第三話 10分間救世主


よくよく見れば、胸元に、先ほど見た赤い勾玉が揺れている。


彼は興味深げに目の高さまで袖を持ち上げ、ひとつ頷いた。






「ふむ、白がそなたにとっての『神聖』『清浄』『高貴』であるか。光栄なことだ」






その手で胸をおさえ、いっとき気を呑まれた綾人に楽しそうに話しかける。

「そなたも名乗れ、願いを叶えてやろう」

一瞬で、我に返った。





―――――帝王。





こいつだ、コイツで間違いない。

思わず手を伸ばし、腕を掴んだ。






「俺たちを元の世界へ帰してくれ!」






気持ちが先走って前のめりに叫ぶなり、悔いた。恥ずかしくなる。

こいつは、名乗れと言った。何やってんだ。


礼儀は大切だ。


どんな前置きもなく、いきなり願いだけ叶えろって言うのはひどい。

「あ、いや、ごめん。すみません。俺の名前は」

青年から慌てて離れた。恥ずかしくなって顔をこすり、名乗ろうとするなり。


「良いよ。帰してやろう」


人間の形をしていながら御神木と名乗った青年は、簡単気に頷いた。

「されど」

綾人の顔が喜色に輝くなり、鮮やかに微笑みながら残酷に続ける。






「帰せるのは、そなたと共に訪れたものだけだ」






それは、つまり。

「…え?」

綾人の口から、間の抜けた声がこぼれ落ちる。



―――――綾人は、帰せない。そういう、話か? どうして。



青年は、詩でも吟じるように告げた。





「我は我のみで力をふるうこと能わず」





声も表情も慈悲溢れる優しさで満ちているのに、語る彼が、綾人にはひどく冷たげに感じられた。

「原初より定められた掟である。よって、触媒が必要となるのだ。触媒となり、この世と我の力をつなげる者は、この世で御方と呼ばれる」


「そ、れなら。その御方って言うのはどこに」

「そなたが先ほど乞食と呼んだ者がソレよ」



あまりな話に言葉もない。なんだって? さっきの、髑髏が?



「いまやそれは砕けてしもうた。今、御方と呼ばれる立場に立ちうるは、御神木たる我が招き、我の目の前におるそなただけ」




「―――――だったら!」




なってやろうじゃないか、と綾人が身を乗り出すのに、微笑んだまま青年は告げる。

「御方となれば、元の世界とやらには帰れぬ。なぜなら、我に、この世界に、存在をつながれてしまうからな」


綾人はようやく理解した。はじめに、青年は言ったではないか。






―――――帰せるのは、共に訪れたものだけ。






青年には、元の世界に帰せるだけの力がある。

だがその力をふるえるのは触媒たる御方のみであり、ただし御方となれば、…綾人は元の世界に帰れなくなる。



―――――なんて。


むごい、選択肢だろう。



綾人は言葉もなく押し黙った。代わりに、強く両の拳を握り締める。

自分は帰れない。なのに、一緒に連れてこられたヤツだけは帰れるって? そんな、話。


…あるかよ。




「我は選んだ」




やさしげに微笑んだまま、美貌の青年が残酷に告げる。

「残るはそなたの選択のみ」

綾人は無言で睨みつけた。御神木を名乗った青年は、涼しい顔で受け流す。


その腕がつと動き、前方を指さした。





「ご覧」





不貞腐れた顔で、青年から目を逸らすようにそちらを見遣れば。


―――――荒野が見えた。

そこには。





不安そうな、幼馴染の顔がある。二人、支え合うように立っていた。さらに、その向こう。


甲冑を来た人影が、何かを察した態度で、次々と跪いていく。先頭は、あの。



血塗れの、黒と白。





その時になって、気づいた。


綾人は、先ほどの荒野とは隔絶した場所に立っている。

周囲に満ちるのは、白い光。眩しさはない。そして、上下左右の感覚もなかった。

どこかに落ちていきそうな、それでいて車酔いに似た感覚に襲われる。

慌てて不動の青年に視線を固定した。


視線を合わせるなり、彼は断言。





「御方がいなくなれば、あの者らもまた消滅する。世界は消滅する故」


―――――なんだって?





