中学生編(4) 繋がれたバトン
「宣誓!」
選手宣誓の「宣誓」を「先生」だと勘違いしてしまうのは、今も昔も変わらないのであろうか。もちろん今のことではない。ただふと、小学生の頃を思い出してしまっただけだ。
そもそも選手宣誓と言っておきながら、自分らがその宣誓を承諾した覚えは無い。これを選手全員の総意だと思われては困る……。そんな下らないことを考えながら、アキトはただじっと、クラスごと・男女別に並んだグラウンドの上で日光を浴びていた。
「……スポーツマンシップに則り、相手のことを思いやりながら正々堂々戦うことを、誓います」
その声が、乾いたグラウンド中に響き渡った。
人工知能が、膨大なデータを様々なパラメーターで分析した結果に基づく現代の天気予報は大変優秀で、その間違いは万に一つもない。そんな天気予報を頼りに運動会の具体的な日取りが決められるのだから、当日は雲一つない快晴である。
「てるてる坊主って知ってる?」
「てるてる坊主?何それ」
「ティッシュとか布とかで作ったちっちゃな人形?みたいなもので、昔の人は翌日の晴れを願ってぶら下げたんだって」
「へえー。昔はそんなことしてたんだ。大変だったんだね。そんなことしても天気が変わるわけ無いのに」
「まあね。でも、予め決まってる天気の予報を見るより、自分で天気を晴れにしてやる!と願う方が、素敵じゃない?」
小学二年生の運動会の前日だったか。たしかそんな会話を、ミフユとした気がする。
ぽっかりと、雲一つ何も無い晴れ渡った空は、見ていてどことなく寂しくなった。
球を拾って、相手に投げる。判断力と投擲能力という人間の二大個性を余すところなく見せつける競技、男女別クラス対抗ドッヂボール。外野と息を合わせ集団で一人を狙う様は、動物の狩りを彷彿とさせた。このようなゲームに興奮するのは、遺伝子に刻まれたものなのだろうか。
「っしゃあああああああ!!!!」
試合終了のホイッスルと共に、ダイキの咆哮が響く。初戦は無事、アキトたちのクラスの勝利となった。とはいえ後半は敵外野からの猛攻を凌ぐので精一杯で、アキトは狩られる側の動物の気分も味わうこととなったが。
「よぉし、次は女子の応援だ」
こちらを向いてそう告げるダイキの口元は綻んでいる。
周囲の野太い賛同の叫び声の中、アキトは力なく「おう」とだけ答えた。
「行けぇ~ミホーーっ」
「キャーッ」
女子たちの甲高い叫び声も、この時ばかりは熱がこもる。そしてそれを見ている男子たちの声にも、これまた違った熱がこもっていた。
「今の見た?めっちゃ揺れたよね」
「ああ、揺れた揺れた!もっかい揺れろ!!」
こいつらのくだらない応援の声が届きませんように、そう祈りながらアキトは木陰に腰を下ろした。幸い、試合に集中してる女子たちには邪悪な声援は聞こえてはいなかろう。
「おっし、ミホいい球投げるなァ、女子にとっては殺人的だろ、あれ。……あとは胸さえ大きければ」
ダイキはアキトの隣に立ちながら、そう呟く。ここにも居たよ、アホが。そう心の中でこぼすアキトにはお構いなしに、ダイキは「なぁ?」と返事を促してくる。
「いや別に、あれくらいでもいいんじゃないの」
アキトは適当に返すと、持ってきたスポーツドリンクのキャップを捻り口に含む。身体への悪影響を感じさせない無色透明な液体のほのかな酸味が、口の中に広がった。
「ま、ミフユは十分大きいもんな」
入ってはいけないところに入った液体を、身体が強制的に排除しようとする。咳き込むアキトを、ツネオミはニヤニヤしながら見下ろしていた。
「ちょっバカ、やめろって」
ようやく呼吸のできるようになったアキトは、ツネオミを睨みつける。身体の奥には、何とも言えない痛みが残っていた。
「おいおい、そんなに動揺すんなって」
「おー、確かに揺れてますなぁ」
茶化す二人を余所に、アキトはもう一度スポーツドリンクを飲み込む。全く、そもそもなんで今動揺してしまったんだ。
コートに目を向ける。弾むボール、弾む胸、弾む心。揺れて、揺れて、揺れて。自身の心は、落ち着かない。
「よし」
深呼吸一つ。がんばるぞ。そうアキトは自分に言い聞かせる。
「どうしたんだよ、突然」
「次の試合、がんばるぞ。もうすぐだろ?」
