宝島社、頼む。

 「このままじゃ政治に殺される」


 凄まじいコピーと共に、新聞に全面広告が打たれた。


 広告主は宝島社である。



 今のコロナ対策に見られる政治の状況は、第二次世界大戦末期、幼い少女にまで竹槍での戦いを学ぶ事を強いたかつての日本政府のやり方と同じで、これは間違っている、このままでは殺されてしまう、何とかしてくれ、というものだ。


 この辺りの意見や見解は、ネットのニュースの下にあるご意見欄でいくらでも見ることができる。私なんかが意見するものではない。

 

 一つだけ言えるとするなら、今は静かな有事だということ。その有事に対して、民主主義の原則に則って私達が選んだお偉い方達が必死になって対策しているという現状だ。


 これが日本のやり方なのだと受け止めて、堪え忍ぶしかないだろう、というのが一応の私の見解だ。



 宝島社といえば思い出すのが、田舎暮らしの本である。


 宝島社は、私の人生に大きなきっかけを与えてくれた出版社だ。


 田舎暮らしに憧れ、宝島社の出版する田舎暮らしの本を読み、その中にあった綴じ込みハガキを屋久島パインに投函した事から、私の人生は展開した。同じような人が屋久島には結構いる。


 何かに応募したのか、きっかけは忘れてしまったが、お金をもらえる原稿というものをはじめて執筆したのも、この宝島社だった。一回目、屋久島から帰ってきた時に編集部から電話で連絡があり、屋久島でのとびうお漁師をしながらの田舎暮らしについて、原稿用紙四枚ほどの原稿を執筆し、宝島社に持って行った。


 その時担当してくれた編集者は今、編集長になっていて、数年前、田舎暮らしを特集するテレビ番組にも出演していた。


 書いたのはインターネットなどまだない時代だったが、私の執筆した原稿はそれなりに形になり、かろうじて残っていたとびうお漁船重丸の写真も掲載され、雑誌というものはこうやって作られるのだなと思ったものである。


 生まれて初めて原稿料をもらい、その年の年末には原稿料と書かれた源泉ももらった。普通の生活をしていたのでは決して味わうことのできない、何とも言えない似非作家デビューに似たような不思議な感覚に取り憑かれたのを思い出す。


 この原稿を書いたのは体調不良で屋久島から帰ってきた時だった。その後、佐川急便でセールスドライバーをし、再び屋久島に行き、「屋久島のとびうお漁師はトレーラー暮らし」のホームページを開設し、Web日記を書き、魚をネットでお裾分けし、ホームページからのオファーで数々のメディアから取材を受け、20ftのコンテナリーファー倉庫を神戸のユーエンさんから買い、カミサンと知り合い、屋久島を離れ、田舎具合と都市具合がちょうど良い仙台に落ち着いていたところに、屋久島時代の拙い文章を読んでくれていた方が検索していただき、ネット上で再開を果たし、こうして今も文章を通じて繋がることができている。


 全ては宝島社の田舎暮らしの本から始まっているのだ。



 宝島社は物凄い力を持っている。

 一人の男の人生を変え、カミサンとの出会いが生まれ、結果的に私を幸せへと導いてくれた。



 今の日本にだって、その同じ力は及ぶはずだ。

 あの広告が、日本を良い方向へと導いてくれると期待したい。



 

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