植木屋さん

 二件隣の家に植木屋さんが入っている。


 かつては私の家も義父が手配した植木屋さんが年に一度入っていたが、今は入っていない。かつて我が家に来ていた植木屋さんは震災で流され、廃業してしまった。代わりと言っては何だが、今はこの私が庭の手入れをしている。


 二件隣のお宅も、我が家と同じような状況、家族構成だ。家を建てたご夫婦はおばあさんだけがご存命ではあるが、おそらく90を超えていて、デイサービスのお世話になっている。妻によれば、週に何日か、離れて住む娘が車で迎えにやって来るという。かつてはもちろんお元気で、私もよく話をしたことがあった。私や妻からすれば、いいおばあちゃんだ。


 おばあちゃんは息子夫婦と住んでいた。夫婦には子供が二人いる。しかし一昨年、息子さんががんで亡くなってしまった。私達と同世代の、見るからに優しいお父さんだった。がんを発症し、少しずつ弱ってしまい、最後には「俺、悔しいよ」と言いながら亡くなったという。


 残されたのは嫁、息子、娘だ。息子も娘も働いてはいるようだが、私を見ても妻を見ても挨拶もしない。そして困ったことには、嫁も同様なのだ。傍から見るなら、嫁は義理の母が亡くなり、この家が自分の物になるのを待っているような感じに見える。そうとしか見えない。それを家の持ち主であるおばあちゃんが、必死で守っているというような状況だ。


 できた嫁なら、義母の世話を形式的にであれするだろう。いくらご近所関係が冷え込んでいるとはいえ、袋小路に三件並んだ家同士、外で会ったなら顔を合わせて会釈くらいはするのが常識というものだ。しかし、この嫁には常識が通用しない。それが娘と息子にも引き継がれてしまっている。


 植木屋さんは今までも入っていたが、一日で簡単に済ませて帰っていた。しかし今回はかなり気合いが入っていて、外から家の中が見えてしまう位までに、強く剪定をかけている。まだ終わっていないが、雨の中の作業が続いている。メインの松の木二本がまだ手つかずなので、これだけでもあと一日はかかるだろう。


 家の中の状況というのは、傍から見ているだけでは絶対にわからない。その人たちが何を考えていて、どうなっているのかは、人の動きから何とか想像するしかない。本来そんな事はどうでもいいのだとは思うが、かつては親交のあったご近所同士なのだから、知っておくべきなのかな、という思いはある。


 我が家だって、義父は外面がいいので、傍から見れば上手く行っている家庭に見えると思う。しかし裏を返せば、いい人と言われることもよくある私が、家で自分勝手極まりなく、娘である妻をいいように利用しまくっている義父に対し、「こいつを殺してしまえば楽だろうな」と思わせるほど、家庭内の状況は悪い。ほぼ全てを、大病上がりの妻が受け止め、その愚痴を私が聞いているので、様子が外に出ないでいるだけだ。それを傍から見ている私は、夫として妻を守る義務を果たすべく、静寂な中にも、心の中では一触即発な日々を送っている。


 これこそが、高齢者殺人の真実なのだ。


 一応断っておくなら、私は理性で抑えることが出来ているので今は大丈夫だと思うが、この先の状況によっては、どうなってしまうかなんて全く想像がつかない。


 関わっている誰かが巡り巡ってこれを読み、彼の危険を察し、説得し、施設に入れてくれる事を切に願っているが、そんなことが叶うはずもない。



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