立ち上がり軽く屈伸運動をすると、怪訝そうなダイキにアキトはそう答えた。
「じゃあこの後はいよいよ八の字なんで。昼食後に最後の練習します」
「本番の流れはプログラムの右下に書いてある通りです。クラスが書かれたコーンの位置に集合してください」
昼休みに入るや、前で運動会委員の二人がしていた説明に従い、クラス全員が残された昼休みの約十分をグラウンドでの八の字跳びの練習に費やしていた。
「さっきのドッヂボールは惜しかったからな!次こそはがんばるぞ!!」
「オォー!!!」
午前中のクラス対抗ドッヂボールは、男子二位・女子三位という結果に終わった。みんな悔しいところがあるのか、返事には気合いが入る。
「じゃあ時間ないから縄回し始めてー」
タンッタンッ、と規則的な縄に、みんな流れを崩さぬよう順番に入っては抜ける。
ミスなく続けば一位も狙えるかもしれない、そう思った時だった。
「きゃッ」
そこには縄に絡まったミフユの姿があった。突然の思いがけない出来事に、周りがどよめく。
一瞬ミフユと目が合う。何か声を掛けようか、と脳裏を掠めるやミフユに目を逸らされ、結局アキトは絡まった縄からもがくミフユを見ているしかなかった。
「まあ、今で良かった。本番は大丈夫だろ?」
「……うん」
ミホに助けられなんとか縄を解いたミフユに、ダイキはそう声を掛けて、練習の再開を促す。
パンッと叩いたミホの手を合図に、その後特に問題もなくチャイムが鳴るまで練習は続けられた。
「次は、クラス対抗八の字跳びです。各クラスの人は、指定された場所に集合してください」
スピーカーに増幅されたどこか金属質な声が、グラウンド中にこだまする。
昼休みが終わり一度は退去させられたグラウンドに、がやがやとたくさんの生徒が流れ込んだ。
周りの流れに身を任せ指定場所へと歩く。アキトは肩に軽い衝撃を感じ、振り向くと、そこにはツネオミの顔があった。
「いいのか?ミフユ、励まさなくて」
「……いいんだよ、大丈夫。あんなめったにないことを直前にやらかしたんだ。もう当分あんなことは起きないだろうさ」
だから、大丈夫。そうアキトは自分に言い聞かせた。自分が声を掛けなくたって、きっとミフユは大丈夫さ。
「……そうか。まあアキトがそう言うなら大丈夫だろう」
「それより自分の心配をしないとな」
そう言ってアキトはツネオミの肩を叩く。手のひらから広がるピリピリとした衝撃が、全身へと伝播し、緩んだ身体を締めなおした。
「それでは只今より競技を開始します。よぉーい、ドン!」
「せーの!」
スピーカーの声の直後、各クラス合図を掛け合って縄を回し始める。
タンッタンッ。規則的な縄。
「よぉし、行くぞ!」
ダイキはそう言うなり、縄の描く楕円体の空間へ跳び込む。次、その次……クラスメイトも縄の中を潜り抜けていく。
いち、にぃ、さん、しっ、ごぉ……。
どのクラスも同じように数を数えているはずだが、不思議と自分たちの数しか聞こえない。気にしてる余裕もない。
縄の空間に入って、抜けて、前の人の後ろに並んで、また入って。流れを乱さぬよう、前の人までの規則に、周りの空気に、ただ従う。
タンッタンッ。もはや何回目か。頭で数を認識することなく、ただ数字を口にする。
息を切らし、じんわりと痺れてきた頭に、終了のホイッスルの音が鳴り響く。
「ひゃくろくじゅうよん!」
各クラス、最後の数字を口にすると、辺りには奇妙な沈黙が訪れた。
「では、結果発表です」
静かなグラウンドに、スピーカーの声が響き渡る。
「いよっしゃああああ!二位だあああああ!!!!!」
クラスメイトの雄たけびに、クラス中が沸き上がる。拍手をする女子、手と手を叩きあう男子。
「みんな、おめでとー!そしてお疲れ!」
手身近な人と手のひらを打ち合いながら、ダイキはそうクラス全員に告げる。
「おう、お疲れ」
そういいって右手を振りかざしながら、アキトはダイキに近寄る。パチンッという刺激が、手からも耳からもアキトの身体に入り込んだ。
「もうちょい早く駆け込んでたら、一位取れたかな」
「十分だって。お疲れ、ダイキ」
「へへっ、まだまだ、最後にリレーもあるから疲れてらんねーぞ」
「……そうだな。最後まで、がんばろう」
もうちょい早く駆け込んでいたら、か。
早くしていれば、何か、変わっただろうか?
