中学生編(11) 踏み出す一歩

「父さん、これ」

 その日の夜、アキトは久々に食卓に現れた。

 母親の顔に笑顔が戻り、心なしかリビングが明るくなる。

「なになに…進路調査票か」

「うん。学校に提出するから、サインして欲しい」

 父親は、白い紙の上にざっと目を走らせる。一度全体に目を通した後、第一志望の欄で目を止めた。

「なかなかチャレンジングなことをするね。大変だろうけど、本気かい?」

 刺激的な発言に、隣で話を聞いていた母親も慌てて調査票に目を通す。

「あらアキト。これ本当?併願はできないけど、分かってる??」

 母親の瞳が、アキトの回答を待ち構える。

 チャレンジング。それは分かっている。受かるかどうか分からない難易度の高い挑戦であることも、失敗したときの代償が大きいことも。

 だけど、これが一番だと信じている。将来やりたいことへの、一番の近道であると。

 だから何と言われようとサインさせるつもりで、この部屋まで来たのだ。

「本気だよ。本気でがんばるから」

 改めて両親に注視されると、なかなか緊張するものである。アキトは気圧されないように、精一杯胸を張った。

「そうかい。そう言うなら、ちゃんとがんばるんだよ」

 そう言って顔を優しく緩めながら、父親は調査票の下の方にサインした。

「そうね、やりたいということにがんばるのが一番よ」

 母親も穏やかに、笑みを浮かべていた。

「ほら、これ。がんばれよ。あとちゃんと学校に行くんだぞ」

 父親は、サインした調査票をアキトに差し出した。

 アキトはそれを受け取ると、何故か無性に胸が熱くなる。久々に食べたできたての晩ご飯は、優しい痺れで身体を包んだ。



 翌朝。教室には火曜日らしからぬ人集りができており、その中心にアキトはいた。

「おはよう、アキト」

「おう、おはよう。ミノル」

 そう、あっけらかんとアキトは手を振る。

 昨日帰りに、ツネオミからナツキの話を聞いた。これを知っていたから、ツネオミはミフユの件についてあんな推測ができたのだろう。

 ナツキの話は、ミフユの死に確かに説得力を与えた。だがそれがその推測を信じたいと思うか、心が受け付けるかは別問題である。しかし昨日のアキトの反応を見る限り、きっと事実なのだろう。ミノルの心に暗い影が落ちる。

 僕でさえこう感じてしまうのだ。アキトの感じたやりきれなさは、想像を絶するものだろう。それなのにアキトは学校に来た。きっとそれは、誰にも共感されないがかなり凄いことなのだろう、とミノルは思う。

「ミホも、ありがとな。……それと、ごめん」

 アキトは側を通りがかったミホを呼びかけ、そう声をかける。

 言われたミホは、一瞬目を丸め、そして少し目を伏せた。

「ううん。……謝らないでよ」

 そう言って、ミホは小走りで立ち去る。

 実は自分の心には大したショックは無かったんじゃないか、ミノルの頭を空虚な焦燥感が襲った。


 やかましい戸を開ける音と共に、担任が教室に入ってくる。

「おー、みんな席に座れー。……おっ、アキト。今日はちゃんと来たな」

「はい」

 そう、アキトは輝いた目で答えた。

「そうか……。じゃあこれで、クラスは全員揃ったんだな」

 顔を暗くした担任の発言に、クラスは静まる。机の下で、アキトは拳を固く握った。

「まあ、アキトも戻ったことだし、今日も一日頑張るように」

 アキトの戻ったことを、素直に喜べない空気のまま、朝のホームルームは終わった。

 アキトは立ち上がると、進路調査票を握って担任の下へ歩く。

「先生、これ。よろしくお願いします」

 担任は、差し出された紙片を受け取ると、ざっと目を通す。

 それは、現実を受け入れた上での、アキトの大きな一歩だった。

「ほぅ。志望校、電情高に変えたんだな」

 電気情報通信高等学校。それは、関東圏でもトップクラスの学生が集まる国立の高校である。

「はい。県立とは比べものにならないくらい大変かとは思いますが、ここしかないと、思ったんです」

 そう軽々しく志望して、簡単に入れるような学校ではないことは、もちろん理解している。

 けれど、なぜナツキやミフユが死ななくてはならなかったのか。それを知るには、電情高を出て情報心理学等を学ぶしかない。全てを仕切るAIを、理解するしかない。今のアキトには、これが最適解に思えた。

