3-4 オキシジェン・デストロイヤーの悲劇
タマ操縦クレーンに持ち上げられて、大気圧潜水服姿の俺は、海面に降ろされた。潜水服の背部から長いワイヤーが伸びているのだ。足の先が水に入ったが、もちろんそんな感触はない。ウエットスーツとかじゃなく、金属製宇宙服みたいな謎スーツ着用だからな。
「聞こえる、平くん」
耳元のスピーカーから、マリリン博士の声が聞こえた。
「はい」
「念のため、手を上げて応えて」
右手を上げてやった。
「よし。問題なしね。――エリーナちゃん、そっちの準備はどう」
「はい博士」
俺のすぐ前、ゾディアックに乗ったエリーナが頷いた。小さなゴムボートだけに、波で上下に揺れている。操船担当として、ケルクスが同乗している。
「いつでも大丈夫です」
「平くんが頭まで海に潜ったら、スクリームを始めてね」
「わかってます」
「平くん、オキシジェン・デストロイヤー、落としちゃダメよ」
「平気ですよ博士。俺はアホじゃない」
手にした謎装置を、俺は持ち上げてみせた。金属球で組み立てられた指部が、これまた球体の手部分からちゃんと出ている。ただ当然触感などはないので、ものを掴んだ感に欠ける。その意味で落としそうなのはたしかだ。だから俺は胸に抱えるようにして保持していた。
「あたしの合図で起動させてね」
「あれ、恥ずかしいんですけど」
「いいのいいの。あんたこんだけ嫁がいて毎晩恥ずかしい行為に励んでるのに、今更なに言ってんのよ」
「知らんがな。……もういい、早くやってくれ」
「ならいっくよーっ」
博士の合図で、タマが操縦レバーを操作した。魔導モーター音と共に、俺の体が海に沈む。頭部の分厚い窓を通し、透き通った水が見えた。遠くに小魚の群れが見えている。
目の前に、謎海藻が見えた。海藻といってもど太く、普通に大木のように見える。俺の沈下を見て取ったのか、ゆらゆら揺れる藻が俺に近寄ってきた。潮の流れではない。明らかに意志のある動きだ。あれに絡め取られたら、もう終わりだ。
「エリーナちゃん、始めて」
「はい、博士」
水に顔を浸したエリーナが、バンシースクリームを発し始めた。まるで電気で痺れたかのように、海藻の動きが止まる。
「エリーナちゃんの息が続く間よ。タマちゃん、どんどん下ろして」
「任せろ」
ワイヤーががくんと緩むと、凄い速度で俺の体は海中に沈んでいった。コバルトブルーの海面から、スカイブルー、さらにはネイビーブルーへと次第に色が濃く。
「さすがに深度六十メートルになると少し暗いわね。今、明かり入れるから」
スーツ上部のカメラを通し、博士は状況を見ている。ライトが点くと、目の前は少しだけ明るくなった。
「平くん、大丈夫?」
吉野さんだ。はあー天使の歌声。スピーカーから聞くと同人音声のようで、なおのこと癒やされるわ。
「ええ吉野さん。平気です」
「無事に帰ってきてね。でないと私……」
「吉野さん……」
「平くん……」
「はいはい。リモートで盛り上がらないの、もう」
はあーっと、博士の溜息が聞こえた。
「ほっといたらあんたたち、声だけで受精するでしょ」
「そんなことありませんよ博士。平くんはちゃんと毎晩ベッドで受精させてくれます……。それも前から一回、次に私を上にして二――」
「も、もういいです、吉野さん。とにかく俺、頑張りますんで」
みんなが聴いてるスピーカー越しにアレ生活バラされるとか、どんな地獄だよ。一応今、命懸けのオペレーション最中なんだぞ、俺。
「こっちのデータだと、そろそろ海底に着くよ。どう平くん、海底見えてきた」
「この潜水服だと下なんか見えませんよ、博士。まっすぐ前しか見えないんだから」
「それもそうか。あと三メートルだから、降下速度を緩めるわ。タマちゃんお願い」
「はい博士」
