第二章
menu29 白鯨討ち
ゼロスキルの料理人――ディッシュのテリトリーは、何も山に限った事ではない。
沢や岩間、洞窟、ダンジョンetcetc。
食材があるところなら、どこでも駆けつける。
そして今彼がいるのは、海――漁港だ。
まだ未明の漁港は、すでに大にぎわいだ。
たくさんの漁師や仲買人たちでごった返している。
霧が煙る市場では競りが行われ、買い付けにきた業者が声を張り上げていた。
ディッシュの家から漁港まで、かなりの距離がある。
朝一番に来ようと思ったら、前の日の夕方には出発しなければならない。
だが、今回はウォンの背中に乗ってきた。
時間は半分以下に短縮され、深夜に出たのに朝の競りには間に合った。
神狼は風のように速く、主を驚かせたが、正直にいうと怖くて、終始顔が引きつっていた。
「よいしょ……」
ディッシュは愛狼ウォンの背中から下りる。
ありがとう、と撫でてやると、神狼は目を細めた。
競りの声が聞こえる一方、漁師たちは片づけに追われている。
網を畳み、次の漁の準備をしたり、2度目の朝食を食いに出かける。
今日はもう漁に出ない漁師などは、朝からやっている酒場に仲間を連れ立って雪崩れ込んでいった。
その1人にディッシュは話しかける。
「おっちゃん!」
船の係留作業をしていた漁師は振り返る。
大柄の男で、熊のような男だった。
顔は陽に焼け、もみあげから顎髭までがくっつき、蓬髪を潮風になびかせている。
彼の名前はロドンという。
ベテランの漁師で、この魚河岸でも知らない人はいないほどだ。
スキルは【必中】。
銛の投擲では並ぶものがいないほどの腕前を持ち、一昔前に白鯨と呼ばれる大きな魔獣を仕留めたこともある。
さすがに技は衰え、今では気のいい漁師だった。
漁師仲間からも信頼が厚い。
多くの漁場を知り尽くし、この辺りの海のことは何でも知っていた。
そのロドンは少し冴えない顔を上げる。
何か漁で失敗でもしたのか。
大きく息を吐いた。
自分よりも頭1つ小さな青年に声をかけられ、ロドンは目を細めた。
「なんだ、坊主か。久しぶりだな」
「おう。久しぶり。ところでさ――」
「ああ。もう何もいうな。そろそろ来る頃だろうと思って、用意しておいたぜ」
一旦船内に戻っていくと、ロドンは桶を持ってやってきた。
中に入っていたのは、まるで風船のように膨らんだ黒い鱗の魚だ。
ドクブクロという。
小さいが、これでも歴とした魔獣だ。
名前の通り、体内に毒を持っている。
毒を体外に分泌するような器官は持たないが、誤って食すと、大型の生物ですら即死する。
そうした生物の死骸を食べて、ドクブクロは海の中で生き抜いている。
漁師たちからすれば、はた迷惑な話だ。
当然、網には普通の魚に混じってドクブクロもかかってくる。
それもかなりの量でだ。
仲買人はむろん買わないので、漁師たちは手作業で仕分けるしかない。
今の今まで、ロドンが係留作業をしていなかったのも、そのドクブクロの選別を船の上でやっていたからだった。
しかし、そんなはた迷惑なドクブクロをキラキラとした目で見る男がいる。
ディッシュだ。
まるで宝石でも見るかのように瞳を輝かせていた。
「もらっていいのか?」
「聞くまでもねぇ。持ってってくれ。……ところで、いつも何をやってるんだ。いかがわしいことでもやってないだろうな」
「言ってなかったか? 食べるんだよ」
さらりとディッシュは答える。
ロドンは目を剥いた。
ドクブクロの毒は、もちろん人間にも効果がある。
服用した途端、意識は朦朧とし、全身の筋肉が麻痺する。
素早く【解毒】のスキルか、アイテムを使わないと、あっという間に死に至るほどの猛毒なのだ。
それを食べる。
確かにディッシュはそういった。
「おいおい。危険じゃないのか? お前、死ぬぞ?」
「まだ死んでないぞ。もうこれで食べるのは、4回目だけど……。ほら、生きてるだろ?」
ディッシュはやや緩んだズボンをめくり上げる。
しっかりと足が地に着いているのをアピールした。
