第50話


 この世で最強のリラクゼーション法は一体何かと聞かれれば、僕は迷わず「風呂」と答える。それは家のバスタブでも、地域の銭湯でも同じことだが、その中でもダントツなのはやはり温泉であるように僕は思う。各種の効能が謳われ名湯と称される温泉であっても、九州の温泉地帯に湧く観光用の温泉でも同じことだ。温泉とは、人の心と体を癒してくれる女神のような存在。擬人化したらさぞ素晴らしい絵面になる事だろう。人類最大の発見と言っても過言ではない。


 その慈母の如き温泉で、僕たち自然教室生徒一行は今、この神聖な場を穢すかのように体を清めていた。


 というか、普通に風呂の時間だった。


「拓海……お前、あんまし筋肉落ちてないな」


 大輝がごしごしと体をスポンジで洗いながら言ってくる。

 確かにそこまで衰えてはいないと思うが……


「そういう大輝こそ前よりあるだろ。家で筋トレでもしてるのか?」

「まあな。部活には入らなかったし、体動かさないとなんか気持ち悪いんだよ」

「脳筋か……」


 そう言って、僕は頭から洗面器のお湯を被った。登山で流した汗や垢が流れ落ちていくのを感じる。


「あー。やばい。湯船に浸かったら溶けるかも」


 ため息とともに息を吐いていると、突然、横からブシッと冷たいものが飛んできた。


「うおっ⁉ なんだっ⁉」

「冷水シャワー。水風呂の代わりだ」


 けらけら笑いながら大輝が水をこちらに浴びせてくるので、負けじと僕もシャワーの温度を最低に設定する。


「まだ……サウナ、入ってないだろうがっ!」


 温泉なめんな! と心で叫びながら向こうに冷水を浴びせると、大輝は情けない悲鳴を上げて逃げていった。根性無しめ。


「よ、容赦ないね、結城君……」


 隣で髪にトリートメントを馴染ませていた雨宮がそんな事を言うので、僕はシャワーヘッドを持ち上げて笑う。


「雨宮も浴びてみるか? 水風呂」

「勘弁してくれ……」

「冗談だ」


 久方ぶりに仕返しができたので、今は気分がいい。この状態のまま湯船に浸かれば、とろけるような極上の風呂にありつけるだろう。

 そう思い、プラスチック製の椅子から立ち上がった。


「……僕は先に湯船に浸かってるから、雨宮も早く来いよ」


 そう言って、背後に広がる湯煙に踏み出そうとしたのだが……


「待って。一色君見なかった? さっきまでそこにいたんだけど」

「一色? ……いや、見てないけど」


 周囲を見回してみると、空っぽの洗い場にタオルが一枚落ちている。これは……


「それ、一色君のだ」

「まじ?」

「まじ」


 僕と雨宮は顔を見合わせて、同時に首を傾げる。というか雨宮肌白いな。


「……そういえば、さっき一色君が誰かとどこかに行ってたような気がする」

「トイレかサウナだろ?」

「ううん。そういう感じじゃなかった。なんだか悲痛そうな……」

「……」

「……」


 なんだろう。すごく嫌な予感がする。


「ちょっと温泉の方を見てくるよ」

「うん。お願い」


 僕は前をタオルで隠しながら、さりげなく湯船の方に近づいて行った。


「人が……いない?」


 その瞬間だった。


「確保ぉっっ!!」

「はっ?」

「「「うおおおおっ!!」」」


 多数の雄叫びが聞こえたかと思えば、突然背中に衝撃が走り、僕は湯船の中に突き落とされていた。


「ごほっ……ごほっ……何するんだ!!」


 意外に深い浴槽だったので助かったが、これがもし浅かったら……

 軽い殺意を込めて後ろを睨もうすると、左右から腕を掴まれた。


「おい!」

「許せ。これはこのクラス……いや、この学年の男子の総意なんだ……!」

「は? お前ら何言って……」


 そう言いかけた時、目の前に大きな影が現われた。


「貴様が結城拓海だな?」

「え、いや……」


 身の丈二メートルに迫るその大男は、岸壁のようないかつい顔で言った。


「答えよ!」

「あ、はい。結城です」

「よろしい!」


 大男はずん、と擬音がしそうなほどのっしりと浴場の縁に立って、僕を見下ろす。


「あの……あんた、誰?」


 腕を掴まれたまま僕が聞くと、大男は「ふん!」と鼻息荒く返事した。


「俺の名は、河原崎雅勇かわらざきがゆう! 雪菜せつな様ファンクラブの創設者にして初代会長! 本日はお前、結城拓海が雪菜様と親しくしているという噂を聞いて! 彼女に相応しいかどうか見極めに来た!!」


 なるほど。ファンクラブの奴らか……って、待て。何様ファンクラブだあ?