エレベーターが止まったような感覚。速度を緩めたからだろう。それから数秒後、俺の足が着底した感触があった。
「博士、海底です」
「予定通り、九十三メーターね。その深度だとほぼ真っ暗でしょ」
「ええ」
見回してみた。ヘルメットのライトが届く範囲は明るくなるが、どろっと濁った海水なので、数メートル先までも見えない。灰色の水の中に、なんだかよくわからない虫のような生物がちょろちょろ動きまくっているだけ。周囲に魚はいない。海底の泥の上を、カニが走って光から逃げてゆく。
「海藻の根っこ見える? あんたの五メートルくらい先のはずだけど」
「見えませんねー」
「ならもう少し進んで。……エリーナちゃん、あと少しだから頑張ってね。息継ぎしながらでいいから」
この潜水服はとにかく動きにくい。金属製で、脚で動くのは股関節だけだからな。上からワイヤーで吊るされてる関係で、すっ転んだりしないのだけは助かるが。
とにかく数歩のろのろ進むと、濁った水中にぼんやり、大きな岩礁が見えてきた。泥の水底から、二メートルほど突き出ている。上部は平らになっていて、そこに樫の大木並にふっとい幹が生えていた。
「こいつが例のヤバい海藻か……」
最下部は気根のように根が広がっている。といっても陸上植物と違い栄養は海水から摂取するので、海藻の根は単に本体を固定するための
「博士、根っこが見えてきました」
「距離は」
「よくわからないけど、多分ここから三メートル」
「そこだとオキシジェン・デストロイヤーの効果が限られる。もっと近づいて。一メートルくらいに」
「でも根っこの周囲は岩場になっていて、この服では上がれそうもありません」
なんせ膝を曲げることすらできないからな。岩登りなんて無理だわ。
「ならギリギリまででいいわ」
「やってみます」
一歩、二歩……。進むと足先がなにかにぶつかった感触がした。岩だろう。
「ここまでです」
「いいね。じゃあオキシジェン・デストロイヤーを胸元に構えて」
「はい」――と博士に返事した瞬間、目の隅でなにかが動いた。
「うおっ!」
なにかが脚に絡んだ感触。同時に、脚が動かせなくなった。タコのように絡みつかれていると思われる。
「博士、絡みつかれました」
なんでこの海藻、動けてるんだ。バンシースクリームで麻痺しているはずなのに……。
「この野郎、動いています」
「そこ、深いからね。バンシースクリームの効果が薄れてるのよ。そもそも音波のエネルギーは球状に広がる。効果面、つまり球体表面は平面だから、距離の二乗に比例して効果が落ちるからね。だからその根っこ周辺だけは動けてるんでしょ」
「いや緊急事態に、そんな冷静に分析されても」
俺は焦った。こんな海底で捕まったら、誰も助けにはこられない。俺ひとりで対応するしかないが、この不格好なスーツで戦えるとは思えない。そもそも武器なんて持ってないし。
「仕方ないわね。一度撤収しよう。タマちゃん、ワイヤー巻き上げて」
「ダメだ!」
耳元のスピーカーから、タマの大声が響いた。
「びくとも動かない」
「強い力ねえ、その海藻。サンプル採取して培養してみたいわ。植物……というか藻類なのに、藻体がアクトミオシンからできてるのかしら。興味深いわー」
「そんなん後にしろ。こっちは生きる死ぬだ!」
博士のアレ要素が爆発してるじゃん。
「ご主人様、頑張って」
「博士、なんとか平くんを助けてくださいっ」
「お兄ちゃん、ママが助けてくれるからね」
みんなの声が聞こえる。今頃船上は大混乱だろう。
「わかった。藻体サンプルは諦める」
「当たり前だわ」
「なら平くん。一か八か、そこで起動するしかないわね」
「オキシジェン・デストロイヤーですよね」
「決まってるじゃん。あんた馬鹿?」
「くそっ」