流れてきた雲に、太陽が少し陰る。口々に感想を言い合いながらグラウンドから退去する生徒の足音が、大きく響いていた。
「次は僕の番だから」
ニンマリと、ツネオミはアキトの肩を叩く。
「あ、ああ。頑張ってくれよ」
「もちろん」
ツネオミは親指を突き立てると、グラウンドを離れるアキトとは逆の方向へ歩いていった。
「次はクラス対抗、ドローン競争です」
――ロボットを操作する、それも立派な人間の身体能力の発現である。
十年ほど前、そう各学校でドローン競争を行うのがブームとなった。この中学校でも始まって以来、一種の名物競技となっている。
ルールは学校によって様々だが、この学校では「与えられたドローンを用いて、グラウンド上の全てのチェックポイントを回るのにかかる時間を競う」というものになっている。ただ、単にチェックポイントといっても平面的な位置だけではなく高度も指定されるため、上下方向の操縦技術も求められる、近隣中学校の中では難易度の高い部類になっているそうだ。
「ツネオミー!がんばれーー!」
「今年も一位ぶんどってこいよー!」
「ドッヂボールの分の借り、返済して来いよな!」
「ツネオミ君、がんばって!」
このクラスの代表はツネオミ。ツネオミは二年生だった去年の段階でも校内一位を獲った、指折りの実力者である。自然とクラスメイトの応援も熱くなる。
「先輩、今年は負けませんから」
「おう、がんばれ。まあ僕には勝てないだろうけどね」
ツネオミの隣で宣戦布告する二年生は、去年二位だった子だ。今年も熱いレースが見られそうである。
「では操縦者の皆さんは指定された場所にドローンをセットして、操縦エリアに集まってください」
ツネオミはドローンをセットすると、コントローラーを持って指定された操縦エリアで立ち止まった。手元の地図と、空中に浮かぶチェックポイントの位置とを見比べているようだった。
「それでは全参加者のセットが終わったようですので、レースを開始します。いちについて、よぉい……」
バァンッ、と電子的な銃声がスピーカーから鳴り響く。
直後、何機ものドローンが一斉にプロペラを鳴らし、空へと舞い上がった。小さな黒い機体が、地面に風と影を残す。
一斉に上がったドローン集団の中から一足先に抜け出したのは、やはりツネオミの機体だった。羽音を鳴らしながら、軽快に集団を引き離していく。
その後を追いかけるのは、例の二年生の機体であった。後ろの集団は、度々トップを入れ替えながら仲良くチェックポイントに向かっていく。
「いけえええっ、ツネオミィィィィ!!!」
空高く舞い上がったかと思うと、最後のチェックポイントを通過し、一気にゴール地点である地上へと急降下してくる。王者の余裕だろうか、その機体をよくよく見ると、背面飛行を披露していた。
「おい…ツネオミのヤツ余裕だな」
「あんまりふざけ過ぎて墜落失格になるなよー」
クラスメイトの反応は感嘆を通り越して呆れているようだった。そんなクラスメイトをよそに、ツネオミの機体は背面飛行のまま地面へ接近し、直前でくるりと姿勢を反転させると、ゴール地点に着陸した。目に見えての一位である。
「さっすがツネオミ!ナイスレース」
「ツネオミ君、お疲れ~」
表彰を受けたツネオミが、手を振りながらクラスの応援席へと帰ってくる。
「みんな応援ありがとう。余裕だったよ」
口ではああ言ってるが、その表情は誇らしげだ。
「一位優勝おめでとう、ツネオミ」
「ああアキト、ありがとう。アキトも頑張れよ」
声をかけたアキトに、ツネオミは笑いかける。
「おう」
「僕は良いトコ見せられたからね。次はアキトの番だ」
そう言うとツネオミはアキトに肩を回し、耳元で囁いた。
「良いトコ見せろよ。ミフユにも」
肩から手を放し親指を立てるツネオミに、アキトは無言で頷いた。
良いところ、見せないとな。
アキトは強く、拳を握りしめた。
「次は最終競技、学年別クラス対抗リレーです。選手のみなさんは学年別・クラス別にグラウンドの指定場所に集合してください」
アナウンスが流れると、アキト、ミフユ、ダイキ、ミホの四人は別々に、指定場所へと歩いていく。
最後のリレーでは、一年→二年→三年の順にレースが行われる。走者順に並び、グラウンドに座り込む。三年生の走者は皆、一年二年のレースの間はグラウンドの中で待機していた。
