この世界で生きる者-5


 何か、ふわふわと浮かぶような感覚。かつては海という美しい水が広がる場所があったのだという。今、この世界での海はまだ見たことはない。だが、おそらく灰色に染まっているのだろう。

 だから、これは想像するだけ。今の感覚はきっと、『海』に浮かんでいるような感覚なのかもしれない。なぜこのような感覚を得ているのかはわからない。そもそも、自分は何をしていたのだろうか。

 確か、いつもの家で情報を集めている最中に気になるものが見つかった。そして、それを探しに行って、それで……灰喰らいに。ティアに出会ったんだ。

 それから、それから……そうだ、結局目標としていた座標について、建物を見つけたんだ。そこで軽い食事をして、休憩して──


「──ッ!」


 目が、覚めた。あいかわらず暗い部屋の天井が見える。……あれ、こんなに暗かったっけ?


「おはよう。ようやく目が覚めたのね」


 声のする方を見ると、ティアが変わらずソファの上に座っていた。その隣にはクレイの持っていたランタン──に布が被さっている。どうやら記憶よりも暗いと感じたのはそれが原因のようだ。眠ってしまったクレイに配慮してくれたのだろうか?


「眩しいと眠りにくいかと思って。灰喰らいは睡眠を必要としないし、夜目も利くから」

「……ありがとう。僕はどのくらい寝てたの?」

「細かい時間の感覚はわからないけど、おそらく四、五時間ほどじゃないかしら」


 思った以上にぐっすり眠ってしまっていたようだ。一応建物内とはいえ危険な場所には変わりないというのに、警戒心がだいぶ緩んでしまっていたようだ。ティア

という灰喰らいの存在があったのも大きいかもしれない。


 今更ではあるが、彼女を信用しすぎているのではないだろうか。ティアは優しい子だとは感じている。だが、彼女は灰喰らいであり、人間ではない。自分の価値観とズレているというのは重々承知している。

 少しは警戒すべきなのだろうとは思う。それでも、久方ぶりに外で自分以外の人……ではないかもしれないけど、誰かと共にいる。そのことが自分の中で少し大きな意味合いを持ってしまっている。一人ではないということによる安堵は確かに

存在しているのだ。


「疲れているのならもう少し寝ていても構わないけど。幸い目立った動きはないから」


 灰物のことだろうか。感知ができるというのはやはりありがたい。

 ……うん。深く何かを考えるのはやめておこう。

 今考えたところで何かが変わるような気はしなかった。


「もう休息は十分だよ。そろそろ探索しよう」

「そう」


 ティアはランタンにかけていた布を取り払う。部屋に暖かな光が広がっていく。

 荷物を整理しなおし、担ぎなおす。ティアからランタンを受け取って準備は完了。


「それじゃ、行こうか」

「ん」





 少し歩いてみたが、どうやら今いる階層が最上階らしく、上に向かう階段は見当たらなかった。なのでこの階層から探索をすることに。

 結論から言ってしまえば目的としていたものは見つからなかった。だが、様々な絵画などの芸術品や調度品は残っており、知的好奇心を満たすには十分すぎるほどの情報が転がっていた。

 ただ持ち帰るには量も多く、かつこの景観を損ねてしまう気がして手を出すことはなかった。

 そもそも目的のものは別にある。だが、今のところそれらしきものは見つけられなかった。


 下に降りても基本的には変わらず。少しティアと会話をしながら過去の色を巡っていく。はるか昔には美術館というものがあったらしい。きっと今していることはその美術館の散策と似たような行動なのだろうか、などと思いを馳せてみる。馳せてみたところで何かが得られるわけでもないし、そもそも見たこともないのだからあまり意味はないのかもしれないけど。

 この階層も終わり、さらに下へ……


「……クレイ、目的のものはまだ見つからないの?」

「え? うん。でも、結構近くにはあるはずだから、そろそろ見つかると思うけど」

「そう。なら、それを見つけたら早めに撤退するわよ」


 先ほどまでよりも少し緊張したような声音。ティアが警告するということは……。


「……灰物?」

「あるいはそれより厄介なもの、かしら。何はともあれ、少し駆け足で」

「わ、わかった」


 明確にはわからないがここはティアの支持に従った方が良さそうだ。幸い今までの階層で見慣れ……というより十分に堪能したので多少の飛ばし見は許容範囲。

 駆け足で巡りながら、ちらりと手に持っていた『探知機』を確認する。目的の物は近くにある。


「ティア、僕の目的の物はそろそろ見つかると思う……よ?」


 振り返る。気が付けば後ろにあった足音が消えていた。ランタンで照らしてみても、そこには誰もいない。


「……ティア?」


 暗い廊下にはただただ不気味な静寂が広がっているだけだった。





 こつ、こつ、と小さな足音が暗闇に響く。常に明かりの乏しい地上に生きる灰喰らいにとって、暗闇は既に慣れ親しんだものであり、見えないという感覚もない。夜目は利くし、大まかな居所は知覚できる。

 その中でティアはに近づいていく。クレイが向かった方向にはいなかったのでおそらく大丈夫だろう。であれば、ここは自分が対応しようと考えた。

 敵対しているのか、はたまた友好的なのかはわからなかった。ただ、この階層にきた瞬間、明確な殺意を向けられてしまっては和解は難しいように感じた。人間は思い込みが激しい生き物だから。