「じゃあ、あれか? 食べた瞬間【解毒】のスキルを使うとか」
「そんなことしないよ。言わなかったっけ? 俺はゼロスキルなんだぜ」
「ゼロスキル? スキルがないってことか?」
「ああ……。だけど、このドクブクロから毒をなくす方法は知ってる」
「ドクブクロから毒をなくすだと!」
そんなことが出来れば、漁師界の革命といってもいい。
迷惑なドクブクロを食べることが出来る。
つまり、商品にできるということだ。
さらにいえば、無駄な選別作業もゼロに出来るかもしれない。
ロドンはがっしりとディッシュの肩を掴んだ。
昔、白鯨を仕留めた手が、皮膚に食い込んでいく。
ディッシュは思わず「痛てて」と悲鳴を上げた。
ロドンは真剣な眼差しで訴える。
「教えてくれ! ドクブクロの食べ方を!!」
◆◇◆◇◆
3日後、ロドンはネココ亭の前に立っていた。
ディッシュとの待ち合わせがここなのだ。
ネココ亭は漁師の間でも有名な店で、ロドン自身も何度か訪れたことがある。
若い女将が切り盛りをしていて、その魚料理は取れたての魚に勝るとも劣らないほど絶品だ。
最近、あの悪魔の魚を提供していることでも、魚河岸で話題になっていた。
どうやら今日はお休みらしい。
準備中という札が、昼を過ぎてもかかっている。
女将が1度病気で倒れた後から、7日に1度休みをとることにしたという。
その休日であるはずのネココ亭の扉が開く。
現れたのは、看板娘のニャリスだった。
ロドンの顔を覚えているらしく、明るく話しかけてくる。
「いらっしゃいませ、ロドンさん! どうぞどうぞ! みんな待ってますよ」
「みんな?」
中に入ると、人が集まっていた。
ネココ亭の女将ノーラに、ディッシュ、その狼、メイド姿の犬獣人に、そして金髪の美しい女性もいる。
「もしかして、聖騎士の――」
「初めまして、ロドンさん。アセルス・グィン・ヴェーリンと申します。ロドンさんの白鯨討伐の話は、聞き及んでおります」
丁寧に挨拶された。
こういう堅苦しいことが苦手なロドンは、蓬髪を掻いて照れを隠す。
ディッシュを引き寄せると、無理やり肩を組む。
「おい! ディッシュ! なんでここに【光速】のアセルスがいるんだ。貴族様だぞ! 貴族!」
「うん? いや、美味いもんを食わせてやろうかっていったら、付いてきたんだ」
「どういう関係なんだよ、お前たち!」
「友達だ。よく俺の家にくる!」
「お前の家に来るのか! 貴族様が!? ――ってことは、何か? お前たち付き合ってんのか?」
「付き合う? 付き合うってなんだ?」
ディッシュがいうと、ロドンは顔を手で覆った。
ちらりとアセルスの方を盗み見る。
ヴェーリン家の当主が、山奥に住む青年の家に、何も心に抱かず通うわけがない。
堅物なロドンでも、今の姫騎士の心境は手に取るようにわかった。
ベンッ!
ロドンはディッシュの背中を叩く。
あまりの衝撃で、背骨が口から出てきそうだった。
「大事にしてやれよ」
柄にもなく、ロドンはウィンクをして、エールを送った。
すると、ウォンが「うぉん」と自己紹介する。
どうやら催促しているらしい。
すでに、床には数滴の涎が垂れていた。
アセルスの腹が小さく鳴る。
今日は、他に客がいるので、遠慮がちだ。
それでも、いつも以上にお腹が空いていて、何度も生唾を飲み込んでいた。
ネココ亭の女将と看板娘も笑っている。
その横で、メイド服の少女が眉間に皺を寄せ、凝視していた。
ロドンは気付く。
みんなの視線が、ディッシュに向いていることを。
皆、ゼロスキルの料理を楽しみにしているのだ。
その料理人はにししと笑う。
厨房にデンと桶を置いた。
中には、ロドンがあげたドクブクロが入っている。
一見、なんの変哲もない。
すると、ディッシュは口を開いた。
「そろそろだな」
占い師のように予言する。
それは的中した。
突如、ドクブクロの口の中から、黒い霧のようのものが吐き出されたのだ。
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