中学生編(8) 儚い関係

 長時間外を歩いた疲労と、連日の睡眠不足が祟ってか、修学旅行翌日からの土日はほとんど睡眠時間となって消えていった。旅行というものは、テンションが上がっているせいもあってか無自覚に疲労が蓄積するものらしい。

 明けて月曜日。土日という時間は、人間関係を再配置していた。旅行中は四六時中行動を共にしてきた友人たちも、学校及びその周辺のみで付きまとう「日常」の枠組みの中での友人に戻っている。

「おっすー」

「おはよう」

「おはよう」

 そう軽く挨拶を交わし、カバンを自分の机に置く。朝の雨で少しカバンが濡れてしまったが、そんなことは日常の範疇のスパイスでしかない。

 椅子を引いて座り、カバンの中から防水カバーを取り出し、中の授業用タブレットを取り出す。ミホと一瞬目が合った気がしたが、すぐに視線を外されてしまった。

 チャイムの音が鳴るや、担任が入ってくる。生徒の前に立つと、一瞬怪訝そうな顔をした。

「起立!気をつけ、礼!!」

「おはようございます」

「おはようございます」

「着席!」

 日直の号令に従い、いつも通り朝の挨拶をする。

「あれ、ミフユは遅刻かな?」

 そう言って、担任は周りを見回す。久々の再会に興奮を隠しきれないクラスメイトたちは、その間もざわざわと周囲と会話を続けていた。

「まあいいや。修学旅行明けでまだ浮かれてるやついるかもしれないけど、しっかり授業受けるんだぞ。解散」

 教室のざわめきがより一層強まる。

 アキトは座ったまま、ツネオミと目を見合わせた。ミホとの気まずさに加えミフユの遅刻。アキトの頭を過労死させるには十分であった。


 つつがなく、昼休みを迎える。

 いつも通り購買部からパンを買って戻ると、アキトの机をツネオミ・ミノルと囲む。ツネオミはおもむろにカバンから平たい箱を取り出し、アキトの机の中央にためらいもせず置いた。

「京都土産だ」

 見たことのある箱。その表面には生八つ橋、と記されていた。

「……いや、俺も京都行ってたんですけど」

「いやー、生八つ橋って思ったより賞味期限短いんね。ちょっと買い過ぎちゃってさあ」

 ツネオミは頭をかくと、生八つ橋の箱を開ける。

「まあ、くれるんなら頂こうかな」

「僕ももらお」

 アキトもミノルも、生八つ橋に手を伸ばす。このもっちりとした肌触りが、なんともクセになる。

「……ミホも、お一つ、どう?」

 近くを通りがかったミホに、ツネオミは声をかける。

 ミホはチラリと机の周りに目を走らせると、すぐに「いい、いらない」と答え立ち去っていった。

 なんとも気まずい沈黙が、アキトの机を覆う。

「おい、こっちを見るな」

 二人の無言の視線に耐えかねて、アキトは言った。

「何、そのために八つ橋持ってきたの?」

「いや、そういう訳じゃなかったんだけど、せっかくだからと思って」

 ミノルの問いかけに、ツネオミはばつの悪そうに答えた。

「まあ、とりあえずの間はそっとしておいた方がいいんじゃない?アキトからも、ツネオミからも変に何か仕掛けたりしないでさ」

 断言こそ避ける言い回しだが、どことなく根拠や確信の存在を感じさせる言い方だった。

「そういうもん?」

「うん、きっとね」

 そう答えるミノルの目は、どこか遠くを見ていた。



 翌日も、雨が続いていた。

 雨粒が一つ一つ、制服の上に染みを残していく。

「おっす」

 いつも通り挨拶を交わし、いつも通り席に着く。

 始業を知らせるチャイムが鳴る。扉の開く音とともに、担任が姿を見せた。いつも通り、みんなの前に立つ担任。その瞳が、一瞬ちらりと揺れた。

「起立!気をつけ、礼!!」

「おはようございます」

「おはようございます」

「着席!」

 日直の号令。いつもの挨拶。

 いつも通り。表面上は確かにいつも通りだが、どこかいつも通りではないことに、アキトも、担任も、クラスメイトも、みんな気づきつつあった。

「あれ、今日もミフユは休みか。……アキト、何か聞いてる?」

 担任の発言に、何人かがニヤニヤとアキトの方を向いた。

「な、何で俺に聞くんすか……。でも、何も聞いてないです」

 ニヤニヤとしたクラスメイトの表情が、にわかに堅いものへと変わる。アキトは、どうしようもない申し訳なさを覚えつつ、顔を下ろした。

「他に聞いてる人は?」

 静まる教室。この沈黙が、息苦しい。

「そうか……。分かった。まあ、今日も一日、気を抜くんじゃあないぞ。解散」

 戸を開く乾いた音が鳴り響いた。

「おい、本当に知らないのか?」

 ツネオミの言葉に、アキトはより表情を曇らせる。

「ああ。本当に、知らない……」

 その心配そうな声に、ツネオミの心はすこし痛んだ。

「そうか……。まあ、修学旅行明けで体調崩したんかもな。連絡でも入れておいたら?」

「そうだな、入れておくか」

 文字の入力を始めるアキトをみて、ツネオミはほっと一息ついた。心配そうな表情をしているところを見るに、ミホもミフユのことは知らないのだろう。

 アキトにこそそのような表情は見せないが、ツネオミも内心では心配であった。


「結局今日も、ミフユは来なかったな」

 誰か一人いようがいまいが、当たり前のように時間は過ぎていく。気がつくともう、帰りのホームルームの時間であった。薄っぺらい時間は、経つのはとてつもなく遅いが、経ってしまえばあっという間である。

