menu71 泥の手の魔獣
最初に気づいたのは、ウォンだった。
くるりと身を翻す。
上に乗った主が戸惑うこともいとわず、低く唸り上げた。
ディッシュも茂みの向こうを睨む。
「え? どうしたの?」
遅れて、ヘレネイが反応した。
怪我を負ったランクも、傷口を押さえながら立ち上がる。
2人が気づいた時には、すでに事は起こっていた。
ヘレネイは首を傾げる。
「あれ? ゴブリンの数が減ってる」
最初、何体のゴブリンと相対したのか。
その正確な数値はわからない。
だけど、明らかに数が減っていることだけはわかる。
少なくとも、5体だけということはなかったはずだ。
ずずっ……。
奇妙な音が聞こえた。
ランクが何かに気づく。
あれは!? と大きな声を上げ、指を差した。
それはゴブリンの死体だ。
茂みの中に引き込まれていく。
まるで森がゴブリンを食べているように見えた。
「「ひぇぇぇぇぇぇぇぇぇえええええ!!」」
ヘレネイとランクは揃って悲鳴を上げる。
十分にホラーな展開である。
茂みがゴブリンを飲み込んでいる。
そんな魔獣など聞いた事がなかった。
だが、ウォンは勇敢だった。
茂みにツッコむ。
目の前に現れたものを見て、ディッシュは息を呑んだ。
それは手だった。
人の手の平よりも数倍大きな手。
土から生えるように手を上げている。
手にドロドロの泥が付着していた。
向こうもこちらに気付いたらしい。
大きな手でガッチリと掴んでいたゴブリンを離す。
威嚇するように、手を握り拳を作った。
それを見て、ディッシュが叫んだ。
「やっぱりマッドフィンガーか!」
Eランクの幽霊系魔獣である。
春先になると現れ、魔獣の遺体や木の実を土中に引き込み、捕食する。
結構ビビりで、滅多に冒険者を襲わない。
だが仲間を呼ぶことが多く、遭遇すると案外厄介なモンスターだった。
ゴブリンを引き込んだのも、マッドフィンガーだろう。
「うぉん!」
早速、ウォンは新たな魔獣に襲いかかる。
だが、待ったをかけたのは、ディッシュだった。
ウォンの毛を手綱のように引っ張る。
「ウォン、待て」
「うぉん?」
自慢の毛を引っ張られたウォンは、ちょっと涙目になっていた。
首を背中の主の方へ回す。
すると、ディッシュは耳打ちした。
「あいつ、ああ見えて結構美味しいんだぜ」
「うぉん!!」
マジかよ!
って顔で、ウォンの顔が輝いた。
途端、息が荒くなる。
べろりと舌を出して、ボトボトと大粒の涎を垂らした。
「根もとの部分だけを狙って、倒すことは出来るか?」
「うぉん!!」
「よし。じゃあ、ちょっと待機な」
「うぉん?」
「一杯食いたいだろ?」
ディッシュはにしし、と笑う。
ウォンは目を丸くする。
ぴょんと勢いよく跳ねて、喜びを表現した。
「ディッシュくん、どうしたの――って」
「マッドフィンガーか!?」
ヘレネイとランクがやってくる。
ポツンと地中から手を出した魔獣を見つめた。
「どうしたの? 早く倒さないと!」
「仲間を呼ばれるぞ」
2人は慌てる。
だが、ディッシュもウォンも動かない。
むしろ、それを待っているのだ。
突然、マッドフィンガーが震え出す。
彼らに声帯はない。
だが、身を震わせることによって、仲間を呼んでいるのだ。
「来るぞ!」
ディッシュはニヤリと笑う。
その予言は当たる。
地面から次々とマッドフィンガーが現れた。
「ちょ! これ!?」
「おいおい。大丈夫なのか?」
ヘレネイとランクのペアは悲鳴を上げる。
だが、ディッシュの笑みは消えない。
ウォンに至っては、ただ牙を舌でなめるだけだった。
「行け! ウォン!!」
「うぉん!!」
ウォンは吠える。
マッドフィンガーで埋め尽くされた地面に飛び込んだ。
それは歓喜に満ちあふれていた。
ジャッ!