冷静な声がムカつく。藻類はもう胴まで這い上がってきたのを感じるし。もし腕まで拘束されたら、起動もくそもできなくなる。
「は、早くして下さい。胸の前に構えました」
ドデカ砂時計のようなオキシジェン・デストロイヤーを構えた。ヘルメットの丸窓を通し、かろうじて胸の前が見える。
「スイッチは説明したよね。その指だと扱いにくいと思うけど、頑張って押して。長押し三秒よ」
「なんでそんなイヤホンみたいな起動スイッチなんだよ。一度押したら起動でいいじゃんか」
「間違って街中で押したら大惨事でしょ。長押しなら誤操作はしにくいから」
「あんたこれ街中で持ち歩いてたんか」
もうそれ、テロリスト同然じゃん。
「いいの平くん。そんなのんびり話してて。もうすぐあんた死ぬよ」
「くそっ!」
ムカつくが、たしかに博士の言う通りだ。えーと……こいつだよなたしか。
緑色のLEDが輝くスイッチを、俺は押し込んだ――と思ったら滑ってスイッチから指がずれた。この潜水服、高水圧に耐えるためとはいえ、指がガチ動きにくいからな。
「うおっ!?」
左腕になにかが巻き付き、装置を落としそうになった。
「くそっ!」
「ご主人様、頑張って!」
「ああレナ、任せとけ」
強がってはみせたが、潜水服の中で俺はもう汗だくだくだ。もう一度失敗したらおそらく、右腕まで巻き取られて、操作はかなり困難になるはず。次が最後の一試行と考えたほうがよさそうだった。
「慎重に……慎重に」
深呼吸して、右手の人差し指を、そろそろとスイッチに当てる。左腕が海藻モンスターに拘束され、オキシジェン・デストロイヤーがかえって固定されたのはよかった。スイッチ周辺が動かないから、しっかり指がかかる。
「行くぞっ……」
気合一閃、スイッチを押す。ボタンを押し込む感触があった。そのまま動かず一秒……二秒……。
「あっ!」
海藻野郎がとうとう右腕まで巻いてきて、スイッチから指が離れた。
「くそっ」
「大丈夫、平くん」
聞こえてくるのは、泣きそうな吉野さんの声だ。
「平気ですよ吉野さん。今、スイッチを押したところです」
「よかった……」
嘘はついてない。押すだけは押した。ただ三秒長押しになったかはわからんが。そのとき――。
「おっ」
スイッチのLEDが、緑から赤に変化した。
「博士、レッドです」
「よし。叫んで平くん。教えたでしょ」
「あれ恥ずかしいんですけど」
「叫ばないと起動完了しないよ。そうプログラムしてあるから。これも街中の誤動作防止用ね」
「オ、オキシジェン・デストロイヤー起動っ!」
決められたセリフを、俺は叫んだ。
「平くん、もうひと息よ。辛いだろうけど、頑張って」
「いいんですよ吉野さん、これだけは絶対に悪魔(博士)に渡してはならないマシンだし」
「全部終わったら、みんなでマンションに帰りましょうね」
「ええ。マジ早く戻りたいです」涙
「起動したよ平くん。あとはあんたの体力次第」
「俺の体力?」
「そうよ。せいぜい、吉野さんとのこととか思い出してね」
「はあ?」
いったいなにを――と言いかけたが、下半身に異様な感触を覚えた。
なんだこれ。なにか、ぬるぬるするものに包まれたぞ。素っ裸の俺の下半身が。しかも温かいし。手にしたオキシジェン・デストロイヤーから、ぶくぶくと大量の泡が立ち始めた。
「こ、この感触は……」
「ぐふっ。平くん、天国にようこそ」
博士の笑い声が響いた。
「た、平くんっ!」
「吉野さん……」
気が遠くなってきた。激しく噴き出す泡で囲まれ、もはやなにも見えない。ぼこぼこという轟音が響き渡っているだけだ。
「もし俺になにかあっても、幸福に暮らしてください。さようなら……さようなら」
下半身から強い刺激を受けて、俺は意識を失った。
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