昼間と夕方の境目。少し傾き赤味が増してきた太陽は、依然として熱い日差しを肌に突き刺していた。
録音した銃声。まだ若い一年生が必死に大地を蹴る音。それを応援する若い声。伸びつつある影は、ものすごい勢いでグラウンドを回っていた。
そんな中、突如会場にどよめきが起こる。
何が起こったか、瞬時に理解できた。一年生のとあるクラスが、バトンの受け渡しに失敗したのだ。
もちろん、すぐにバトンを拾いなおす。それでも失われた時間は大きく、そして戻ってはこない。ひとつ前の走者との間の空間が、それを端的に象徴していた。
バトンのパスミス。昨日までの練習で覚えのある身としては、とても他人事には思えなかった。キリリと痛む胃に手を当て、大きく息を吸う。不安げにこちらを見るミホと目が合い、アキトは軽く笑みを顔に貼り付けた。
気が付くと二年生のレースも終わり、三年生の選手たちは続々とスタート地点へ集まる。
「頑張って来いよ、ミホ。俺に楽させてくれ」
「うん!……ってアキトも頑張るのよ!」
「はは、もちろん」
そう言ってミホを、スタートラインへ送り出す。
「俺も…頑張らなきゃ」
ミホの視線が外れたのを確認して、アキトは思いっきり自身の両頬を叩いた。
「では最終レース、三年生のリレーを始めます。位置について、よぉい」
続いてスピーカーから銃声の録音が流れる。それを合図に、まずはミホが走り出す。
「いっけぇぇぇぇ!!!!ミホォォォォ!!!!」
ミホは先頭集団から遅れることなく、叫ぶダイキに近寄る。伸ばされたバトンを、ダイキは走りながら受け取る。
続くダイキは一気に一位へと躍り出て、そのまま二位との差を広げていった。
着々と近づく自分の番。しかしアキトはそこまで不安を感じず、むしろ落ち着いている自分がいた。
影を大きく伸ばし、足を大きく伸ばし、駆ける三年生たち。大きな歓声が、よく晴れた空に響く。
――あのまま何もなければ、ナツキはここに居たんだろうか。
空を眺めながら、アキトはふと頭によぎった疑問を考える。
ナツキは走るの速かったからな。悔しいけど、俺じゃ勝てないだろう。
……ナツキになら、しょうがない。
アキトは拳を強く握ると、ミフユが走り出したのを確認してトラックへと入り、大きく息を吸う。
そのとき、会場にまたしてもどよめきが起こった。
アキトはトラックに沿って目を滑らす。しかし何が起こったのか、今回はすぐには分からなかった。
「ミフユ……!」
ミホの高く、小さな叫び声を聞いて、アキトはようやく事態を察する。
コーナーを抜けた先、ミフユが転んだのだ。
似たような光景はさっきも見た。似たような空気はさっきも感じた。
失われた時間をまざまざと見せつける、前の走者との空間。ようやく立ち上がったミフユに瞳に、その空間はどのように映ったのだろう。
「ミフユ!!」
気が付くとアキトは、叫びだしていた。転んでもなお走り始めるミフユの目がこちらを見る。
「俺に渡せ!俺が、追いついてやる!!」
遠い記憶が、ミフユの脳内に広がる。
――ほら、僕に渡して。僕が、追いついてやる
あの日のアキトの声が、パニック状態の脳に鳴り響く。
遠くとも忘れるはずのない、あの日の記憶。
……こういうとき、助けてくれるのは、やっぱり……。
もう少しのところまでミフユが近づいてきているのを確認して、アキトは助走を始めた。前の、いつも通りのペースで。
今ならミフユを見なくても、スピードを落とさなくても、タイミングが分かる。アキトは確信していた。そしてミフユも確信していただろう。アキトは、伸ばした手先にバトンが触れるのを感じた。
――ごめん。後は、任せたよ
そう言われた気がして、アキトは力強くバトンを握りしめる。
任せろ、追いついてやる。
アキトは持てる全ての力で大地を蹴りぬいた。がむしゃらに走って、一人、また一人と抜き去っていく。
外の応援の声は、全く聞こえない。ただ、生暖かい空気の塊だけが肌を撫でる。
あと一人、あと一人追い抜けば。
その時アキトは、地面に落ちる白いテープを目撃した。
「サンキューな、アキト」
「かっこ良かったよ、最後」
ダイキやミホと手を合わせると、アキトはクラスメイトに囲まれた。
「アキトすげーじゃん!あの追い抜き」
「ごぼう抜きってか……何人抜いたんだ?」
「流石アキトだわー。信じてたぜ!」
「ああ、ありがとう」