鋭い音が空気を切り裂いていく。
次瞬、マッドフィンガーが根もとから斬られた。
ポポポポンッという感じで複数のマッドフィンガーが、青い空に打ち上がる。
一瞬だった。
10数体はいたであろうマッドフィンガーは全滅した。
「すごい!」
ヘレネスは呆然とする。
横のランクも声も出ないらしい。
地面に転がったマッドフィンガーを見つめるのみだった。
脅威が去る。
ディッシュはウォンの背中から降りた。
倒したばかりのマッドフィンガーを見つめる。
「でぃ、ディッシュくん。危ないよ」
「大丈夫だ。死んでる」
「そうだけど……」
ドロドロの魔獣を見つめる。
薄気味悪い手だけの姿を見て、ヘレネイは顔を顰めた。
すると、ディッシュはずっと背負っていた木の背嚢を下ろす。
何かを取り出す。
現れたのは、竹筒で作った水筒だ。
その中身を、背嚢の横に下がっていた桶の中にぶちまけた。
「ちょっと! ディッシュくん、もったいないわよ」
冒険者にとって、いついかなる場所でも水は貴重である。
その水をすべて開けるなんて、先輩冒険者として見過ごすことができなかった。
しかし、ディッシュは反省する様子もなく、答える。
「大丈夫だよ。これはそもそも水じゃない」
「水じゃない?」
ディッシュは作業を続ける。
水を張った桶に、討伐したばかりのマッドフィンガーを浸けた。
じゅぅぅぅぅぅうううぅぅぅぅぅううぅぅううぅぅぅうう!!
肉が焼けるような音が山野に鳴り響く。
ヘレネイたちは桶を覗き込んだ。
その名の通り、泥を纏ったマッドフィンガーがみるみる溶けていく。
正確に記すならば、その泥が溶けていっているのが見えた。
一体、何がどうなっているかわからない。
ヘレネイが首を傾げていると、ディッシュが答えた。
「その水は聖水だ」
「せ、聖水!?」
「ちょ! こ、こんな大量の聖水をどこで?」
「この量だけで、金貨1枚ぐらいはするんだぞ?」
「そうなのか? 俺んちの甕には、もっと一杯入ってるぞ」
「「甕一杯!!」」
2人は声を揃える。
ヘレネイは指折り数え始めた。
だが手が震えて、うまく計算できない。
ランクに至っては、初めから計算を放棄し、呆然としていた。
すると、2人ディッシュに背中を向ける。
何やらひそひそと話を始めた。
「ね、ねぇ……。もしかして、ディッシュくんって金持ち?」
「いや、そんな風には見えないぞ」
「でも、嘘を吐いているようにも見えないわよ」
「だな……。それにあのウォンだって随分手なずけられているし」
「でしょ!?」
ヘレネイは食い気味に、ランクに迫る。
そっと振り返った。
ディッシュとウォンは、桶の中をのぞき込んでいる。
「そろそろだな」
ディッシュは言った。
桶の中に手を突っ込む。
その手に握られていたものを見て、ヘレネイたちは絶句した。
「――――ッ!!」
それは手だった。
マッドフィンガーを入れた桶である。
手が出てくるのは当たり前だろう。
だけど、それは泥を纏った魔獣などではない。
まるで鶏肉のような肉々しい手だった。
手と聞くと、どうしても残酷なイメージがある。
が、その姿はある意味
聖水に濡れた艶っぽい桃色の肌。
かすかに震えると、ぷるりと蠢き、捌きたてのような新鮮さを感じる。
若干ぬめって見えるのは、脂だろう。
泥の中に含まれていたものだ。
それは魔獣。
それも手の形をしている。
どれほど鮮やかな姿をしていても、その事実は覆らない。
けれど、ヘレネイもランクも思わず――。
ごくり……。
唾を飲み込んでしまった。
怖いとか、グロテスクとかいうよりも先に思ってしまったのだ。
「ヘレネイ! ランク!」
「は、はい!」
「な、なんだ!?」
突然、声をかけられる。
何故か思わず背筋を伸ばしてしまった。
背中を向けていたディッシュが振り返る。
まるで見せつけるように、マッドフィンガーだったものを掲げた。
「今から礼をするよ」
「礼?」
「美味いもん食わせてやるっていったろ?」
「美味いもんって……。もしかして、それ?」
「ああ……」
ディッシュの口角が上がる。
そしてこう言った。
マッドフィンガーの手袋揚げ……。
「マジでほっぺた落ちちまうぞ」
満面の笑みだった。
そして聞こえてくる。
あの悪魔の囁きのような笑声が……。
にししし……。
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