menu31 ドクブクロのヒレ酒
ディッシュは竹の水筒を開けた。
瞬間、つんと鼻を突く香りが、ネココ亭に立ちこめる。
その匂いの中には、かすかに果実のようなものも含まれていた。
「いい匂いにゃ」
「いや、でもこれは……」
「おい。ディッシュ、これもしかして酒か?」
間違いなく酒だ。
だが、嗅いだことのない香りだった。
「おう。俺、特製のお酒だよ」
「昔、山に入る前に酒蔵で仕事をしてたんだ。『このゼロスキルが!』っていって、5日で追い出されたけどな。大まかな工程はその時に覚えた」
ディッシュは実に簡単そうにいう。
だが、出されたお酒には血が滲むような苦労が詰まっているのだろう。
お酒を造るというのは、才能があったとしても一朝一夕でなせるものではない。膨大なトライ&エラーを繰り返し、出した成果がこのお酒だった。
「すっげぇうまいぞ。何せ聖水で作ってるからな」
「せ、聖水!!」
酒の善し悪しは、まず使う水で決まる。
それが清らかであればあるほどに良いと、ルーンルッドでは考えられていた。
その点で、聖水は最高級といっていいだろう。
薬草、スキル、魔力による加熱など、様々な方法で水の中にある穢れを払ったものだからだ。
「待て待て。聖水なんてぶっかけたら、発酵菌まで殺しちまうだろう」
ロドンも専門家ではないが、酒の作り方は一通り知っている。
ディッシュの口振りからして、酒は間違いなく醸造酒だ。
それには菌を振りかけ、発酵させる工程がある。
菌は一時的な穢れを呼び、酒精を生み出す。
だが、聖水を使えば、菌ごと死んでしまう。
それでは発酵させることが出来ない。
「だったら元々穢れていないものを使えばいい」
ディッシュは小さな瓶に入った灰のようなものを見せる。
「火精霊の灰だ」
「火精霊の灰!!」
ルーンルッドに住まう精霊の一種。
時々、森や平原に現れては、火を付け悪さをする。
だがこの行動は、土地に溜まった穢れを浄化するためだという専門家もいる。
現に、火聖霊に焼かれた土地は、数年後とても豊かになるという。
ディッシュはその場面をたまたま目撃した。
そして一部の実が、精霊が残した灰を被って発酵していることに気付いたのだ。
すると、キャリルは今一度、自慢の鼻を利かせた。
「そもそも……。何を発酵させているのですか? わたくし、この匂い……。どこかで嗅いだことがあるような気がしますの」
「よく気付いたな、さすが犬魔人」
「犬獣人ですの!!」
「それはだな。お前の大好きなマダラゲ草の種実だ」
「ま、またですのぉ!」
「あれか。キャリルが山で迷子になっている時に食べさせていた」
「おいおい、ディッシュ。マダラゲ草って毒草じゃねぇか」
「心配すんなよ、ロドンのおっさん。毒は葉にあるし、種の中の胚芽も取った。そもそも聖水で作ってるんだぜ。毒なんてあるわけない」
「そりゃそうだが……」
「解説は終わりだ。どうぞ味わってくれ」
それぞれの前に杯が置かれる。
ルーンルッドでは、国にもよるが16歳からお酒が飲める。
この中で、唯一飲めないのは、キャリルだけだった。
毒草のお酒というだけあって、しばし皆迷う。
先陣を切ったのは、ディッシュだった。
ぐいっと一気に呷る。
「ぷはあああああああ! うめぇぇぇぇええ!!」
豪快な飲み方。
その感想……。
皆の興味が一気に酒に向く。
マダラゲ草の種実だという考えは吹き飛んだ。
アセルス、ネココ亭の亭主、そしてロドンが酒を呷った。
「くぅぅぅぅぅぅうううう!!」
「まあ!!」
「うめぇぇぇぇぇええええ!!」
それぞれがそれぞれの顔をしながら、叫んだ。
味は? と問われると、途端に黙った。
これが難しい。
あえていうなら、水だ。
酒なのに、これは水なのだ。
あまりに透き通り、澄み渡った上質な水だった。
口に入れた途端、スッと身体全体に消えていくような感覚。
だが、舌には確かにまろやかな感触が残っている。
口の中に一杯詰まった雪が、一瞬にしてなくなったような感じだ。
しかし、これは酒だ。
あくまで酒だ。
それは、喉を通った瞬間やってくる。
「むぅぅぅぅうううう!!」
ロドンは唸る。