「……おいお前。河原崎と言ったか」

「ぬん……?」

「……なに勝手に雪菜の事を呼び捨てしてるんだ?」

「ぬ、ぬん?」

「聞いてるんだ。誰の許可を得て、その名を口にした?」


 怒りで暴走しそうになった僕を、両脇の奴らが諫めようとする。


「早まるな結城! 逆らったら死ぬぞ!」

「そうだ! 月城との関係を洗いざらい話せ! 今は呼び方なんかどうでもいいだろ!」

「どうでもいい、だと……?」


 お前ら、どこまで僕を怒らせれば気が済むんだ。

 雪菜という名前は、僕と雪菜を幼馴染として繋ぎとめていた大事な鎖! それをどうでもいい、だって……?


「ぐっ……おおおっ!」

「何っ⁉ こいつ、俺たちラグビー部の渾身の抑え込みを……っ⁉」

「この男、できるっ⁉」

「ふざけんなよぉっ!!」


 僕は火事場の馬鹿力で、両脇のクラスメイトを思い切り引きはがした。あり得ない量の水しぶきが飛んで、僕と河原崎の両方に雨のように降りかかる。

 河原崎がニヤリと笑った。


「そうか……力で勝負しようというのなら止めない。だが雪菜様の――ごふっ!」

「……黙れよ。次は無いぞ?」

「か、会長!!」

「そんなっ! ガタイだけは良くて実は握力十五キロの会長がっ!」


 湯船から飛び出してきた先ほどの二人が、僕のアッパーを喰らって伸びている会長の肩を助け起こした。


「お前ら……いや、いいんだ。確かに俺たちは間違っていたんだろう……あの方の御尊名を軽々しく口にするなど……どうかしていたんだ」

「会長!!」

「会長ぉっ!」


 僕はそれを無視して、湯船に沈んでしまったタオルを潜ってどうにか救い出した。……いや、この温泉本当に深いな。


「……結城拓海」


 顔を上げると、あごに青い痣のついた河原崎雅勇。奴は熊のように輝く瞳で僕を見た後、思い切り頭を下げた。


「済まなかった! 不意打ちどころか、あの人の御尊名を穢すような真似をしてしまって……!」

「はあ。……まあ、反省したなら別にいいけど」

「それはありがたい! やはり貴君のような男こそ、我々を引っ張っていくリーダーに相応しい人材だろう!」

「……は?」


 そして突然、河原崎はそのごつい手で僕の手を握る。とても握力が十五キロしか無い手には見えなかった。


「……結城拓海殿!」

「はあ」


 気のない返事をすると、河原崎はまたもや思い切り頭を下げる。


「俺のような軟弱者にはこの会の長は務まりません! 今ようやく思い知らされました!」

「あ、そうですね」

「そうなのです! ですのでこれからは、俺を打ち負かしたあなたが会長という事で! メンバー五十六人にはしっかりと伝えておきますので!」

「いや、は⁉ 僕無理なんだけど!」

「籍を置かれておくだけで構いません! ……皆の者! これからは、この結城拓海殿が新たなる会長だ! そして、組織名は改め、月城様を守護する会とする!」

「「「「うおおおーっつ!!」」」」


 どこに隠れていたのか、大量のむさくるしい男どもがわらわらと湧いて出てきた。どいつもこいつも雄叫びばかり上げてやがる。


「「結城! 結城!」」


 どうしてこうなった……というか、殆どうちのクラスの男子じゃねえか。雨宮と大輝はいないようだが……って、おい待て。


「……一色? なんでここにいる?」

「……結城。実はこれには深い訳が……」

「……いや。大体わかった」


 こいつらは皆、雪菜のファンクラブ会員なのだろう。総勢五十六人と言っていたか。一クラス分の人数より多い。

 ……まさかとは思うが、クラスの男子は俺と雨宮、大輝以外の全員が雪菜に……


「……いや、詳しいことは聞かないでおこう。お大事にな」

「気遣い、感謝する……」


 一色は叫ぶ男どもの中をとぼとぼと潜り抜け、浴場を出て行ってしまった。

 その背中を見送っていると、後ろから聞きなれた声がする。


「あれ、拓海。何やってんだ? 俺たちずっと露天風呂にいたのに」

「結城君。一色君見つかった?」


 振り向くと、大輝と雨宮が並んで腰にタオルを巻いている。


「……ああ。一色は見つかったよ。……ただ、今日はそっとしておいてやってくれ」

「一体何があったの⁉」


 それは言えないのだよ。雨宮。眼鏡を外したら実は美少年君。


「とりあえず、上がろう。……こいつらもうるさいし」

「いや、本当何があった?」

「ちょっとした裏組織の長になった」

「訳わかんねえ……」


 僕だって訳わからん。


「もう疲れた……早く晩飯食いたい」

「あ、ああ。分かった」

「う、うん。行こっか」


 僕たちは連れ立って、未だ熱の冷めない男たちの合間を縫うように進み、浴場を出て脱衣所に向かった。


 ……因みに、これまでの変態的なやり取りは全て全裸で行われたことを、ここに記しておく。









ネタが無かったのでネタ枠で。更新遅れて申しわけありません。







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