第十一話 誘拐先、大空
確信した。あ、これは死んだな。
この、たった一言を脳内で呟く間に、いったい何が起こったか。
状況が整理できたのは、竜の背中、その鱗にどうにかはり付いた時だ。
まずは、そう―――――何かに呼ばれた気がして、室内にいた綾人は振り向いた。
直後。
窓の外に見えたのは、目玉。しかもとびきり巨大な。
室内を無遠慮に覗き込む縦長の瞳孔と、目が合った。
呆気にとられる間もあったかどうか。
刹那。
猛烈な破壊音と共に、礫が綾人の身体を叩く。激しさに、皮膚が痺れるかと思った。
舞い上がる粉塵。視界がいっきに掻き曇った。直後、巨大な顎が綾人に迫り。
突き立った牙の鋭さに、綾人は咄嗟に身を翻した。
―――――この時、当地の鬼人たちが着る、和装に似た服に着替え終わったばかりだったのは、幸か不幸か。
綾人の、襟が。
その下あごから突き立った左側の牙の先端に、引っかかった。
一度の瞬き、その間に景色は一変。釣り上げられた魚のように、綾人は室内から外へ引きずり出され―――――振り回されたせいだろうか。
牙から襟が抜け落ちる。結果。
前触れなく、身体が宙に放り出された。
眼下に見えたのは、古城の屋根。立つのは難しそうな青色の急勾配だ。そんなところへ、
「落ちて、」
綾人は空中で、身をひねる。ままよ、とばかりにそばを滑空する竜の身体に腕を伸ばした。
「たまるか!」
指先が鱗に引っ掛かる。死に物狂いで掴みかかった。
どうにかこうにか、全力ではり付く。ちなみにどうやったかは記憶にない。竜体にしがみつくなり、どっと全身に冷や汗がふきでた。
心臓がうるさいくらい打ち鳴らされる。…以上が、冒頭の状況に至る成り行きである。
直後。
竜―――――長い蛇体の龍ではなく、西洋の竜―――――が翼を力強く一打ち。
屋根の端から、舞い上がった。ぐんと高く大空へ向かう。
喉をまっすぐ伸ばし、垂直に、空へ。その背にしがみついた綾人は思った。
これ、今、落ちた方が、いいのかもしれない。
何が正解か、わからなかった。
真剣に悩んだのは、一瞬。
凄まじい速度に乗ろうとしている、竜の身体が切り裂く風の音の中。
ばかになりかけた聴覚を、鋭く澄んだ声が叩いた。
「御方!」
声は、下方から。屋根を見下ろせば、
「…うっそだろ…」
もう、壁と言っていい急勾配の青い屋根の上。
危なげなく駆け登ってくる、スーツ姿の麗人が見えた。
怜悧な美貌をさらに真剣に引き締め、こんな場合にも見惚れるほどきれいな彼女は―――――玄葉。ちなみに。
彼女の手には。
―――――一振りの刀。
そう、剣ではない。日本刀に似ている。だがおそらく、似てはいるがそのものではない。
…でもそれで何すんの。
綾人が心の中で呟くのと同時に。
タン、と屋根の一番上を玄葉は軽く蹴った。恐ろしいことに、たったそれだけで、彼女は竜との距離をいっきに詰めた。
動きは、力任せとは程遠く、驚くほどしなやかで身軽なのにもかかわらず、だ。
竜のうねる尻尾をものともせず、掴んだ。と思った時には、その上を駆け上がってくる。繰り返すが、竜は―――――垂直飛行している。
気付けば彼女は、綾人のすぐ隣に立っていた。この状況、身体技能が優れている、という説明だけでは足りない。なんにしろ。
見上げれば、凛と伸びた背。文句なしに格好いい。
対して綾人は、竜の背にみっともなくへばりついている。
落差に少し、かなしくなった。
玄葉は、竜の後頭部を睨みつける。とはいえ、表情は怒っていると言うより、冷たく凍えていた。躍動する竜の筋肉の上、危なげなく立ち、背を踏みつけにした玄葉は、針のように鋭く呟く。
「慮外ものが」
問答無用の気配に、続く鍔鳴り。
鬼気に当てられたか、竜が不快そうな咆哮を上げた。そのくせ、何かから逃げるように、スピードを上げる。綾人は咄嗟に、
「待った!」
風にかき消されないよう、頑張って声を張った。
「まさか、斬ろうとかしてないよなっ」
玄葉は、視線を竜の後頭部から離さない。それでも律儀に答える。
「一刀両断あるのみです」
なしだろ。
「竜と心中するつもりか!」
下を見る勇気はないが、少なくともこの高度で落ちたら死ぬ。
確信し、思いとどまれ、と叫んだ綾人に、
「いえ、御方は死にません」
玄葉は断言。迷いひとつない真剣さに、うっかり、そうなんだ、と納得しそうになる。
いやいやいや。そんなわけあるか。
何言ってんの、と無言で訴える綾人を見下ろし、玄葉は眩しそうに目を細めた。
「今も身にまとっておいでの、輝くご神力をお使いになってください」
それでいて、綾人の顔が見えにくいのか、視線の焦点が合っていない。綾人を見るのが辛そうな様子で、言葉を続ける。
「そうすれば、何でもできます」
…なんでも? そんなわけ、―――――ああ、いや。
そろそろ、綾人にとって、違和感がはっきり形になってくる。
御方とか言う立場になってから、どうも誰からも、真っ直ぐ見られない気がしていた。いきなり目が痛んだような顔をして、俯いてしまうのだ。
なんか変だ。漠然と感じた。
会った相手は少ないし、玄葉以外に会話をした相手と言えば、はじまりの神樹と名乗る存在くらいである。それでも。
自覚などないが、おそらく…間違いない。
「…なあ、その『輝く』って」
妙にしずかな気持ちで、半ば確信を持ちながら尋ねた。
「比喩とかじゃなかったり…するのか」
ガチで?
瞑目する玄葉。観念したようにも、納得したようにも見えた。言いにくそうに口を開く。
「―――――…御方は、太陽のごとく輝いておいでです」
…………………………………。
「なら、竜がいきなり襲ってきた理由ってもしかして」
玄葉は、一瞬、躊躇った。だが、はっきり答える。
「おそらく」
………………………………光ってる、から?
まず、綾人は呆気にとられた。次いで、顔が燃えるように熱くなる。恥ずかしい。よくわかりもしない理屈で、知らない間に変に目立っているとか、勘弁してくれ。
輝くって、単に光ってるってだけなら、まだいい…いや良くないが、害にならないならまだましだ。しかし。
ちら、と綾人は探るように玄葉の顔を見上げる
彼女の顔色は悪い。先刻、部屋から出て行った時もそう感じた。
もしかして、―――――その、光っているという状態は、見る者に害も及ぼしているのではないだろうか。
ついに、綾人は察した。
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