コケバラのせい


 ~ 十月十六日(水) 寿ぐ ~


 コケバラの花言葉 真の価値



「これさえあれば合格確実なのだよロード君!」

「危ないから。鍋を片手で揺すらないで下さい、教授」


 漢字辞書を胸に抱いて。

 片手で料理を続けるのは藍川あいかわ穂咲ほさき教授。 


 軽い色に染めたゆるふわロング髪を花束の形に結って。

 そこにコケバラをたくさん挿しているのですが。


 どなたかに。

 プロポーズにでも出向かれるのですか?


「しっかし、見事に切っちまいやがったな!」

「ほんと。新品なのに」


 今日はお祝いとのことで。

 教授がお昼ご飯にご招待した六本木君と渡さんが。


 俺の新品の机についた傷を指でなぞりながら。

 苦笑いを浮かべているのです。


「それより穂咲。何のことよ、お祝いって」

「週末の試験、こいつさえあれば合格確実なの」

「漢字辞書なんか持ち込みOKなわけねえだろ? 覚えられんのかよ」

「全部覚えちゃうの。物語になってるから覚えやすいの」


 教授の返事に。

 肩をすくめる六本木君ですが。


 でも実際。

 小学生の頃、こいつは辞書をほとんど丸暗記して。

 数少ない、仲の良かった子に教えていたのです。


「物語って何の話だ? 意味分かんねえ」

「ほんとなのよ隼人。穂咲ったら、使い方とか読み方はともかく、この辞書に載ってる漢字を絵として丸暗記してたの」

「なんか藍川らしいけどよ。眉唾な話だ」

「ほんとだってば」


 そして、教授から漢字を教わったという昔話をし始めた渡さん。


 彼女は。

 教授がいじめられていた間も。

 分け隔てなく接してくれた大切な方。


 ……そんな方へ。

 『阿』の字は屋敷の玄関先とか。


 よくもまあ無茶苦茶なことを教えていましたね君は。


「そう! 実に覚えやすいのだよ! さすがは辞書!」

「いえ。そういう用途で読む方はこの世界広しと言えど君一人だと思うのです」

「これで勝ったも同然! お祝いだ!」

「なんという皮算用。鯛など煮付けたりして、後で泣いても知りませんよ?」


 甘辛い、食欲をそそる香りを伴って。

 鍋から尾頭付きの鯛を取り出した教授は。


 それを大皿に乗せて。

 テーブルの真ん中へドスンと置くのですが。


「……なにこれ。鯛の下のやつ」


 鯛の下。

 白い麺のような物が敷かれていますけど。

 大根のツマ?


「鯛そうめんなのだよ!」

「そうめんの上に乗せちゃったの!? 意味分からん!」

「めでたい料理なのだよロード君!」

「聞いたこと無いのです」


 こんな料理あるわけない。

 どうやって食べるのさ。


 呆れながら、得体のしれない料理を見つめていたら。


 六本木君が、本気か冗談か。

 測りかねる塩梅で教授に同意すると。

 いつもの漫才が始まります。


「知らねえのか道久? めでてえ食いもんだ。なあ、藍川」

「さすが六本木君なの。よく知っているで賞として、目玉んとこあげるの」

「抵抗あるな。栄養はありそうだが……」


 六本木君が。

 目玉の上で箸を泳がせながら言うと。


「受験に役立てるの。しっかり成分を摂取するの。DNA」

「DHAだろうが。DNAを摂取してどうすんだ、俺を鯛人間にでもする気か?」

「トムヤムクンを美味しく作ってくれそうなの」

「そっちのタイじゃねえ。半魚人になったら受験どころじゃねえだろ。即、研究機関送りだ」


 怖いのです。

 ぎょっとします。

 半魚人だけに。


「秘密裏に水産大学の研究室を目指すと良いの。これで進路は順風満帆なの」

「とんだ裏口入学だな。だが、これほど二枚目な半魚人が出入りしてたら、さすがに目立つだろ」

「残念ながら、研究室を出る時には三枚におろされてると思うの」

「おおい! それのどこが順風満帆なんだ?」

「船盛り一丁上がりなの」

「食われるのかよ!」


 これには一同大笑い。

 相変わらず、二人のトークは次元が違う。


 渡さんも、六本木君の背中をバシバシ叩いて。

 涙を流して笑っているのですが。


「……俺の研究室送りはともかく、お前さんはほんと、漢字覚えろよ?」

「これさえあればばっちりなの」


 そして教授が。

 おじさんの辞書を。

 愛おしそうに胸に抱きしめるのです。


 ……俺が借りっぱなしにしていたとは言え。

 それでも、教授へ返すことが出来て。

 本当に良かった。


 嬉しそうな教授の顔を見て。

 俺もほっこり。

 優しい笑顔。


 渡さんも嬉しそうにしているのですが。

 どうにもこの石頭だけは。

 信じようとしないのです。


「だから、辞書一冊でどうにかなるわけねえだろ。小論文書くのにどう役立てるんだよ」

「自信が無かった漢字もパーフェクトに覚えるの」

「丸暗記できるはずねえだろが」

「覚えるの」

「そんな速度じゃ読めねえ」

「読めるの」


 そう言って。

 教授は辞書を指差すと。


「だってこれ、面白い物語」

「なに言ってんだお前?」

「いえ、教授はこれを確かに物語として覚えちゃったのですよ」


 俺がフォローしたのですが。

 六本木君は、眉間の皺をさらに深くさせて。


「漢文的にか?」

「いえ、図形的に」

「なんだそりゃ?」

「百聞は一見に如かず。教授、試しに一ページ目、お話を聞かせてあげると良いのです」


 せっかくのご飯が冷めてしまいますが。

 今は、わからずやを黙らせる方が先でしょう。


 教授は嬉しそうに。

 そして大切そうに辞書をテーブルの真ん中へ置くと。

 表紙をゆっくりと開くのです。


 ……当時。

 おじさんのものと聞けば。

 なんでも大切に楽しんでいたこいつにとって。


 この辞書は。

 何度も何度も繰り返し読んだ。

 童話のような品。


 その破天荒な物語。

 何度も読み聞かされた覚えがありますが。


 どのページにもおじさんとおばさんが出てきて。

 幸せそうな日常を送っていた。

 そんなお話だったような気がします。


 ……ほんとうに。

 経緯は覚えていないのですが。


 そんな大切な本を。

 長い間、俺が取り上げてしまっていて。


 今から、幸せな物語が始まると。

 罪の意識に苦しむことになるやもしれません。


 少し痛む胸を押さえると。

 幸せそうに笑っていた教授と。

 目が合ったので。


 慌ててにっこり笑って。

 辞書の一ページ目へ視線を移して誤魔化しました。


「で? 藍川、どんな物語なんだ?」


 六本木君の言葉に、えっへんと胸を張った教授。


 一行目に、ゆっくりと指を這わせて。

 そしてこほんとひとつ咳ばらいを入れると。


「……さっぱり分からないの」

「は?」

「こんなのが物語なわけないの。だって、漢字が並んでるだけ」


 眉根を寄せたまま呟いたので。

 俺たちは頭を抱えることになったのでした。


 ……成長とは。

 良いことなのか悪いことなのか。


 首をかしげる君を見ていると。

 なんだか分からなくなってしまうのです。


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