menu30 ドクブクロの刺身
ドクブクロの口から、ぽこりと黒い霧が浮き出てくる。
1匹だけではない。
水に浸かったドクブクロすべてからだ。
だが、不思議なことは続いた。
ディッシュが軽く桶の中をかき混ぜると、黒い霧がスッと消えてしまったのだ。
溶けたというよりは、消滅したという感じだ。
ロドンは顔を上げた。
「おい。ディッシュ、この水はなんだ?」
「聖水だ」
「ま、また聖水ですの!?」
反応したのはキャリルだ。
以前、聖水で洗ったマダラゲ草の種実を食べたことを、まだ根に持っているのだろう。
少し昔のことを思い出し、憤然とした表情へと変わっていった。
一方、ロドンは顎鬚を撫でながら、感心する。
「考えたな。ドクブクロの毒を聖水で浄化するなんて……。でも、なんでこいつら毒を吐き出したんだ?」
「知らん……」
あっさり首を振った。
ロドンの巨体が思わずつんのめる。
皆も「あらら……」とがっくりと肩を落とした。
ディッシュはガリガリと頭を掻く。
「ドクブクロの毒は、海中にある穢れや不浄なものを吸い込んで溜めたものだ。だったら、穢れのない水でこいつを飼った時、どうなるか知りたかっただけだよ」
「結果、毒を吐きだすことに気付いた」
「なんでなのかはわからねぇけどな」
すると、ディッシュは毒が混じった聖水を捨てる。
新しい聖水に沈める。その中でドクブクロを洗い始めた。
ドクブクロに素手で触っても、問題はない。
毒を外に分泌する器官が、この魚獣にはないからだ(とはいえ、口から吐き出すことが、ディッシュによって証明されてしまったが)。
いよいよディッシュは魚を捌き始める。
いつもの短剣だ。ネココ亭の主人ノーラが、包丁を勧めたが、ディッシュは使い慣れている方がいいと、いつも通り短剣で作業を開始した。
まずヒレを取る。頭と腹に短剣を軽く入れ、べろりと皮を剥いだ。
「おお……」
思わず歓声が鳴る。
白銀の身が現れたのだ。
しかも、魔獣とは思えない。
見るからにわかる。
ぷりぷりと身が踊っていた。
ディッシュの作業は続く。
次に下顎を外しはじめた。
ドクブクロは、顎だけではなく、頭全体の骨格が非常に頑丈に出来ている。
これは彼らが大型の生物を食べるためだろう。
並の料理人なら、かなり苦戦する工程も、ディッシュはなんなくこなす。
短剣捌きは一瞬の淀みもなく、考えることも、止まることもない。
その時のディッシュだけは、いかな【光速】のアセルスといえど、追いつくことは不可能だろう。
ロドンも見事な捌きに見入っていた。
漁師である彼も、料理をやる。
甲板で魚をさばくなんてしょっちゅうだ。
だから、わかる。
今、目の前で繰り広げられている解体ショーが、如何に凄いことかを。
顎を取る。
すると、一気に身を裂いた。
まるで魔法にかかったかのように、内臓と身が別れる。
思わず拍手が鳴り響いた。
「これが
内臓の中に、大きな袋があった。
今は毒が抜けて白っぽくなっている。
ディッシュは内臓ごとすべて捨てた。
「ちょっともったないような気がするが……」
アセルスは捨てられた内臓部分を見つめた。
毒嚢に近い故、危険なのはわかっている。
だが、ディッシュなら料理できるんじゃないか、と思ってしまう。
ゼロスキルの料理人は神妙な顔をし、首を横に振った。
「試しに魔獣の餌にしたことがあるんだが、魔獣たちは一切手を付けなかった。たぶん、良くないものが入っているんだろう」
探究心の権化ともいえるディッシュでも、なんでもかんでも食べるわけではない。
毒の有無を調べるのも、料理研究課題の1つだ。
マダラゲ草の種実に毒がないと知ったのも、魔獣や野生の動物がそこだけを食べていたからだった。
1度、まな板とドクブクロの身を聖水で滅菌する。
いよいよ身に短剣が入った。
ディッシュは身が透けて見えるくらい薄く切り始める。
それを皿の上に並べた。
出来上がったのは、大輪の花だ。
わああああ……と女性陣から歓声が上がる。
「綺麗だ」
アセルスはため息を漏らす。
確かに綺麗だった。
だが、逆にそれが食欲をそそる。
銀色の身には、十分なほど脂がのり、キラキラと輝いていた。
けれども、如何に美味そうに見えるとはいえ、これはドクブクロの身だ。
さすがに、すぐには食指が動かない。
皆の出方を待っていると、大きな手がドクブクロの身を1枚摘んだ。
ロドンだ。
ひとまず何も付けず、口に運んでみる。
すると……。
「…………」
沈黙した。
伝説の【白鯨討ち】は、確かにお喋りという人間ではない。
だが、魚と料理のこととなれば別だ。
うまいと思えば、うまいといい。まずいと思えば、まずいという。
そういう実直な性格の持ち主であることは、この場にいる人間は大体掴んでいた。
その男が黙る。
口に入れたドクブクロの身を咀嚼し続けた。
もちゃもちゃ……。
もちゃもちゃ……。
もちゃもちゃ……。
長い――。
とても長い!