「えーと、もう二学期だし、もう一度進路調査票を書いてもらおうと思います。運動会前にも書いてもらったけど、もう修学旅行も終わって受験も近いし、今度は真面目に考えて書くこと。というかこの時期だから進路くらい真面目に考え始めようね」

 そう言って担任は、小さい白い紙を配り始めた。ぽっかりとあいた空欄に、自分の描く進路をペンで記入する。もちろん希望進路通りになるとは限らないが、それでも自らの手で未来を書く、というのはどことなく怖い。

 ミフユは結局どの高校に行くのだろう。ミフユに聞きたいこと、伝えたいことはたくさんあるのだ。

 目線の先、ぽっかりとあいた空間は、何も語らない。


「はぁーあ」

 力なくミホはベッドに身体を横たえると、手元の調査票を睨んだ。風呂上がりの湿り気が手を通して紙に伝わり、調査票は弱々しく重力に従って垂れ下がった。

 次の三年間を、こんな適当に決めてしまって良いのか、と漠然とした不安がミホを襲う。

 ミフユは県立に行くと言っていた。おそらくアキトも行くだろう。……じゃあ私は?

 私も県立に行って……またあの二人と一緒。そこに居場所はあるだろうか?耐えられるだろうか?

 そもそも私が県立に受かる保証はどこにもない。むしろ、県立は無理な部類に入るだろう。でも……、もし、うまく行くのなら。高校に入ってからもあの二人のそばにいたい。アキトも、ミフユも、友達として、この上なく大切な人たちなのだから。

 とはいえ、即決で第一志望の欄に県立と書く勇気を、ミホは持ち合わせていなかった。



 傘を持っての登校も、慣れればそれほど苦でもない。それでも片手が塞がれるのは痛いが。

 雨でも出勤しないといけないのは、ドローンでも同じらしい。ライトを水滴にきらめかせながら、ドローンは車道上空を飛行していった。

 ……いや、人間がドローンと同じく雨の日でも動かないといけないのか。水たまりを避けながら、アキトは道を進む。傘で守り切れなかったカバンが、無残にも染みを作られていた。

「おっす」

 アキトは自分の場所に着くや、すっかりびしょびしょになってしまったカバンを床に置くと、中の物の救助に当たる。今日は一段と雨が強かったからか、財布なども濡れてしまっていた。それら大事な物を丁寧に取り出し、机の上で乾かす。

 じめじめとした空気は、どことなく活気を削いでいた。

 チャイムの音が鳴り、みんな口をつぐむ。

 ムッとした沈黙が教室に充満する。が、肝心の担任が入ってくる気配は無かった。飽和蒸気圧の教室に、空調の音だけが響く。

 ついに誰かが耐えかねて口を開く。それにつられてその周囲が、さらにその周囲が、とざわめきが伝播していった。

 何故担任が来ないのか。各々の憶測を胸に、無秩序に時間は過ぎていく。

 広がりつつあるざわめきの波は、戸を開ける乾いた音でピタリと止んだ。

「悪い、遅くなった。まー特に今は言うこと無いから、今日も一日頑張ってくれ。じゃ」

 朝の号令も、何故遅れたのかの説明も無く、慌ただしく先生は職員室に帰っていく。

 再び教室がざわめきだすのも、当然だった。

「なあ、アキト。今日の先生なんだったんだろうな」

 なんとなく、なんとなく不安な心を、理性が力ずくで抑えつける。

「さあな。俺たちがあれこれ憶測しても、分からないよ、きっと」

 歯切れの悪い返事しかできないのも仕方ない。ツネオミもそれを分かってか、それ以上何も言わなかった。


 担任の口からそれが告げられたのは唐突に、帰りのホームルームのときであった。

「……それともう一つ、お知らせがあります」

 いよいよ帰れる。そのような期待がクラスメイトの中で最高潮に達した瞬間の、出来事であった。

 早く続けろ、と目で訴える生徒の前で、担任は一呼吸をおく。

「今日、親御さんの方から連絡があったのですが、ミフユさんは海外の学校に転校することになりました」

 耳から入った音声を、咀嚼するのにいくらかの時間を要した。それはみんな同じらしく、大体の生徒は呆気にとられた顔をしていた。そして咀嚼してもなお、疑問は尽きない。

 生徒の視線を集めるのが先か、動くのが先か。大多数の生徒が目を向けると同時に、アキトは立ち上がっていた。

「先生!海外?転校?ってどういうことですか!?」

 声が大きい訳でも、小さい訳でもなかったが、その動揺に震える声は、教室中に響いた。

 前に立つ先生も、困ったように頭をかいて答える。

「どう、って……家庭の事情、としか」

「でも!そんな突然」

「その気持ちは分かる。でも、今ここで騒ぐな。落ち着け」

 沈静を促す声に、そばに座るツネオミも慌てて落ち着かせにかかる。

 好奇と困惑と同情の目が、アキトに向けられていた。

 不満げに着席するアキトを見届け、担任は日直に号令を促す。

「さようなら」

 表面上はいつも通りに執り行われた帰りの挨拶も、どことなくぎこちない。

 何人かが教室から帰っていくも、担任は教室に残っていた。

 アキトを見る担任の視線に気づき、アキトは担任の方へ歩み寄る。心配そうに近づこうとするミノルやミホを、ツネオミは手で制した。

「先生。ミフユの転校って、一体どういうことなんですか。海外って、そんな突然」

「そうだな、アキト」

 そう言って、担任はアキトの肩に手を置く。

「ここじゃなんだ。職員室の方へ、来い」

 こうして、二人はざわつく教室から、姿を消した。


 そしてその週、アキトの姿を見ることは、無かった。

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