強烈な酒精感が、「我をお忘れか?」といわんばかりに襲ってくる。
瞬間、強烈な酒精の匂いとともに、かすかなフレバーが鼻を突いた。
かっと顔の血管が開き、ロドンはたちまち赤ら顔になる。
水のように飲みやすい。
だが、その喉ごしは紛うことなき、お酒だった。
ロドンは額で自分の熱を計りながら呟いた。
「あー、ダメだ。これ、滅茶苦茶飲めるヤツだ」
そう言いながら、竹筒を掲げる。
もう一杯注ごうとしたが、それを止めたのはディッシュだった。
「おいおい、おっさん。俺の料理はこれからだぜ」
「お前、まだ何かする気か……」
もう十分だ。
いや、十二分に堪能した。
しかし、ゼロスキルの料理人の料理は終わらない。
これでもかと畳みかける。
「ニャリス、シチリンを出してくれ。炭はまだ残ってるよな」
「は、はいにゃ」
ディッシュは指示を出す。
手早く木炭に火を入れた。
網に熱がこもるのを待つ間に、今度は鍋に水を張って、湯を沸かし始める。そこに、酒が入った竹筒を入れて、燗にした。
網に戻ると、ディッシュが取りだしたのは、ドクブクロのヒレだった。
ロドンはその時点で気付く。
思わず生唾を飲み込み、ヒレを焼くディッシュを見ながら呟いた。
「お前……。悪魔か……」
「むふふふ……」
ディッシュはにやける。
それは罵倒ではない。
料理人に対する最大の賛辞だったからだ。
まさにお腹の征服者。
悪魔といわれても仕方がない。
ドクブクロのヒレ酒の出来上がりだ。
ディッシュは酒杯の中にヒレを入れ、1度蓋を閉じる。
少し時間を置いて蒸らすと、蓋をずらした。
ふわっと蒸気が上がる。
ああ――。
皆の顔が変わった。
悦に浸った表情を浮かべながら、ふんふんと鼻を利かせる。
香りが違う。
果実を思わせるような匂いが、一変し磯の香りへと変わっていた。
刺身で食べた時よりも、強く香気を放ち、ネココ亭の梁に染みこんでいくかのようだった。
香りを堪能した後は、いよいよ実飲だ。
ロドンはちびりと口にした。
「ぬぅぅぅぅぅうううううう!!」
白鯨の尾ひれにひっぱたかれたような衝撃だった。
美味い!
香りもそうだが、酒の味も一変している。
醸造酒本来の旨味と、ドクブクロの旨味が見事に合わさり、調和していた。
先ほどまで飲んでいた酒は、静かな湖畔のようだった。
今は違う。
荒波が立つ大海へと、味が変貌していた。
磯の香りが一層強くなる。
同時にドクブクロの塩気、風味が口の中に広がっていった。
そうだ。
海だ!
口の中一杯に、海が広がっていく。
ふとロドンは、白鯨を倒した時のことを思い出す。
海の真ん中で得た達成感……。歓喜。感動!
このヒレ酒には、海の醍醐味が詰まっていた。
「うっうっうっ……」
気が付けば、ロドンは泣いていた。
白鯨討ちの伝説の漁師が、人前憚らず、涙していたのだ。
「お、おい。おっさん……。何を泣いてんだよ。そんなに美味かったのか」
「ああ……。美味かった。ゼロスキルの料理……堪能させてもらった」
「そいつは良かった」
「同時に思い出したよ。海ってもんを」
ロドンは白鯨を討ってから、目標を失っていた。
漁は続けたが、網を放ち、それを回収し、ドクブクロを選別する日々。
そんな在り来たりな毎日に、白鯨を討った頃のモチベーションはすっかりなくなっていた。
「俺は、白鯨を討ったことによって、海のすべてを知った気でいた。そんな風に思っていたんだ」
けどな、とロドンはディッシュの肩を掴む。
酔っているのか、力の入れ方に容赦がない。
ディッシュは苦笑するのが精一杯だった。
「お前の料理を食べて思い知ったよ。まだまだ海は広い! そして深い! 俺の知らないことがまだまだあるんだってな」
「良かったな、ロドンのおっさん」
「おう……。お前はすごいよ、ディッシュ。認める。お前は――ゼロスキルの料理人は、俺が生涯会った中で最高の料理人だ」
「へへへ……。そう改めていわれると、照れるな」
にししし、とまたディッシュは子供のように笑うのだった。
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