いつまで咀嚼しているのだろう。
そんなに硬い身なのだろうか。
しかし、ロドンの表情は噛みにくい身に苦戦している様子ではなかった。
どちかといえば強面の顔が、どんどん緩んでいく。
ごくり……。
ようやく飲み込んだ。
すると開口一番、ロドンは言い放った。
「うまい!!」
びりびりと空気が震えた。
まるで突風が吹き抜けたかのようだ。
ロドンは顔を輝かせる。
もちろん、うめき声を上げて倒れることもなかった
むしろ食べる前より溌剌としている。
もう我慢の限界だ。
ネココ亭に集った女性陣の箸が、我先と皿に殺到する。
恐れを知らない
――――!!
「「「「……………………!!」」」」
再び沈黙する。
ネココ亭に響き渡ったのは咀嚼音だけだった。
もちゃもちゃ……。
もちゃもちゃ……。
もちゃもちゃ……。
この時、全員が理解していた。
何故、あんなにロドンの咀嚼時間が長かったのか。
簡単な話だ。
恐ろしく身が肉厚なのだ。
それを見越してなのか。
ディッシュはあらかじめ薄く切っていた。
それでも分厚い肉の塊でも食べているのかと思うほど、凄まじいほどの弾力感を感じる。
だが、これほど咀嚼すると、どうしても飽きが来る。
早く飲み込んでしまいたくなるものだが、誰もそうしない。
乙女たちは艶めかしい舌使いで、身をころころと転がし、咀嚼を続ける。
旨い……。
食べれば食べるほど、旨みが出てくる。
そして磯と潮の香り。その風味が口を通し、鼻腔を通っていく。
ああ……、見える。
海が見える。
ごくり……。
ようやく、乙女たちは飲み込むことを決意した。
「「「「はあ……。うまい……」」」」
恍惚として呟く。
まだ一切れしか食べていないのに、腰が砕けてしまいそうだ。
それほど、神秘的な体験だった。
「お前らさ。そんな1枚1枚みみっちぃ食べ方してないで豪快にいけよ」
するとディッシュは、細く切ったドクブクロの身を一気にすくい上げた。
そのまま口に入れる。
「「「「ぎゃあああああああああ!!」」」」
女性陣から悲鳴が上がった。
「で、ディッシュ! 何をやっとるのだ! もったいない!」
「そうです! もっと味わって食べるべきです!」
「にゃはははは! ディッシュは食いしん坊さんだにゃ!」
「もちゃもちゃ……。心配すんな――もちゃもちゃ……。まだまださばいてやるからよ――もちゃもちゃ……」
「食べるか。話すかどっちかにしろ、ディッシュ!」
「アセルス様の言うとおりです!!」
「にゃはははは!」
盛り上がる女性陣を尻目に、別に用意された皿にウォンも口を付ける。
こちらも満足した様子で「おおおおおお」と声を上げていた。
その横でロドンは、次に塩を付けて食べてみた。
「うん……。うまい」
くぅ、と歯を見せて笑う。
塩を入れることによって、ドクブクロの身の旨みが増す。
より強く身の味を感じることが出来た。
ロドンは箸を置く。
はあ……。ため息を吐いた。
「こんなことなら、酒でも持ってくれば良かったぜ」
ロドンの言葉に、口角を上げるものがいた。
ゼロスキルの料理人――ディッシュだ。
「おっさん、その台詞を待ってたんだ」
するとディッシュは、背嚢から竹の水筒を取り出すのだった。
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