 その発言の本気度を推し量るように、担任の目がアキトの目を見つめる。やがて担任は軽く目を閉じると、アキトの肩を優しく、されど力を込めて、叩いた。

「そうか。なら、良いんだ。精一杯、頑張れよ」

 その口元が、穏やかに綻ぶ。

「……はい!」

 自然と、アキトの返事に力がこもった。

「いろいろ困ったことがあったら、俺以外の先生にでもいいから、すぐ相談するんだぞ。こっちも全力でサポートする」

 そう言って、担任は教室を後にする。




 それ以来というものの、アキトは目に見えて勉学に励んでいた。

 今までのアキトも勉強をおざなりにしていた訳ではなく、むしろしている方だったが、それ以前とは比べものにならないほど明らかに勉強量が増えていた。

 アキトのその姿に、受験生というレッテルを貼るのは容易いが、あまりにそれは本質とかけ離れている、気がした。

 授業中も、休み時間も、休日も、自習時間も、台風で教室待機になったときも、雪で体育が中止になったときも。必死にペンを走らせるアキトの姿は、どことなく痛ましい。

 心に空いた穴を、必死に他のもので埋めようとしている、そんな風に見受けられた。

 葉の落ちた木々の合間を木枯らしが吹き抜け、日々の足跡を雪が覆い隠す。



 いつしか風はぬくもりを帯びて新芽を包み、陽光は暖かく地面を照らす。

 三年生たちはきっちりと制服を身に着けて、いつもの通学路を一歩一歩、感慨深げに踏みしめていた。

『卒業式』

 校門前の、そう書かれた看板の前に、人集りができていた。

 目に見えた転換点、目に見えた泣き所。そういった実感できるイベントというのが、人間に変化を印象づけるのに重要なようで。普段なら気にもとめない先生のお話に心から頷き、送辞答辞に涙を浮かべる生徒は多かった。

 そう、今日は卒業式。予定された、目に見える別れのイベントである。

「この後も、しょっちゅう遊ぼうね」

「うん!ヒマなとき誘う~」

「よっしゃ、卒アルにサインしたるわ」

 卒業証書を受け取り、たどり着いた教室。みんな涙ながらに、思い思いに別れを惜しむ気持ちを表現している。

 そんな中一人、教室を後にするアキトを、ミノルは目にした。

「アキト、何してるの」

 教室を去ったアキトを追いかけると、そこはグラウンドだった。

「おう、ミノル。……ちょっとな、ああいう教室の、みんな別れを惜しんでしんみりした空気、どうも合わなくて」

「えっ、そうなの。まあ良いじゃん、今日くらい。卒業式なんだからさ」

「いや別に、良いとは思うよ、良いとは。ただ、ちょっと違和感があるっていうか……。どうせ生きてりゃまた会えるんだからさ、ちょっと大げさじゃん?」

 そう言って、アキトは乾いた笑みを浮かべる。ミノルには、返す言葉が見当たらなかった。

「今日も本当だったら、ミフユも居たはずなんだよな。んで、卒業おめでとう、って言い合って、その後俺の、俺のこの気持ちを、ちゃんと伝えて」

 苦しげに顔に皺を寄せるアキトを、ただ見ているしかできない。

「ナツキも、一緒に卒業するはずだったんだよ。それで、高校も一緒だね、とか話して」

 何でもないように話すアキトに、なにもしてやれない自分が悔しかった。

 受験勉強という目標も失って、再び吹きさらしになったアキトの穴は、ミノルが埋めるには大きすぎて。

「ミフユの、話をちゃんと聞いてあげるべきだったんだ。今何を知っていて、何をしようとしているのか。それが分かれば、あの日も俺は傍にいてやれたんだ!」

「アキト」

「いつだって俺は、結局ミフユを助けてやれない……」

「アキト!!」

 ミノルは精一杯声を張り上げて、遠い目をしたアキトを呼び戻す。

「アキトが一人で全部背負い込んじゃいけない。全責任がアキトにあるわけじゃないんだ!大体アキト一人でドローンから人を守れるのか?」

「けど……」

「何のためにみんながいると思ってるんだ。一人じゃどうしようもないときこそ、みんなの力を合わせるべきじゃないの?」

 そこでふと、ミノルは腕に卒業アルバムを抱えていたことを思い出した。

「僕はアキトとは高校は違うと思う。けどきっと、生きて必ずまた会うから、力を貸すから!」

 ミノルは自分の卒業アルバムを開き、恥ずかしそうにアキトに差し出した。

「これは……」

「寄せ書き。これからもよろしくってことでさ、せっかくだから書いてよ」

 ふっとアキトの表情が緩む。ミノルがペンを渡すと、アキトはサラサラとメッセージを記した。ミノルとアキトが同じ時間を過ごした痕跡。

「あとでアキトのにも書かせてよ」

「ああ、よろしく頼む」

 ミノルは、アキトに力を貸す仲間だ、と何らかの形で残しておきたかった。その返事を聞いて、ミノルは顔を綻ばせる。

「はい、書き終わった」

『この先もよろしく』そのアキトの字が、ミノルには無性に嬉しかった。

「ありがとう、アキト」

「いや、なんかこちらこそありがとな」

 そう言ってアキトは広いグラウンドに目をやる。

「どうしたの?走りたいの?」

 懐かしそうにグラウンドを眺めるアキトの瞳が、そう言っているような気がした。

「いや、なんというか。いろいろあったなーと思うと感慨深くて」

 こちらを向くと、アキトは表情を崩した。

「なら、最後にひとっ走りしちゃえば?」

「いいのかな」

「いいよいいよ」

「そうかな」

 アキトは子供っぽい笑みを浮かべながらそう返事をすると、グラウンドへ駆けだしていった。


 学校のグラウンドを最後に走る卒業生を、止める者などいなかった。

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