あの者ら。それは、つまり、あの、甲冑を身に着けた彼らのことか。

綾人は顔を歪めた。ちくしょう。

つまり今、コイツは。







大勢の命を、揺らぐ、綾人の心の天秤に乗せた。容赦なく。







ぐらぐらと頭が煮立つ。

怒りで。

自分でも驚くほど冷え切った声が、震える唇からこぼれ落ちた。



「…ひきょうもの」



綾人は帰りたい。大勢の命? そんなもの知るか。


叫んで、投げ出してしまいたい。




二人だけは帰せる。そうすると、綾人は帰れない? ―――――だったら、はじめから帰してやったり、なんか。




…ああ、でも。だけど。


「どうして俺が!」

激情のままに、青年の胸に拳を叩きつけた。

悔しいことに、彼は微動だにしない。


静かに綾人を見下ろすだけ。



「なんで俺を選んだ!」



「それ、は…」

青年は、ふ、と目を伏せた。

長いまつ毛が精悍な頬に影を落とす。直後。


―――――青年の姿が消えた。


ぎょっと綾人が息を呑めば、




「もう、姿を保つことすら難しい」




足元から、幼い声が上がる。


見下ろした、綾人の目に映ったのは、

「こ、ども?」

尻もちをついた童子。幼子は紺碧の目を綾人に向け、すまなさそうに笑った。





「許せ。子供相手では怒りもぶつけられぬだろう。せめても、と大人の姿を保っておったが…限界が間近でな」


―――――なんだ、それ。





綾人は唇を真一文字に引き結んだ。何も言えない綾人に、童子は、慈愛に満ちた表情で告げた。





「そなたが何を選択しようと、誰も責めぬ。無理は承知。全員、共に滅びるのも、一興よ」





直後。


綾人の姿は、荒野に立っていた。

「あ、綾人!」

優香を支えながら、恭介が近付いてくる。


「どうだった? オレら、帰れるのか?」

不安そうに。だが、それでいて、まだ、何とかなると楽観している節があった。

恭介とは、そんな人間で。ある意味で、救われる部分もあったけれど。



この時ばかりは、―――――腹立たしかった。



綾人は答えず、視線を彼方に投げる。

荒野、硬い土の上。


甲冑姿の者たちは、これから何が起こるか知っているように、粛然と跪き、微動だにしない。


彼ら以外に戦っていた者は、すべて地に伏している。

あの、小型の恐竜みたいな生き物もだ。



「なんで、黙ってるのよ、綾人」

半分泣き顔で、優香が弱り切った声で言う。

「ね、帰ろ?」


頼る声に、思わず、睨みつけた。びくり、と優香の肩が揺れる。



状況、すべて―――――最低だ。

自分に対して、思う。まだ、悩むのか。この期に及んで。



なんに、したって。



道はもう、一つしか残っていない。


俺は帰る。

今、無理だったとしても、いつか、俺は。

…帰ってやる。決して、諦めない。

だが、―――――今は。




その『いつか』を用意する道を、まずは作らなければならない。




先ほどの青年が、本当のことを言っていたかは分からない。けれど。

頼るとしたら、彼の言葉しか残っていなくて。

綾人は、ただ。






自分で自分が最低だと思う選択を、したくなかった。


他の何を誤魔化せても、自身だけは誤魔化せない。






なら。

選ぶものは、もう、決まってる。





「そうだな。帰ろう」





淡々と呟いた自分が、どんな表情をしていたか。

綾人には分からない。

なんにしろ。


さっき、青年は言った。






名乗れ、願いを叶えてやろう。







幼馴染たちが、ほっと安堵の息を吐きだす空気を感じながら…この期に及んで、悩む気持ちを捨てきれないまま、綾人は。


死にそうな気分で、告げた。静かに。己の、名を。







「藤綾人」







声は、半ば、震えていた。怒りにか。絶望にか。悲しみにか。

刹那。


歓喜に震える声が、天空から轟いた。






―――――聞き届けたり!


雷が落ちたかのような衝撃が走り、全身が痺れる。



―――――世界よ、讃えよ、待ち望んだ者は、訪れたり!






よろめき、後退した、綾人の視界から。


気付けば、幼馴染たちの姿は消えていた。

目の端に、腕時計が見えた。




バイト先のスタッフルームを出てから、ジャスト10分。




同時に。

手首に巻かれたタグが映る。そこには、こう書かれていた。




―――――丈夫で、長持ち。




なぜか、文字が読めるようになっている。

その不思議を思うより先に、タグをちぎり取った。思い切り地面に投げつける。


嫌いな虫でも潰すように、何度も踏みつけた。


理不尽に対する怒りが消え去った時、空白になったような心で、周囲を見渡した綾人は。

足元で何かが動いているのに気付いた。


目を、向けるなり。






―――――ドッと奔流の勢いで、ソレが地中を駆け巡り始めたのが感じ取れる。






見えなくても分かった。これは、根だ。


地中、とぐろを巻く竜のように、遠くを目指し、伸びていく。

地上には、綾人の膝の高さほどもない小さな木が、いつの間にか生えていた。


小振りな枝が透き通るような黄金の葉を茂らせ、さわさわと揺れている。




大地の揺れに立っていられなくなった綾人を、黒と白の甲冑二体が壊れ物でも扱うように左右から支えた。




振り払う気力もなく、綾人はその木を疲れ切った目で見下ろした。














母さん。


兄貴。


妹よ。




褒めてほしい、あなたたちの家族は、10分間で世界を破滅から救ったようだ。




ただし、その弊害として。


しばらく、帰れそうにない。










…俺の今日の晩飯は、兄貴が食っといて。

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