「そろそろ出てきたらどうかしら? ゆっくり囲おうとしてるみたいだけど、もうバレてるわよ」


 立ち止まり、暗闇に呼びかける。少しの沈黙の後、隠していた音が露わになったかのようにズルズルと布を引きずる音がする。そして、全方位とは言わずもほぼすべての方向から大きな布を纏った人影が姿を現した。

 ティアの正面。おそらく主犯格であろう杖を突いた人影がランタンを取り出し、火をつける。


「われらが聖域に忍び込みし邪教徒よ。灰無き世界に何を見る?」


 低く、しわがれた声。ランタンで照らされた布の隙間からは傷んだ白髪が覗いている。


「邪教徒? 何の事かしら。生憎と私は無宗教よ」

「黙れ! 神より賜りし神聖なる灰を穢す者よ。お前たちの存在は神への冒涜と知れ!」


 カンッ! っと強く杖で床を打つ。それに呼応するかのように周りの人影からにじみ出る嫌悪、憎悪、哀れみといった感情がティアを取り囲む。


 そういえば、とティアは以前ネラが話していた『灰神教はいがみきょう』について思い出した。

 延々と地上に降り積もる灰。それは神が与えたものであり、いつかこの世界が全て灰に変わったとき、新たなる世界と救済が訪れる、といった宗教なのだそうだ。

 そして、その降り積もる灰を除去する灰喰らいは神の行いに背く冒涜者。邪教徒という扱いをされるのだと。


 馬鹿馬鹿しい、ティアは思う。仮に世界全てが灰になったならば、その救済とやらが来る前に人間はとうに滅んでいるだろう。何より──

 辺りを見回す。今は人影たち──灰神教徒が持つランタンの明かりだけではあるが、ここには確かに誰かが暮らしていて、様々な色彩に囲まれて生活していたはずだ。そんな綺麗な『色』を全て無機質な灰色に染めるのが神だというのなら、自分は喜んで邪教徒になろうと思える。

 つまり、ティアが彼らと和解することは絶対にありえない。


「……やはり貴様たち灰喰らいはこの世界の穢れだ。膿だ。そのような輩は」


 ざざざっ、と空いていた隙間を埋めるように教徒がティアを囲う。


「我等が教徒として排除せねばならぬなぁ!」

「ッ!!」


 教徒たちが動くよりも早く飛び退る。数瞬後に響く銃声。だが、その銃弾がティアを射抜くことはない。

 素早く周囲を確認したティアは手始めにすぐそばにいた教徒の足を払い、体制を崩させる。そのまま教徒を盾にして──


 ──ズドン


「!?」


 たった今足を払った教徒は既に息絶えていた。明確に教徒を狙ったであろう司教の銃弾によって。


「おやおやなんということだ。醜き邪教徒によって一人の神聖なる子が死んでしまった」

「──ッ!!」

「だが安心したまえ。彼は少しだけ早く旅立っただけなのだ。救済は皆に等しく訪れる。そう、信じていればね。だからこそ、恐れてはいけぬ。私たちの手で、そこの邪教徒を消し去るのだ!」


 ──反吐がでる。こいつは……こいつらは、まごうことなき屑だ。

 ティアは強く睨む。だが、司教は特に臆した様子も見せない。


「睨んだところで無駄だ。灰喰らいは確かに強いが、灰が無ければ武器も創れずまともな攻撃もできないのだろう? 何せ灰喰らいの能力が無ければ貴様らはただの小娘と変わらないのだからなぁ!」


 くつくつ、と周囲の教徒たちも釣られて笑う。卑劣な笑い声と見下したような瞳。やはり、どこにいても人間は屑が多い。そして、愚かだ。


「今この場所に灰はない。諦めて粛清を受け──」


 一瞬の擦過音。遅れて『ゴトリ』という重い音が響く。


「どこに、灰がないって?」


 そう低く告げるティアの手には灰で作られた一振りの大鎌が握られている。


「無策で危険に飛び込む馬鹿はそうそういない。当たり前でしょ? それじゃあただの自殺志願者と変わりないもの」


 ティアはこの建物を既に知覚していた。だから、先に灰

を取り込み、処理はせずに体内に溜め込んでおいた。ついでにクレイのために階段も作ったが。


「ああ、そういう意味では貴方たちは自殺志願者、ということになるのかしら? 自らの愚かさに気づかず、ただ無味意味に見下して嘲笑するだけ。さらにはあの死の灰を神聖視しているというのだから、それはもういつ死んでもおかしくないものね」


 くすくす、くすくす、と笑う。だが、その声に応える者はいない。周りの教徒たちは恐怖に怯え竦み、彼らを指揮していた司教は既に首なしの死体となり果てた。床に転がる頭は醜い笑いのままで死に絶えている。


「……はぁ。全員、死にたくないなら退きなさい。さもなくばコイツと同じ道をたどるわよ」


 教徒は動かない。否、動けない。灰喰らいという人外の化け物に触れ、恐怖という感情を得てしまったから。


「まぁいいわ。私たちはここを去る。その邪魔だけはしないでね」


 大鎌を一振りして霧散させる。ティアは恐怖で固まった教徒たちの間をすり抜け、その場を後にした。

 後に残されたのは怯える教徒たちと、司教と教徒の死体。そして、中央に残された小さな灰の山だけだった。

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