以上は何も聞かれなかった。杉浦先生は空神のことを知っているのだろうか。

 僕と総一は体育館の隅に居ろと支持された。


パトカーは救急車よりもだいぶ遅れて到着した。対応は杉浦先生がしている。現場の説明と僕のスマートフォンで撮った写真を警察の人に見せている。そして、警察官の一人が僕等の下にどういう状況だったか尋ねにきた。

 おおまかに現実的な理由を答えておいた。空神が永田先生の違和感に気がついたこと。体育倉庫の中から日野さんのうめき声が聞こえて不審に思って助けようとしたこと。永田先生は、既に死んでいたこと。

 警察の人も特に気にせず僕等の話を聞いて、最後にはお礼まで言ってくれた。杉浦先生が伝えた内容の確認だけだったのかもしれない。


 僕と総一は早々に帰され、無言で校門まで一緒に歩き、「じゃ」と言う短い別れの挨拶の後、総一は寮へ。僕は家へ。

街頭の少ない帰り道、空神が苦しんでいる表情を思い出す。

永田先生は確かに悪で、ああなってもだれも同情なんてしやしない。天罰だ……と思ってしまうようなものだけど。実際罰を受けているのは、空神自身なのではないか。その能力を使うが故に。

 僕はそんな風に考えていた。





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