興奮冷めやらず褒めるクラスメイトの顔に、悪意の色はない。みな純粋にアキトを褒めてくれている。ただ一方でどこか、アキトは不完全燃焼だった。
そのまま流れるように閉会式へと移る。すっかりと赤くなった陽が、今日一日流れた時間の長さを実感させた。夕暮れの風が、グラウンドに残る熱気を攫っていく。
教室に戻り各自着替え、順次帰路につく。終わってしまえばあっけない、そんなものだろう。
「まあ良いトコ見せられたんじゃない?」
着替えを済ませたアキトに、ツネオミが近づいてそう語りかけた。
「別に良いトコ見せようとか思ったわけじゃなくて……」
「でも、いい試合だったよ。外から見てて熱くなってたもん、みんな」
「はは、ありがとな。ツネオミも凄かったぞ」
「ふん、もちろん!」
下駄箱に向かって、二人で廊下を歩く。かいた汗の不快感は、もうなくなっていた。
「あっ……」
下駄箱から外に漏れる、電灯の光。アキトはそこに、一人の影を見つけた。
「……じゃ僕は、先に帰ってるね」
「あっ、ちょっ……」
引き留めようとするアキトに、ツネオミは耳打ちする。
「良いトコ見せろよ」
ニヤリと笑みを浮かべ去っていくツネオミに、アキトは大きく深呼吸した。
外履きに足を突っ込み、玄関の戸を開ける。
「よっ」
「あっ、うん……」
一瞬目が合ったものの、ミフユは慌てて俯く。それを見たアキトも、視線を前に戻した。
二人で並んで、学校からの道を歩く。すっかり暗くなった世界を、街灯が照らしていた。
二人の間の沈黙の中で、足音だけが響く。しかしその沈黙は、不思議と気まずいものではなかった。むしろどこかいつも通り、温かみさえ感じるもので。
「あの、さ」
「うん?」
ミフユに話しかけられ、アキトは一瞬歩みを止める。
「今日は、ありがと」
「ううん、悪かったな」
「そんなことないよ!悪いのは私の方で……」
振り向くと、明るい街灯の光がミフユを照らしていた。白っぽいミフユの服は、光を反射して、眩しくて。
「今日も、『追いついてやる』って言っておきながら、結局最後負けちゃったし……」
「いやいや、あれは別にアキトは悪くなくて……」
「……ナツキ以外には、負けるつもりは無かったんだけどな」
「え、」
目の前の信号が青色に光る。アキトは再び歩みを進める。
「今日さ、走る前に思ったんだよ。本当なら、ナツキもこの場に立ってたのかなって」
「……」
「もしナツキがあの場に居たとしたら、俺、勝てないだろうなあって」
「……ナツキ、足速かったものね」
懐かしむように、ミフユはうっすらと笑みを浮かべる。このミフユの表情は、アキト以外誰も知らない。そして、ナツキを思い出すアキトの表情もまた、ミフユ以外誰も見たことがなかった。
ナツキの話題。それは他者の介入を絶対に許さない、二人だけの思い出話だった。二人が共有する、強固で大切な秘密。
「ああ。だから、ナツキには負けてもしょうがない。けど、ナツキ以外に負けるつもりは無かったんだ」
「そんなことない、一対一なら勝ってたよ、きっと」
「どうだろ。でもまあ、二位でも十分。上出来だったと思うよ」
そう言って、アキトは少し顔をしかめた。ミフユに見られないように、ほんの、少しだけ。何なんだろう、この痛みは。
「とにかく、ここ何日か、ごめんなさい」
「こちらこそ、ごめん」
お互い頭を下げあってる状況を認識し、二人とも同時に吹き出した。
ミフユの笑顔が、街灯の光に輝く。
「何やってんだろうね」
けれど久々に、心の底から笑った気がする。いつものぬくもりが、胸に染みる。規則正しく並んだ街灯が、この先の道を明るく照らしていた。
「……また私、助けられちゃったね」
「いや別にそんな……気にするなって」
「ううん。私、とても嬉しかったの」
さっき散々笑ったせいだろうか。その目尻にキラリと光るものが宿る。
アキトは一瞬、息を止める。それは一瞬であったが、アキトにとっては長い時間のように思えた。
「じゃあ私、こっちだから」
「ああ、じゃあな」
「うん、じゃあね」
分かれ道、二人は手を振って別れた。一人の夜道だというのに、こんなに清々しい気分なのは久しぶりだ。
……やっぱり、ナツキには負けてもしょうがないなあ。
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