東京の両親


 父親は、金がない、といいながら、私達を育てた。


 母親は物静かだけれどしっかりとした人で、私と姉を支えてくれた。


 10歳までは世田谷の借家に住んでいたのだが、これがかなり見窄らしい建物で、トイレは汲み取り、水は井戸水、風呂はなし、のちに「ほくさんバスオール」を買って取り付けるまでは、近所に数件あった銭湯に通っていた。


 その中の一件の近くには、四谷軒牧場という牧場もあった。


 世田谷と言えば都会のイメージだが、昭和9年生まれの父曰く、世田谷は田舎なのだそうだ。かつては田んぼや畑が広がり、緑も沢山あった。そういえば、小学校に上がった時の同級生の家は、大きな農家の本家で、とんでもない家だった。


 こんな事があるので、私は今でも世田谷を勝手に田舎だと思っている。戦後10年位の感覚で父が話した事を受け売りにしている。まあ実際に、多感な10歳まで、小学校5年生の一学期までをここで過ごしたので、田舎と言えば田舎なのである。


 やがて、借家を取り壊し、アパートを建てるとかで、我が家は世田谷の借家から追い出される事になった。父親の同級生に弁護士がおり、何だか上手くやって頭金が出来たらしく、多摩ニュータウンの一角に無事、引っ越すことができた。


 多摩ニュータウンのまだ黎明期、昭和49年に完成したこの団地に、10歳から30歳まで住んでいた。すっかり高齢化が進んでしまったが、今でも父と母が住んでいる。父は昭和9年、母は昭和10年生まれなので、かなり弱っているが、老老介護で何とかがんばってくれている。これは感謝しなければならない。


 この団地は、かなり苦労して支払いが完了した。父はタクシーの運転手として、母は八王子の工業団地に、フルタイムのパートで働きながら、私達を育ててくれた。


 父は酒が好きで、明け番で家にいる時はいつも酒を飲んでいた。一人でくだを巻き、機嫌が悪いと私達子供や母に当たったりするので、父は家の中で嫌われていた。


 ある日、何かの話の拍子に、「まもなく30にもなるんだから、早くこの家から出て行ってくれ。子供は20まで育てれば親の義務は終わりだ。ここは俺たち夫婦の家だ」というような事を言われた。もちろん酔っ払っていたが、私も父がこんな事を考えているなんて夢にも思っていなかったので、少なからずショックだった。


 父のこの言葉が、屋久島に行くきっかけの一つになったことは否定できない。それまでもいろいろと準備はしていたけれど、一応二部上場の会社に勤めていて、最後は主任にもなったので、憧れの田舎暮らしに踏み出すきっかけを掴めずにいた。


「行っちゃうの?」

 母は屋久島へ行くことを決めた際、こう言って私に確認だけした。父からは何もなかった。


 結果的にこれで良かった。離れて暮らすことで、お互い適当な緊張感を持って暮らすことができている。親からは毎年いろいろなものが送られてくるし、私達も一年に二回くらいは顔を見に行くようにしている。


 しかし今回は、困ったことになった。東京がこんな事になろうとは、考えもしなかった。


「来ないでくれよ、頼むからな。お願いだから、落ち着くまでは来ないでくれよ」


 先日お中元が届いたので父親に電話すると、こんな事を言っていた。


 こればかりはどうにもならないが、じわりじわりと私達も影響を受け始めていると言った所だろうか。


 多くの人が同じような状況になっていると思う。とにかく焦らずに、政府や行政の言うことを聞き、おとなしくしている事しか、今は出来ることはない。もちろん80を過ぎた両親はインターネットなど使えないので、今日あたり、電話してみようかなと思う。


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